表裏なす赤の秘密 - 19/24

 

 日が昇ってすぐ、割れた宝石を見せに行くと、ロームは絶句して右手で目元を覆った。想像以上に思い入れがあったのか、しばらく声をあげることはなかった。

 傍らにはホルトウ侍従長に扮したコーガ様が付き添っており、侍従長らしい態度の合間に侍従長らしからぬ舌打ちが響く。イーガ団総長としても、抜けた元団員の不始末は痛恨の極みと言ったところか。変装は保っていたが、口調はコーガ様のものだった。

 

「くっそ、やられちまったじゃねぇか」

「しかもリンクが割ったという偽の噂まで広めています」

「俺様以上にやりたい放題だな!」

 

 盗難一つで王家への介入にリンクの悪評まで、まさに一石二鳥の頭の良さだ。これほどの逸材が今までイーガ団にいたのに、表立って動いてこなかったことは不幸中の幸いだったのかもしれない。

 このあとユースラと共に改めて午餐のドレスに合わせるパリュールを選ぶこと、現在インパとカスイが噂の出どころを調査中である旨をゼルダは淡々と伝える。うむと相槌を打ちながらも、ロームは半ば上の空だった。

 

「なんということじゃ……。あの夜、パリュールの箱を開けさせた時には間違いなくあったというのに……」

 

 いまだ現実を受け入れられない様子で、割れた宝石で一番大きな欠片を指の腹で撫でる。その眼前にゼルダが立ち尽くした。

 

「御父様、今なんとおっしゃいました?」

「あの夜は間違いなくあったと申した」

「違いますその前です」

 

 今の今まで、表情無く沈んでいたゼルダがにわかに色めき立つ。

 

「いま、『パリュールの箱を開けさせた』とおっしゃいました?」

「ああ、そのように申したが……」

「いったい誰に箱を開けさせたのです?」

 

 四日前の夜、私室でロームと酒杯を交わしたのはサイランだ。酔って盛り上がった二人は、リンクの知恵を試してやろうと宝物庫のパリュールを図書室の書斎へと移しに行った。これをリンク当人に見抜かれて白状したのが二日前の午前。

 ロームとサイランの悪だくみを看破した時にはまだ、ホルトウ侍従長がコーガ様の変装だとは知らされていなかった。だからてっきり宝物庫を開けたのはホルトウ侍従長だと考えていたのだが、コーガ様ならば話は大きく変わってくる。

 コーガ様に侍従長との入れ替わりを許したとしても、さすがに城全ての鍵の管理まで委ねるほどロームも愚かではない。

 

「まさか御父様がコーガ様に城の鍵を全て渡しているとは思っておりません。つまりあの夜、宝物庫の扉を開けたのは、ユースラの方の鍵だったのでは?」

「その通りじゃ」

「ですが、あのユースラが御父様のお遊びを許すとは思えません。ということはどうにかユースラをごまかして鍵を借りたとして、しかしながら一緒に宝物庫に行ったサイラン様は御父様にとって剣の師でもある。そんな方に『開けさせた・・・』などと言う言葉を使うのは御父様でも少々可笑しい……。つまりあの夜、宝物庫から図書室へパリュールを移動させた際に、御父様とサイラン様以外に別の人物がいたということでは?」

 

 普通の近衛騎士とは異なり、ロームはサイランに対して親しい友人としての態度を取っていた。それはすでに退役した者ということもあっただろうが、それ以上に長らく戦場と政治とを共にした右腕というような意味合いも含まれているだろう。それはリンクの目から見ても明らかだった。

 ゼルダの問いに対し、ロームは白いあごひげをしごきながら、大きくうなずく。

 

「ゼルダの言う通り。宝物庫にパリュールを取りに行ったのは儂とサイランと、あとカスイとインパじゃ」

 

 その言葉に、翡翠色の瞳が見る見るうちに開いていく。

 ゼルダは気色ばんでコーガ様が化けたホルトウ侍従長に叫んだ。

 

「すぐにユースラを呼んでください、確認を取ります!」

 

 ゼルダの怒りの矛先は決してコーガ様に向いているようではない。むしろ自分自身に苛立つかのように、華奢な手でドレスをぎゅっと握りしめる。

 それでもコーガ様は「かしこまりました」と侍従長らしく背筋を伸ばし、慌てて戸口から出ていった。その少々間抜けた後姿を眺めながら、リンクはぽかんとした。

 なぜ、そんな大事なことを今の今まで誰も言わなかったのか。

 窃盗が起こったのだ。一見関係のないと思われることであったとしても、事細かに省略せずに申し伝えるべきではないだろうか。それがまっとうな人としての在り様ではないだろうか。それともそう考える自分の方が間違っているのか?

 怒りを通り越して考えた末、口を突いて素直な疑問が飛び出てしまう。

 

「どうしてそのことを誰も言わなかったのですか……?」

 

 人間が一人でも動けば、状況が動くのは道理だ。だからこそ、ずっと様々な人にどうして図書室へ行ったのか、何をしていたのか聞き取りをしていたというのに。誰もロームが人を連れて図書室を訪れていたことを告げなかった。

 王だから許される特権ということも、もちろん存在はする。だが今回はその王自らが最初にお遊びに興じたことが発端だ。決して隠してよいものではない。

 困惑してゼルダを見ると、彼女は唇をギュッと噛み締めていた。

 

「リンク、ごめんなさい。これは御父様や私だから、省略された弊害です」

「どういう意味ですか」

 

 意味が分からず、食い込み気味に聞き返す。

 するとゼルダは少し考えてから、例えば、とリンクの方に向き直った。

 

「リンクの部屋に御父様がいらっしゃったことを私に伝えるとしたら、リンクは私に何と言いますか?」

「それは普通に『陛下が俺の部屋にいらっしゃった』と――」

「そう言いますよね。でも貴人の来訪に侍女侍従が付き従わぬことはまずあり得ません。私たち自身は動きづらい立場だから……しかし貴方は現に今、省略しました」

 

 あ、と。開いた口から間抜けな音が出た。

 確かに言わないのだ。王や王女の訪いがあるとき、その付き人はいわばおまけでしかない。

 さすがにロームとゼルダが連れ立って訪れれば「陛下と姫様が」と表現するだろうが、例えばそこにヤツリやリードがいたとしても言わない。彼らはその他大多数のうちの一人としてしか換算されない。顔も名前も憶えられていないし、下手をしたら付き人は人数さえあやふやだろう。

 

「確かに、言わない……」

「だから図書室の夜間警固の兵たちも『陛下がいらっしゃった』としか言わなかったし、御父様も人が付いてくるのが当たり前だと思っていたのでしょう。私も御父様が宝物庫へ行ったとき、誰が一緒にいたのか全く考えが抜けていました。完全に私のミスです……」

 

 夜間警固の兵たちも、詳しく誰が来たかを問えば詳細を話したかもしれない。しかし『王がパリュールの箱を夜間に隠しに来た』などという珍事が起こったのなら、当然『王の来訪』が最も印象的な出来事として記憶される。同行する者の情報はあえて聞かなければ、出て来づらいのは当たり前だ。

 そこまで納得はしたものの、リンクは根本的なことを思い出して疑問を呈する。

 

「でも宝石が盗まれたのは陛下が図書室の書斎へ移してから、俺が偽の盗難事件を解決するまでの間のはずです。宝物庫から図書室へ移された時のことは関係ないのでは?」

「そうじゃ、儂はあの時ちゃんと宝物庫で中身を確認してから図書室へ持って行ったんじゃぞ?」

 

 パリュールの箱が宝物庫から持ち出されたのは四日前の深夜。その後、リンクがボレッセンの後をつけて図書室の書斎にあることを見抜いたのは二日前の午前。

 その期間に、書斎の存在を知りつつ図書室に出入りした者のうちの誰かに、犯人のシチホは化けているのではないか? そう考えてここまで犯人捜しをしてきたはずだ。

 なのに、ゼルダがいま気を揉んでいるのはパリュールの箱が移されたその時のこと。

 今や遅しとユースラを待つ彼女は困惑顔の二人よそに、神経質に部屋をぐるぐる歩き回っていた。

 

「実はチガヤ様とユースラの遊びで、あることに気が付いたのです」

「相手に読ませたい本のヒントを入れる遊びですか?」

「そう、あれです」

 

 ゼルダは書棚の前へと歩みより、適当に本を二冊手に取った。両方ともロームが読みかけだったのか、本の途中にしおり紐が挟まっている。

 そのうちの片方からゼルダはしおり紐を問答無用で抜いた。あぁっとロームが潰されたカエルみたいな声を出したものの、全く意に介した様子はない。

 一冊はしおり紐が挟まった状態、一冊はしおり紐が抜かれた状態。この二冊を持ってゼルダはまっすぐ部屋の反対側にあるキャビネットまで歩いていった。

 

「チガヤ様は書付を図書室で返却する本の小封筒に入れていましたよね。でもユースラはすでに自分の部屋で書付を入れた状態で、私に本を図書室まで運ばせました」

「……どちらも該当の本を見つけた状態は同じだが、書付を忍ばせるタイミングが違う?」

「そういうことです」

 

 キャビネットに着くとゼルダは二冊とも本を置き、しおり紐がまだ挟まっていた本からもしおり紐を引き抜いてしまう。またロームが、読みかけが、と嘆いたがこれも黙殺した。

 

「つまり宝石を盗んだ方法は、あの遊びの逆なのです。図書室の書斎に移されたあとでパリュールの箱から宝石が抜かれたのではない」

「移された時点ですでに宝石は抜かれていた……?」

「どう考えても人目のある昼間に隠された書斎に盗みに入ったら目立ちますし、夜間はすべての扉の前に警備の者が立っていて入ることはできません。だとしたら箱が移動する前、あるいは発見後から全員の前で箱を開けるまでしか、宝石を抜く機会はありません」

 

 キャビネットの上には二冊、しおり紐が抜かれた同じ状態の本が並んだ。

 片方は移動する前にしおり紐が抜かれ、もう片方は移動した後にしおり紐が抜かれた本だ。だがその状態になってようやくリンクはキャビネットの上の本に触れるに至る。

 しおり紐だから外から見て抜かれていると分かるが、パリュールの箱は開けるまで中身がどうなっていたのか皆目見当がつかない。

 

「まず、パリュールの箱発見後、御父様の私室へはリンク本人が運んだので、宝石を抜いた可能性はないと考えました」

 

 ゼルダとリンクだけは誰とも入れ替わることができない。よしんば入れ替わったところで、本人ではないことがすぐにバレてしまう。退魔の騎士と封印の姫巫女の力だけは、誰にも真似ができるものではないからだ。

 だとしたら、残る盗難の機会はパリュールが宝物庫から図書室へ移動した際しかない。

 

「だから同行者を……!」

「はい。もしや御父様ご本人が偽物かとも考えましたが、そしたら私が違和感を覚えそうです。ではサイラン様かとも考えましたが、だとしたらチガヤ様を通じて秘密裏に割れた宝石を私たちに託されたのはおかしい。でもあの夜、御父様たちに同行した人物がさらにいるのなら――」

 

 そこまで話したところで、ぱたぱたと足音がした。

 随分と侍従長に急かされたのか、肩で息をするユースラがゆっくりとカーテシーする。

 

「参りました」

「朝からごめんなさいユースラ。四日前の深夜に宝物庫の鍵を貸してほしいと訪ねてきた人物を教えてください。省略せずに」

 

 いったい何を急に聞かれているのか、寝起きのユースラは目を白黒させる。それでも慌てることなく応じたのは、さすが仕事の鬼と言われる侍女長だった。

 

「あの夜、わたくしの元へ宝物庫の鍵を借りに来たのは、インパ殿と姫様に変装したカスイ殿でございます」

「私に変装!?」

「ええ、それで陛下がわがままをおっしゃられたとすぐに察しがつきました。お二人が陛下からおりを受けるのはかわいそうだし、借りにも執政補佐官のお二人なら悪さはしないだろうと鍵をお貸ししました」

 

 一息にそこまで述べたユースラを前にして、ゼルダですら頭の上にハテナを浮かべる。

 インパとカスイが同行していたことは裏が取れた。カスイがゼルダに変装していたというのは寝耳に水の事態だが、宝物庫の鍵を借りる方便のために変装したのならば話はまだ分かる。カスイもシーカー族の端くれ、それなりに変装は可能である。なによりも執政補佐官二人組みよりも、ゼルダとインパ二人組みの方がまだしも鍵を借りるにはらしく見えるだろう。

 だが、それだけでどうしてロームのわがままを見抜けるのか。まるで風が吹いて桶屋が儲かることを一瞬で見抜いたようなユースラに、さすがのゼルダもこめかみを押さえる。

 

「ちょっと待ってユースラ。順を追って説明してもらえますか?」

 

 あの夜いったい何があったのか、輪をかけて分からない。ゼルダはもちろん、悪戯の元凶であるロームでさえ困惑する。

 するとユースラは顔を上げて、おもむろに部屋の隅にいた侍従長を指さした。

 

「まず、そこなホルトウ侍従長殿がコーガ様の変装でございますね?」

「にゃにゃにゃにゃにを言って!?」

 

 侍従長が挙動不審に両手をぶんぶんと振る。もうそれが正解を言い当てたも同然で、ユースラはあきれ顔だ。

 ほか三名も、彼女の指摘に息をのむ。今まで誰にも気づかれていなかったはずだが、侍女長の臙脂の瞳はしっかりと偽物の表情をとらえていた。必死で侍従長の振りを続けようとしていたコーガ様も地団太を踏む。

 

「くそう、知っていやがったのか!」

「陛下もご承知のようなので、悪さしないかだけ見ておりました」

 

 ゼルダが町娘に変装して出かけた時もあっさりと変装を見抜いたユースラだが、コーガ様の体格や声色まで異なる変装まで見抜くとはさすがだ。これが先代王妃の時代から仕えた筋金入りの侍女かと思うと、リンクはある種の敬意を抱きつつもゾッとする。やはりユースラの目を盗むなど無理がある。

 コーガ様はもはや取り繕うのをあきらてふんぞり返る。それを横目に睨みながら、ユースラはゆっくりとゼルダの方へ視線を戻した。

 

「つまり陛下が何らかの理由で宝物庫に入ろうとしたものの、本物の侍従長殿がおられないので鍵が開けられなかった。そこで執政補佐官のお二人が陛下に命じられて、私のところに鍵を借りに来たと思いました」

「続けて、ユースラ」

「はい。しかし鍵を借りに来たのは深夜、しかもカスイ殿は姫様に変装している。これは恐らく宝物庫を開けたい理由はまっとうではない、と考えました。つまり陛下がまたぞろ悪だくみをしていると、すぐに察しがついたのです」

 

 なるほど、とゼルダと顔を見合わせながらリンクは感嘆の息を漏らす。

 深夜に訪れた人とその成りから、何が起こっているのかを見抜いた眼力はさすがだった。ただ願わくば、そこで止めてほしかったという言葉を飲み込む。

 すっかりしょげたロームへ、ゼルダが鋭い視線を投げつけた。

 

「御父様、異論はございますか」

「……ない。儂らだけでは、ユースラは絶対に鍵を貸してはくれぬ。じゃからその辺で逢引き帰りの二人を捕まえて、方法は問わぬから鍵を借りてくるように頼んだのじゃ」

「カスイ殿は『御父様とサイラン殿に式で着ける宝石をお見せしたいから』などと必死に姫様の振りをしておいでで……。本当に、お二人とも困り果てておいででした」

「ああ、でしょうねぇ……」

 

 情景がありありと瞼の裏に浮かんだ。

 四日前の夕刻、早めに仕事を終わらせたインパとカスイは、つかの間の休みを楽しんでいたはずだ。そこを娘のこととなる見境のなくなるロームに捕まって、どうにかして宝物庫の鍵を借りてこいと無理難題を吹っ掛けられたのだろう。哀れにもほどがある。

 しかしそれが『二人が本物であったなら』という前提は、すでにゼルダによって崩されかけていた。

 

「でもゼルダ様、侍女長のお話が本当だとすると、シチホに入れ替わられている人って」

「ええ、宝石を抜いた犯人はインパかカスイのどちらかに変装しています。でもどちらなのかは、これだけでは分かりません……」

 

 ゼルダの声に焦りの色が浮かんだ。

 犯人の仕掛けた噂の出所を確かめるべく、二人とも出払ってしまっている。しかもそのどちらかが噂の出所本人で、もう片方はそれを知らずに行動を共にしている。あるいは行動を共にするもう一人の命を狙っていないとも限らない。

 シーカー族の隠密がどこをどう動いているのか、ゼルダですら全て把握できているわけではなかった。惜しむらくはあの時、どんな心当たりがあって任せてほしいとインパが言い出したのか、具体的にどこで何をするのか聞かなかったことだ。

 どうすれば、どうしたら二人のうちのどちらが犯人の変装だと分かるのか。

 どこか頼りない雰囲気ながらも、実直に自分の仕事の補佐をしてくれたカスイの横顔を思い出しながらリンクは歯噛みする。同様に、長らく共に戦い抜いてきたインパのことを思ってか、ゼルダも口元を抑える手が震えていた。

 そんな緊迫した部屋の片隅で、すっかり変装することを諦めたコーガ様が「なぁ」とあけっぴろげな声を上げた。

 

「侍女長さんよ」

 

 急に声をかけられたユースラは、乱暴に文机に座っていたコーガ様に半眼で応じる。

 

「なんですかコーガ様」

「俺様の変装を見破ったってことはよぉ、他のイーガ団の変装も全部分かるってェことか?」

 

 べろりとはぎ取ったホルトウの顔の上に、どこからともなく取り出したイーガ団のお面をかぶせた。ぴょこりと飛び出たちょんまげをゆっさゆっさと左右に揺らしながら、もはや用済みとなった侍従長の皮をも脱ぎ始める。

 その珍妙な変装過程を矯めつ眇めつしながら、ユースラはしばらく考えてから首を横に振った。

 

「悪魔の証明になってしまうので、全ての変装が見抜けるかどうかという問いには『分からない』とお答えするほかございません。ですが少なくとも今現在、姫様の周辺で変装しているのはコーガ様、あなただけです」

 

 その言葉に、ゼルダとリンクは同時に顔を跳ね上げた。

 

「他にはいないのですか?」

「私の分かる範囲ではおりません」

「本当に?」

「もしいれば、陛下と姫様の安全のため、真っ先にその者を排除いたします」

 

 至極もっともな道理だ。ユースラは当然の顔をして、できればこちらも排除したいという視線でコーガ様を再度にらむ。

 しかしそれではつじつまが合わない。

 ゼルダの周囲の何者かにシチホは変装して入れ替わって潜伏し、パリュールの箱からネックレスを盗んだという話だ。もしユースラの言う通り『誰も変装していない』が真ならば、今まで念頭に置いていた『犯人が誰かに変装して入れ替わっている』という情報そのものが嘘になる。

 ユースラがシチホの変装を見落としているのか。

 シチホの情報を持ってきたコーガ様が嘘を吐いているのか。

 リンクは脳内でユースラとコーガ様を信頼度の天秤にかけ、反射的にさかさまのシーカーマークを見据えて背に佩いた剣の柄に手を伸ばす。その意味を十二分に理解しているイーガ団総長は舌をもつれさせながら、手と首とを同時に横に振った。

 

「ううううう嘘なんかついてないぞ!? スッパが調べたんだ、嘘なもんか!」

「それも本当かわからない」

 

 今や表立っての敵対こそしていないが、イーガ団はもともと反ハイラル王家を掲げる武闘派集団である。共闘したことがあったとしても、軽々に信じた自分に苛立ちながらリンクは赤い装束の影に向けて大きく一歩踏み出した。ひぃと情けない悲鳴が響く。

 あともう一歩前に出れば、退魔の剣の切っ先が届く。許しさえあれば王の御前であっても容赦するつもりはない。

 ところが許しの言葉の代わりに、歩みを止めるように手で遮られる。その手の甲には正三角形を三つ連ねた光が輝いていた。

 

「待ってくださいリンク。コーガ様の情報はおそらく、嘘ではありません」

「……では侍女長殿が?」

「いいえ、ユースラの言葉もまた嘘ではありません」

「しかしそれでは……!」

 

 一体どういうことだ。何が嘘で何が真で、誰が本物で誰が偽物なのか。もはや何が何だかさっぱりわからない。

 救いと説明を求めるようにゼルダの顔をうかがうと、彼女の瞳は茫洋とここにはいない誰かを見ていた。

 

「二人の言葉がどちらも正しいのなら……、もし誰も変装していないにもかかわらず、私たちの身近にシチホがいるとしたら可能性は一つ。それは変装の達人『シチホ』の本当の顔が、私たちの知る執政補佐官『カスイ』であった場合です」

 

 シチホは最初から誰にも変装などしておらず、誰とも入れ替わっていなかったとしたら。

 先ほどのコーガ様のように、べろりと剥がれた嘘の顔の下に求めていた犯人の顔が、リンクの脳裏で見知った補佐官の顔になる。いやむしろ、カスイの顔の上にシチホという得体のしれない謎の人物が仮面を幾重にも重ねていたという事だろうか。

 逆にインパがそうであるという可能性が脳裏をよぎったものの、リンクは一瞬でその考えを自分で否定する。インパはシーカー族の中でも族長家の血筋、それは姉プルアの存在もあって確たるものとして幼い頃から認識されている。彼女には『シチホ』としてイーガ団の中で立場を築く機会はない。

 

「そのようなことがありうるのか……?」

 

 リンクの執政補佐官となる以前、カスイに補佐をされていたロームは娘の言を信じられない様子で唸る。ゼルダも自らの考えが信じられないのか瞬きもできず、声を絞り出した。

 

「だってコーガ様も、シチホの本当の顔は見たことが無いのですよね?」

「……ああ、俺様もシチホの変装した顔はいくつも見てきたが、本当の顔は知らねぇ。だから逆に、本当の顔が目の前にいても気づけねぇなぁ」

 

 なるほどこれは盲点だった、とコーガ様は腕組みをする。

 

「俺様たちイーガ団の方には変装の達人『シチホ』として素顔を見せないように振舞っていれば、潜入先のハイラル城で素顔を晒していてもバレねぇ。逆にハイラル城では常時素顔なら取り繕う必要もなく、身分も役職も事実が積み上げられて『カスイ』はどんどん疑われなくなっていく……」

「そして何より、私が苦しむところを本当に身近に見続けられます。……だって執政補佐官としての『カスイ』は間違いなく本物なんですから! 正体を偽った敵としてユースラに排除されることもありません!」

 

 あの飄々とした、しかしながら優秀な執政補佐官が、裏ではイーガ団として動いていたと考えると胸やけがするようだ。本当の顔が執政補佐官の方だったと頭では理解できても、心の方では容易に消化することが出来ない。

 いやむしろ、とリンクはこめかみを押さえる。

 変装の天才『シチホ』も、あるいは執政補佐官『カスイ』も、どちらも真であり偽であると考える方がしっくりときた。いくつもの顔を持つ彼がその実、正体など持たない人物なら、ゼルダの推理はすんなりと理解することができた。

 だとしたら次は、このことをインパに伝え、彼を捕縛する方法を考えなければならない。だが二人はシーカー族の裏道を使って移動しているのだろうし、下手をしたらインパは警戒して配下の者に知らせていない可能性すらある。

 ともかく今、事情を話して動いてもらえる他のシーカー族はいないのかとゼルダに問いかけようとして、彼女が言葉を告げずに身をひるがえしたことに驚いた。

 

「ゼルダ様、どこへ行かれるのですか」

「ごめんなさい、貴方には告げられません!」

 

 金の髪を振り乱しながら振り向いたゼルダの声が、ひどく焦燥にかすれていた。

 インパはカスイを同じ執政補佐官として、シーカー族の隠密として、あるいは心を許した婚約者として信頼している。今もまた、リンクを貶めるべく発された噂の出所を調べるために、彼に背中を預けていることだろう。その彼が犯人その人であるとも知らずに。

 危険すぎるところへ、まさかゼルダ一人行かせられるわけがない。そういうことが許せるリンクではないことも、ゼルダ本人は理解しているはずだ。

 それなのになぜ、そんな無茶を言うのか。

 怒気に近いものが溢れる寸前、見返した彼女が必死に目で訴えていた。それで一気に頭が冴える。

 

――俺には、知りえない領分のことか。

 

 王家には古来よりの様々な秘密がある。それは婚約者であろうと例外ではなく、すでに王家の一員として民には認識されつつあるリンクでも、正式に成婚するまでは明かされることはない。

 

――だが秘密は中身を知らずとも、そこに秘密があると分かれば踏み込むことは出来る。

 

 『直接言えなかったら、そのように振舞ってください。頑張って気付くようにします』と言ったのはつい先日の事。ゼルダの必死の視線は、まさしく気づいてくれるよう、踏み込んでくれるようにという無言の叫びだった。

 王の目、侍女長の目、古来よりの敵対者の目。

 いずれの目にも気づかれることなく、彼女の言わんとしていることを理解するにはなんと言葉を紡げばよいのか。背に冷や汗が噴き出るの感じながら、リンクはある人物を思い出して小さく口を開いた。

 

「ではシークを、遣わして頂けますか」

 

 聞き覚えのない人の名前に、ロームとユースラは少しいぶかし気な顔をした。コーガ様だけはわざとらしくリンクとゼルダの二人を何度も見比べていたが、誰も彼の言葉に口をはさむことはなかった。

 ゼルダは詰めていた息を大きく吐き出して、明確にうなずく。その顔には言いしれない安堵の表情が浮かんでいた。

 

「ではリンクは例の東屋のところで待っていてもらえますか」

「分かりました」

 

 二人で同時に部屋をでて、逆の方向へ歩き出す。互いに一瞥もしなかった。

 走る勢いで私室へと駆け込む。何事か目を丸くするリードには絶対についてこないようにと言い含めて庭に出た。

 そこにはすでにシーカー族らしき人影があった。以前、夜の暗がりに立っていた姿と同じ、シーカー族にしては珍しい金色の髪で、口元から胸元までを布で隠していて性別は定かではない。だが本日、ようやく降り注ぐ時刻となった日の光のもとに輝いた瞳は、まだ翡翠の色をしていた。

 その目がゆっくりと一回閉じ、次に瞼を持ち上げたときには真っ赤に。インパと同じシーカー族らしい燃えるような赤い瞳になっていた。

 

「これでは侍女長殿も気づかれないでしょうね」

「これは変装ではなく、古の姫君が魔王の手から逃れるためシーカー族に変じた際に使われた魔法……なのだそうです。科学論者の私には非常に信じがたいことですが」

 

 と、彼女は、元の人を思い出せぬような低い声色で答える。ただし、口調はゼルダのそれであった。

 ああ、やっぱりなとリンクは焦る思いを隠して、騒ぐ胃の腑のあたりを撫でつける。

 シークはゼルダ当人だったのだ。

 しかし目の色、声の調子、体躯まで変装するのは尋常ではない。変装という言葉で片づけるには難しいその変化を表すには、ゼルダと言えども魔法という言葉を使わざるを得なかったのだろう。妙に悔しそうな表情に辛うじて彼女の面影のかけらが見えたような気がした。

 

「今はシークと呼ばせていただきますね。シークは、インパの場所が分かるのですか?」

「それについては、行きながらお話します」

 

 彼女は軽く足を滑らせるように、音もなく走り出した。慌ててその後ろを追いかけながら、リンクは目を白黒させる。シークの動きはまるで隠密そのもので、まさかこれほど動けるように鍛錬していたことに驚愕する。これは一日や二日で身に付けられる動きではない。

 ところが彼女は隠していない右目を笑わせた。

 

「この魔法は姿を変えるだけではなく、鍛錬せずともある程度は軽妙な動きが出来るようにもなるのです。ただ、反動があるのでそう長時間は無理ですけど」

「反動?」

 

 小さな足掛かりを飛び跳ねるようにして、シークは人の背丈の倍はある石壁を易々と登った。

 魔法というのは不可能を可能にする術の類かと思っていただけに、思わぬ言葉にリンクは頬を強張らせながら後に続く。まさか悪い副作用でもあるのなら、無理に動かなくていいと言いかける。ところが意外な返事で肩から力を抜いた。

 

「……筋肉痛です」

「なるほど」

 

 笑いを噛み殺すと、ちらりと横目で睨まれた。

 二人は歩哨の死角を突き、人目の隙間を縫うように走った。そうしてハイラル城の一番東側にある小高い塔へ上ると、シークは東を指さす。

 外堀を挟んで向こう側にうっそうと緑の生い茂る森林公園が見える。シークの丸くしっかりとした指先は、確かに公園を指していた。

 

「シーカー族同士が連絡を取り合う際に使う場所なんだそうです、インパに教えてもらいました。……もしシチホの動向を調べたいのなら、シーカー族の振りをして一族の中に溶け込みながら情報を集めた方が良いだろうということで」

「一つ確認したいのですが、いったいシチホは誰に何をそそのかしたのですか?」

 

 今までリンクの問いにシークが答えたことは二つ。

 シチホが誰かをそそのかしたこと、知りたいのはそそのかした理由。誰に何を、という情報が語られたことはなかった。

 だがシークがゼルダ当人であるのならば、さすがに見て見ぬ振りというわけにもいかない。彼女が自力で理由を知りたいと願うほどとは、並々ならぬ思い入れの強さだ。生け捕りまで所望されている。

 朗らかな日の光が次第に雲に遮られ、森林公園の樹冠が生ぬるい風にゆっさりと揺れた。それをきっかけに、ゼルダは固く閉ざしていた口を割る。

 

「シレネをそそのかしたのが、シチホという情報を掴んだのです」

 

 ああ、とリンクは小さく応じた。

 それは確かに人の手に頼らず、ゼルダが自身で知りたいと願うはずだ。責められようはずもなかった。

 王家の遠縁にあたる公爵令嬢であったシレネが連続殺人事件を起こしたのはおよそ一年前の事。ゼルダを女神と崇拝し、彼女と婚約するリンクを『女神を汚す者』と称してシレネは罠に嵌めて貶めようとした。それがすべて失敗に終わったことを悟ったシレネは、ゼルダを道連れに自決しようとして結局一人で死んでしまった。

 だがあの事件の後、誰もが口を揃えて同じことを語った。

 

『あのシレネ様が、なぜそんなことをなさったのか』

 

 シレネのことを多く知らなかったリンクですら、それは同様のことを感じていた。

 シレネはゼルダの純潔を守りたいという理由だけで二人の人を殺めた。それは決して許されることではない。しかしながら人づてに聞くシレネという女性像からは、全く想像のできないことだった。よしんば思いつめたところで、それが殺人という形に発露するような人とは思えなかったのだ。

 いかにして公爵令嬢シレネが、連続殺人を起こすほど思いつめていったのか? これは俗っぽい大衆紙でいまだによく取り上げられる、下世話だが人気のある話題だった。

 そこにシレネを煽っていた人物の存在が示唆されたとしたら、知りたいと願ってしまうのが人間というもの。ましてやゼルダは、シレネを血の繋がった姉妹のように大事にしていた。人任せに出来ない気持ちもよく理解できる。

 それでも相槌を打った後、リンクはぐっと黙り込んでしまった。

 

「怒ります……?」

 

 真っ赤な瞳が不安そうにリンクの顔を覗き込んでいた。

 瞳の色こそ違えど、それは確かにゼルダのもので、こんな風にしょんぼりとされては怒るに怒れない。だが怒っていないと答えることもまた難しい。

 しばし逡巡してから、リンクは縦にも横にも頭を振らずに答えた。

 

「今は置いておきましょう。それよりもインパが何をしでかすか、そちらの方が心配なのでしょう?」

「……はい」

「ならば急ぎましょう」

 

 まるで破った約束を謝罪するかのように、浮いた小指にシークの指が絡まる。指先は固く、まるで老練な武芸者のようであったが、温かくも不安に震えているのは確かにゼルダの手だった。