「会いに来てくださってよかったわ。実はゼルダ姫様にこれをお渡ししようと思っていたところだったの」
訪ねていくなり破顔したチガヤは、ゼルダが話を始める前に一冊の本を差し出す。それは建設中の学校から帰ってくる道々で彼女が買った『騎士王物語』の本だった。
ヤツリによれば少々刺激が強いらしいその本を前にして、ゼルダは硬直する。だが明後日には義理の母となるチガヤから直々に手渡されては、受け取らないわけにもいかない。ごくりと生唾を飲み、ある種の覚悟を決めながら受け取るゼルダに、チガヤはやけに真剣な面持ちでうなずいた。
「ええ、確かにゼルダ姫様には刺激が強いかもしれません。でもこれは貴女こそ読まねばなりませんわ。……リンク殿はそうねぇ、ゼルダ姫様が判断なさって。読むべきと思ったらお渡しになればいいわ」
その差はいったい何なのだ、そこまで言われると逆に内容が気になる。
普段は物語など読まないリンクも、なるべく平静を装いながら表紙をちらりと覗き見た。よくある男女の恋愛もののようにも見えたが、表紙だけではどうしてゼルダが読むべきなのかは分からなかった。
サイランは出払っていて、幸いにも部屋にはチガヤ一人であった。午前中に白土を持って行った煉瓦職人のところへ呼ばれて行ったらしい。
おかけくださいませ、と言われてフカフカの椅子に腰を落ち着けるも、これから切り出す話を考えると落ち着かない。情けないことだが、いまだこういう駆け引きは圧倒的にゼルダの方が上手いため、リンクは黙って隣で拳を固く握りしめていた。
そんな二人を見比べて、チガヤは穏やかに目を細める。
「私が図書室に通っている理由を調べに来られたのですよね」
あまりの唐突な言葉にリンクは面食らって目を見開いた。ゼルダは表情こそ変えなかったが、ひくりと指先を震わせる。
もしチガヤが偽物だったとしたら正面切って問い詰めたところで、真実が出てくるとは思えない。そこでゼルダは、こういった駆け引きが苦手なリンクをあえて伴って、ご機嫌伺の体を装って面会を申し込んだのだ。
ところがまるで見透かされている。そのことに少なからず動揺した二人が答えに窮するも、チガヤは気にした素振りも見せず「そういえば」と言葉を続けた。
「ここへ来た初日に図書室へ行くところを、お二人には見られましたものね。確かに、書付をもらって急いでいったら怪しいと思われても当然です」
「あ、あの、チガヤ様」
「気に病まれることはありません、盗まれたのはお母上の大事なネックレス。関わりある全ての人を調べるのは当然のことです」
チガヤはいつもと変わらず朗らかな顔をしていた。
もちろん、本当に彼女がチガヤ本人なのかはいまだ分からない。目じりに刻んだ柔らかな皺が、変装の切れ目なのか本物の皺なのか区別はつかない。しかしながらこの言動を前にしては、さすがに疑っていないなどと、あからさまな嘘はつけなかった。
ああ、とゼルダが長い息を吐く。
その息と共に、装っていた静穏がはがれ、警戒心が露わになった。居ずまいを正して厳しい表情をチガヤに向ける。
「不意を衝こうとしたこと、お詫びいたします」
「それが普通ですよ。お気になさらず」
「では、チガヤ様が何度も図書室に立ち入られた理由を教えていただけますか? 貴女は初日に一冊借りて、それを翌日返したときには本を借りず、さらに次の日にまた別の本を借りていらっしゃる。しかも借りた本はお好きだとおっしゃっていた物語ではない。これは不自然です」
城到着初日夕方に借りた本は『古シーカー族の生き方』、古のシーカー族の哲学書であった。翌朝にはすでにその本を返却し、しかしその時には何も借りずにさらに次ぐ日になって『龍の流刑地の謎』という、こちらは歴史学に近い本を借りている。借り方も妙だし、城下の本屋で「物語が好き」と言った彼女の言動とも食い違う。
それらを指摘されたチガヤは、少し考え込んだ末に立ち上がった。
「本の種類までお調べになっているのなら、何をしていたのか実際を見ていただいた方がきっと早いわね。お二人とも、今から一緒に図書室へ行くお時間はありますか」
「大丈夫ですが、……チガヤ様は図書室で本を借りていたのではないのですか?」
「実はユースラ侍女長とちょっとした遊びをしていたの」
「ユースラと?」
チガヤはリンクを手招きする。置いてあったのは彼女が昨日に借りた『龍の流刑地の謎』だ。表紙をしげしげと眺めながら、チガヤは申し訳なさそうに渋く笑った。
「まさかこんな事件になるとは思っていなかったから、変な誤解を与えてしまいましたね。リンク殿は本とこれを持っていただける?」
はいと答える前に本を渡され、さらにその上に白い布に包んだ何かを乗せられる。何を渡されたのかとリンクが布の端を持ち上げると、中には真っ黒な塊があった。
「……木炭?」
「遊びに必要な道具です」
木炭で何をするのですかと問おうにも、口元に一本指を立てる身振りをしてチガヤはゼルダと一緒に部屋を出ていく。その手には小さく切った紙が握られていた。
彼女の侍女はただ見送るだけで、ついては来なかった。ゆっくりとした歩調で並んで歩く二人の後ろを、リンクは黙ってついていく。
「ユースラとは、実は五十年来の友人なのです」
王城の廊下、赤い絨毯の敷かれた上をまっすぐに行くチガヤの横顔は、ともすれば屈託のない少女のようにも見えた。瞳がわくわくと輝いている。
ゼルダは翡翠色の目を丸くして、まぁと口元に手をやった。
「それは存じませんでした。五十年もお付き合いがあるなんて、とても仲がいいんですね」
「うーん、仲がいいのか、悪いのか……少なくとも本の趣味は全く合いませんね。私は昔から物語や文学が好きだし、ユースラは民族史とか哲学書が大好きですから」
「でも、ご友人なのですか?」
「ええ、間違いなくユースラは私の一番の友人です」
趣味は合わないのに友人とは難しいことを言う。リンクがかすかに首をかしげていると、同じことを思ったのか同意を求めるように振り向いたゼルダも似たような表情をしていた。顔には「どういう意味でしょう」と書いてある。
不思議そうに顔を見合わせる二人を見て、チガヤはふふふと笑った。
「お互い、同世代とのお茶会を嫌って図書室に逃げる似た者同士だったのですよ。かといって相手に声をかける勇気は持てず、ちらちら様子を見ているだけ。最初は名前も知りませんでした」
たどり着いた図書室の扉をリンクが押し開けると、チガヤは本を返さず、まず先に書架の方へ歩いて行った。もちろん彼女が入っていったのは文学の並びだ。
借りた本を先に返して身軽になってから次の本を探せばよいものを、返却する本をリンクに持たせたまま本の背表紙とにらめっこを始めてしまう。
「でもいつも見かける彼女のことがとても気になって、ある時試しに彼女が返した本を借りて読んでみたんです。彼女が読んだ本を読んだら、どんな人なのか分かるんじゃないかしらと思って」
「ユースラのことを知るために?」
「ええ、目次の並びから見返しから表紙の裏まで、隅から隅まで必死に読みました。でも哲学書なんてちっとも面白くなかった。それが逆に悔しくって、何度も彼女の借りた本を借りました」
なるほど、とすぐに相槌を打ったゼルダに対し、リンクは理解に一拍以上の時間を要した。例えば剣筋や武器から相手の性格を読み取るようなものだろうか、と考えてみて、ようやく納得に至る。
豪胆なダルケルの剣筋は鋭く直線的だが、慎重なウルボザの剣筋はなめらかで曲線的だ。二人とも種別としては同じ剣を扱うが、ダルケルは重量のある大剣だし、ウルボザは曲刀の片手剣に盾を構える。手合わせすればその性格、技量を垣間見ることも不可能ではない。
読書家にもきっと似たような感覚があるのだと思っていると、チガヤは目星の一冊を見つけ、書架から丁寧な手つきで本を取り出した。それは先ほどゼルダに渡した『騎士王物語』だった。
「それはもうお持ちの本では?」
「そうよ。面白かったので、ぜひユースラにもおすすめしたいと思ったのです」
チガヤが借りた二冊の本はユースラの好みの本。チガヤがいま取り出したのはユースラにおすすめしたい本。
彼女たちが何のために図書室に頻繁に出入りしていたのかを察したリンクは、しかし実際の方法はまだ分からずにじっと彼女の手元を見ていた。しわがれても品の良い手が裏表紙を開き、小さな封筒に入った図書カードを確認する。カードの内容にサッと目を通すと、本自体は読まずに閉じて背表紙を見た。
そこでようやくチガヤはリンクを手招きして、持たせておいた木炭を受け取った。そうして『騎士王物語』の背表紙に記された数字と文字とを、自身が持っていた小さな紙に書き写す。
「九百十三……?」
チガヤが書き写した数字と文字は六桁の数字と『913D』というものだった。
図書室の本には全てこういった数字と文字が書かれている。恐らくそれは本の場所なりを表すものだと漠然とリンクは知っていたが、正しくそれがどういうものであるのかは調べたことがなかった。そのことを察したのか、ゼルダが首を横に振る。
「リンク、これはきゅう・いち・さんと読みます。913は分類記号、Dは作者『ジギー』の頭文字、六桁の数字はこの図書室に所蔵された際の受け入れ番号ですね」
「つまりこの数字と文字だけで、どの本か分かる?」
「理論上は。ですがこの分類記号の本が、どの書架にあるかを把握していなければなりません。慣れない人には探すだけでも大変なことだと思いますよ」
だろうな、とリンクは天井まで伸びた書架を見回した。
図書室に通い詰める読書家ならいざ知らず、リンクのように用事がなければ本など読まない人にはパッと数字を言われたところでどこにある本と分からない。ことあるごとに図書室に駆け込むようなチガヤとユースラだったからこそ成立した遊びだったのだろう。
チガヤは『騎士王物語』の分類記号と作者の頭文字、六桁の受け入れ番号を記した小さな書付を、『龍の流刑地の謎』の図書カードを入れる封筒の奥深くに入れた。そうしてようやく返却台の方へと持って行ったのである。
「お二人の遊びって、この分類記号の本を探すことですか?」
「ええ。何度も彼女が借りた本を追うように借りていたらある時、貸出カードを入れる封筒に分類記号と受け入れ番号が書かれたメモが入っていることに気づいたのです。これはきっと彼女からの挑戦状だと思って、以来私たちは自分の読んだ本の封筒の中に、相手に次に読ませたい本のヒントを入れるようになりました。これが五十年も友人でいられた秘訣かもしれませんね」
ようやく身軽になったリンクは、いずれ司書の手によって書架に戻る予定の本を見た。この本が書架に戻ったら、次はユースラが小封筒の中の書付を見て、指定された本を探すというわけだ。
チガヤはまず、ユースラに読ませたい本のヒントを書いた書付を、自分が返す本の貸出カードを入れる小封筒に隠す。その本が書架に戻ったところで、ユースラが書付を見て次の本を探して借りる。ユースラが読み終わったら同様に、次にチガヤに読ませたい本のヒントを小封筒に隠して返却する。
当然、途中で書付が見つかって捨てられてしまえば遊びは続かない。だが普通の人は貸出カードを入れる小封筒の奥など覗き見ないだろうし、実際に彼女たちはそういった幸運の上で遊びを続けてきたわけだ。
「こうやって私とユースラは、互いに相手に読ませたい本を指定し合う遊びをずっとしていたのです。でも旦那様が近衛騎士を辞して領地住まいになってからは、できなくなっていましてね……」
「それが今回、久々に復活した、と?」
「そうなの! ハイラル城へ来た当日の夕方に、下男が『前回の最後に指定した本を見て』という書付を持ってくるじゃありませんか。私は嬉しくなってしまって! それで慌てて本を探しに行ったのですよ」
城下町から滞在している城へ戻ってきていたとはいえ、確かに夫であるサイランを置いて一人で図書室に行ってしまうチガヤは少々妙ではあった。誰かに呼び出されてというのはあながち間違いではなかったということだ。
同時に妙に嬉しそうに図書室に入っていくユースラの後ろ姿にも納得がいく。あれはユースラもまた、チガヤとの遊びが楽しみでたまらなかった後ろ姿だったというわけだ。
そこまで話を聞き、リンクはハッとする。
「もしかして、猶母殿が以前ユースラ侍女長に読ませた本、つまり今回最初に図書室で確認した本は『ゴングル山冒険譚』でしょうか?」
「まぁ正解よ! でもどうしてリンク殿がご存じなの?」
チガヤはくりくりとした目を輝かせ、一方のゼルダは小首をかしげた。
「その本のタイトル、どこかで……」
「一昨日の朝、侍女長殿がゼルダ様に返却をお願いした本です」
「はっ、そういえば!」
三日前の朝、つまりチガヤがハイラル城に到着する直前、ゼルダはリンクと共に図書室に本を返却しに行った。その際にユースラが図書室に返し忘れた本も、ゼルダがまとめて返した。
つまりあの時点でユースラは返却予定の『ゴングル山冒険譚』に、次に指定する『古シーカー族の生き方』の分類記号と受け入れ番号の書付を入れておいたことになる。ゼルダはそうとは知らず、まんまと書付入りの本を図書室に返しに行ったというわけだ。
「では私が図書室に持ち込んだ時点で、ユースラはすでに書付を入れていたと!?」
「次に読ませたい本が事前に分かっていれば、事前に小封筒に入れることはできますからね。己が主を運び屋に使うとは、ユースラも図太いことしますね!」
ほほほと軽やかに笑うチガヤに、リンクは思いもよらぬしたたかさを見て驚いていた。
書付が見つかって捨てられてしまえばこの遊びは続かないし、借りもしない書架でこそこそ書付をしていては不審がられる。よしんば見つからなくとも双方の貸出記録を見れば妙であることはすぐに分かる。
やはりユースラとチガヤは似た者同士。その豪胆さが長らく続く友好の理由ではと言いかけたが、言うは無粋かと口を噤んだ。
ここまでの話を聞いてみるに、もしチガヤが犯人と入れ替わっているとしたらユースラが気付くであろう。あるいはユースラが犯人と入れ替わっていたら逆もまた然り。二人同時に入れ替わっている可能性は否定できないが、今のところ犯人は一人と聞いている。この一件はユースラに裏を取るとしても、この二人は恐らく変装ではないと結論付けた。
そこへ図書室に似つかわしくない慌ただしい足音が聞こえてくる。
「奥様!」
「どうしたのですか、図書室はお静かに」
私室にてチガヤを見送った侍女が息を切らして駆けてきた。
怪訝そうに侍女を睨む者もあったが、彼女は乱暴に頭を振ってチガヤの腕を引く。
「旦那様が! 旦那様が帰ってくるなりお倒れに……!」
その言葉を聞いたとき、一瞬リンクの頭には侍女の言うところの『旦那様』が誰なのか分からなかった。しばらくして『旦那様』が、猶父のサイランであると気付いた時にはすでにチガヤの手を引いて、逗留している部屋へ走りだしていた。