厄災は封印されました - 1/2

 絹を引き裂くような悲鳴で目が覚めた。まだコッコも鳴かない早朝のことだ。

 俺はその悲鳴の主がどんな身分の方なのかも忘れて、階段を一段飛ばしでインパの屋敷の2階へ駆けあがる。あの人が怖がることはもう何もない、そのはずなのに響く叫び声にギリっと奥歯を噛む。

 イーガ団が来たか、あるいは厄災の欠片でも生き残っていたか。鞘を掴む手が硬く汗をかいた。

「姫様!」

 しかしながら、木の引き戸を開けた先には自分の主の姿しかなかった。

 シーカー族が寝るときに着る白い前合わせの寝巻姿の姫様が、冷たい板の間にへたり込んでいる。肩で息をして、翡翠色の瞳が恐怖に怯えながら部屋の四方を探っていた。

「どうなさいましたか?」

「リンク……?」

 厄災を封じ、泥だらけで気を失った姫様をカカリコ村に運び込んだのがつい一昨日のことだ。それからインパとパーヤの世話を受けながら、浅い眠りを繰り返している姫様に、俺は何も出来ることがなかった。姫様じゃなくても女人の世話に、俺の出る幕が無いのは分かっている。だから剣を抱いてインパの屋敷の一階で、お顔を見られるようになるまでずっと待っていた。

 それがようやくインパから、眠りが安定してきたので時機に会えると言われたのが昨晩。丸2日、姫様の世話をしていたインパとパーヤは、昨晩久々の床についたところだった。他のシーカー族の女性が今は寝ずの晩についているはずだが、どうやら間が悪く小水に立ったところだったらしい。

「姫様、何かありましたか」

「い、え……? リンク、なぜ?」

「なぜとは」

 先ほどまで震えながら部屋を見回していた姫様は、今度は俺のことを穴が開くほど見つめていた。信じられないものを見るように、俺を凝視している。

「なぜあなたが、ここに?」

 怯えの矛先が俺に変わった。

 得体のしれない物から身を護るように、姫様は衣の胸元をかき寄せる。足腰の立たないまま、戸口に立つ俺から距離を置くようにじりじりと逃げた。

「これはそう、また夢ですね。場所や雰囲気を変えて、再び彼の姿で私を翻弄するつもりなのでしょう」

「姫様」

「でももう騙されません、ガノン。彼の姿をどれだけ真似ようとも、もうすぐ本物の彼があなたに剣を突き立てに来ます」

「俺はガノンじゃありません姫様、本物です」

「止めて、近づかないでください!」

 突き出された御手が輝き、真昼のような光が小さな部屋に溢れた。

 でも俺は、当然のことながら光に掻き消えたりはしない。温かな光はむしろ俺を守る物で、心地よいとさえ思った。だから光に消し飛ばない俺に呆然とする姫様の前に膝をつき、早朝の冷気で冷え切った手に触れる。

「厄災は封印されました」

「……リンク、…………本物?」

「本物です。夢と勘違いされましたか」

 瞬きを忘れ、姫様はしばらく俺を見つめていた。

 音無く零れ落ちた涙が膝に染みを作る頃、ようやく戻ってきたシーカー族の女性に訳を言って姫様を頼んだ。その間、姫様は言葉を忘れたように押し黙っていた。

「おそらくガノンの胎の中に長らく在ったことが原因であろう。夢とうつつの境があいまいになって、部屋に飛び込んできた其方をガノンの幻と勘違いしたのじゃ。姫様に他意はない」

「そんなの分かってる」

 インパの説明は尤もだったし、言われなくても何が起こったのかぐらいは察していた。

 ガノンは百年もの間、姫巫女の心をあの手この手で折ろうと必死だったに違いない。そのために俺の幻を見せても何も可笑しくはない。分かってる。

 全部分かったから、自分に腹が立った。

 俺がもっと早くに目覚めていたら、姫様がこれほどまで心に傷を負うことも無かったかもしれない。助け出した時、ぱっと見はどこにも外傷は無かったのでほっとしていたが、見えないところの傷にまでは考えも及ばなかった。

 ご無事だと安心していた自分に腹が立つ。

「悪夢をどうにかする薬とかはないの? あるなら何でも取ってくる」

「いずれ時と共に朝が来る。さすれば悪夢も覚めよう」

「日にち薬か」

 時の流れがいずれ心の傷を癒すとは理解できても、待つだけしかできないのが辛かった。回生の眠りで堪え性は置いてきてしまったのかもしれない。

「じゃあ今度、気晴らしにどこかにお連れしても?」

「体の方が大事無ければな。もう少し大人しく待っておれ」

 今はまだ歩くので精一杯の様子だったので、もう少し体が回復したら白馬を連れてきてあげようと思った。同じ馬ではないがあれほど見事な白毛の馬はあまり類を見ない。少しでも姫様には心安らかで楽しい日々を送っていただきたいから、そのためならば何でもするつもりだ。

 でも「近づかないでください」と言われた声が、耳の奥に棘のように残っていた。

 そんなことがあったからか、体がお元気になってからも姫様とはあまり話すことが出来なかった。より正確に表現すれば、どことなく俺は姫様から避けられているように感じていた。

 普段はインパとパーヤが面倒を見ているので、俺には手出しすることは無い。必要なものがあればハイラルのいずこへでも行くが、手渡すのは主にパーヤだ。

 また不思議と午前中の方は気分が優れないらしく、お会いできるのも午後が多い。それも極々短い間のことで、そんなことが繰り返されれば自然と避けられていることは分かってきた。

 確たる理由まで想像ができなくとも、事実だけは躊躇なく現実を突きつけて来る。

 だからインパに言って、俺はハテノ村に帰ることにした。姫様にこれ以上要らぬご心労をかけたくもない。気の張る人間が周囲をうろついてはお心の傷にも障るだろう。

 姫様には何も言わず、ある日そっとカカリコ村を出た。何か用事があれば、いつでも呼びつけてもらっていいとインパにも伝えてあるが、気を使わせたくなかったのでなるべく物は残さないようにした。白馬だけは乗ってもらえたら馬の方も喜ぶだろうと、引き渡してきたが。

「お元気で」

 声に出してはみたものの、言葉を送る相手は屋敷の2階にずっと姿を隠している。半ば傍付きの解任だと思うようにした。それぐらいちゃんと自分の方から察して、従者の方から身を引くべきであろう。

 心に穴が開いた分だけ身軽になって、俺はハテノの家で生活を始めた。いたって普通の、どこにでもいるような村人になろうと思った。

 剣だけはまだ後生大事に持っていたが、村に入ってくる魔物を追い払う以外にどこかへ出向いてまで討伐することも無い。最初は村の人達も、ついに変な旅人が住み着き始めたとじろじろ見られたが、次第に村の一員として受け入れてもらえるようになった。

 田畑の世話と山の恵みを頂く暮らしだった。雨が降れば家の中で手仕事をして、晴れたら外で野良仕事をする。時に狩りをして金を稼ぐこともあったが、雨が続いても日照りが続いても、天を仰いでため息を吐くような平凡な毎日だ。張り合いは無かったが、気苦労もない。

 これはこれでいいものだと思い始めていた。その矢先、狩りから戻ると自宅の前に姫様がいた。橙の夕日を弾いた金の髪が赤がね色に輝いて、振り向くその人は息切れしながら頬を朱に染める。

「来てしまいました!」

 腕に大事そうに何か本を抱え込み、荷物は一切それきり他に無い。本当に、身一つで白馬を急かしてここまで来たようだ。

 驚いてともかく家に上げたが、姫様は実に神妙な顔をしていた。

「あの、リンクには本当に申し訳ないのですが、貴方と一緒にいることはできませんか?」

 とっさに「なぜ」と聞こうとする自分を、ギリギリのところで制す。

 気まずいのか嫌いなのかは分からないが、カカリコ村ではあれほど顔を会わせようとしなかったはずなのに、なぜそのようなことをおっしゃるのか。一体何を考えているのか、途方に暮れてしまった。

 何度も問い返す言葉を飲み込み、天井と床とを視線が交互する。元とは言え騎士であった俺に出来ることは一体何だろう。この時ばかりは上手く姫様のお心を察せなかった百年前を思い出し、どうしたものかと胸の内で唸り声を上げた。

「しばらく姫様をハテノでお預かりすればよいということですか?」

「いいえ、一緒に暮らしたいという意味です」

「暮らす?」

「だめですか? インパにはちゃんと許可は取ってあります」

 そこまで言われたら、俺には駄目と言えるわけがない。姫様の願いは俺にとっては絶対で、叶えられる限りは全て叶えて差し上げたかったので否やはなかった。

 それに、邪険にされたとあれほど萎えていた心が、姫様の一声で嘘のように潤っていく。我ながら現金なものだと思いながらも、己が必要とされていることに素直に尻尾を振る犬が俺の中には確実に居た。

「ただ、何があっても怒らないでもらえたら、嬉しいです」

「姫様に怒るだなんて滅相も無い。むしろ手狭なのでご不快になったら、いつでもカカリコ村にお連れしますからおっしゃってください」

 さすがに一日でベッドの準備をすることはできず、譲った俺のベッドの縁に腰かけた姫様の声は少し強ばっていた。枕元に置いた本に手をやって、心もとなそうに解いた髪に指を通す。

「明日から、何かリンクに失礼なことを言ってしまうかもしれないし、可笑しなことを言うかもしれません。先に謝っておきます、ごめんなさい」

 その言葉で、もしやまだ心の傷が癒えていないのではと分かった。

 夜中に悪夢にうなされるか、夢から覚めてもまだ現実を見ることが出来ないことがあるのか、仔細は分からない。でもきっと不甲斐ない姿を見せるであろうことを予期して、心配なさっているのだろうというのだけは理解が出来た。

 でも俺は逆に、そんな姿を晒す相手に自分を選んでくれたことが嬉しかった。

「大丈夫です。何があってもお傍におります」

「ありがとうリンク。おやすみなさい」

「おやすみなさいませ」

 灯りを消して階下に下がる。すぐには眠れないのか、カーテンを開けたりベッドの上で動く音が聞こえたが、しばらくすると物音が途絶えて規則正しい寝息が聞こえてきた。

 次の朝は予想通り、姫様は俺を見るなり息を飲んだ。小さく「なぜ」と呟き、古めかしい俺の家の中を見回しては「ここはどこ」と青ざめる。

 きっと厄災が見せる新手の夢と勘違いされているのだろう。ベッドの脇に膝を付いて視線を低くし、なるべくゆっくりと刺激しないように声を掛けた。

「昨日の夕方に姫様はカカリコ村からハテノ村の俺の家にいらっしゃいました。ご安心ください、ここはガノンの見せる悪夢の中ではなく俺の家です」

「リンクの、家……?」

 なおも眉をひそめて警戒感をあらわにしていた姫様だったが、自分の左の手のひらを見てハッと目を見開く。慌てた様子で枕元にあった本を手に取った。昨晩枕元に置いた本だが、どうやら日記のようだった。

 姫様は日記を開き、昨晩書いた部分に目を通す。

 瞬間、表情から色をなくなった。

「大丈夫ですか?!」

 唇がわななき、息を飲む小さな悲鳴があった。ここで姫様がご不調になれば、任せてくれたインパにも面目が立たない。ところが慌てた俺に目もくれず、姫様は薄い上掛けをバサッと頭からかぶってしまった。

「姫様?」

「少し、ほんの少しだけ一人にしてください。大丈夫です、すぐに着替えて行きますから」

 かすれ声が必死に拒絶の意を表していた。これ以上の心配も許されない俺は、静かに頭を下げて階下に消える。まもなく着替えて下に降りてきた姫様はほほ笑んではいらしたものの、目尻は赤く擦れた跡があった。

 未だに俺が踏み込めない領域があるのだと、この時またわずかに心が乾いた。

 そんな俺の心にはもちろん頓着せず、姫様が俺に押し付けたのは大量のルピーが入った革袋だった。ずっしりとした革袋には、俺が一人でのんびり暮らすなら優に一年は生活できるぐらいの金額が入っている。ちょっと重たすぎだ。

「インパからお金をもらっています。これで用品を賄って欲しいとのことでした」

「多すぎです」

「いずれ必ず入り用になるので、その時にまた使って欲しいと言っていましたよ」

 先回りされたようにも思えたが、インパからの無言の圧力のようにも思えた。姫様をお預かりする以上、不自由のない生活を約束しろということだろう。

 衣服や食器はもちろん、日常の生活で使う細々したもの、加えて自分だけだと面倒であまり飲まないお茶の類まで、その日はたくさんの買い物をした。姫様を連れて買い物に行ったら案の定、妻か恋人かと聞かれたので用意しておいたセリフを何度も使う。

「俺の主人です」

 すると村人たちはみんな不思議そうな顔をして黙った。

 だがそのやり取りをするたびに、わずかに姫様が寂しそうに苦笑するのだけは少し意外だった。

「あの言い方はお嫌でしたか?」

 姫様が俺のことをどう思っているのかは分からない。しかし勘違いされて一方的に茶化されるのもあまり気持ちのいいことではないと思ったので、前もって考えておいたことだった。

 だが姫様は同じように少しだけ寂しそうに笑った。

「いいえ、あのように言ってもらえると助かります。ごめんなさいね、リンク」

「もう何度も言いましたから、大丈夫だと思いますよ」

「そうね……、そうですね」

 何事か考えている風ではあったが、またしても俺が踏み込むことを許されていない部分なのだと感じた。少し悔しく、だが己の力不足を恨んだ。

「明日はプルアさんのところに行きましょう」

「プルアに会えるのは嬉しいです。おやすみなさいリンク」

 何かあったときのために、プルアさんに引き合わせておいた方がいいだろうという単純な考えだったが、姫様はとても嬉しそうだった。明日が楽しみになった。

 次ぐ日の朝、姫様は比較的落ち着いた様子だった。というのも、ぴかぴかのお天気だったので、俺が起こす前にすでに朝日で目が覚めてしまっていたらしい。

「お、おはようございますリンク」

「おはようございます。よく眠れましたか?」

「ええ、はい。大丈夫です」

 どことなくぎこちないが、すでに悪夢からは無事に目が覚めているようだ。

 その日は朝ごはんを食べてすぐにプルアさんのところへ行った。プルアさんの元へはインパからすでに知らせが届いていたらしく、すぐにでも顔を出しに来なかったことをまず怒られた。

 こう見えても立派な博士ということもあって、プルアさんはさっさと姫様の脈をとって体の様子を調べる。

「まぁまぁ大丈夫のようネ。たーだーしー、ちょっと姫様と内緒の話があるから剣士クンは外出てて」

「なんで内緒なんですか」

「女のコの話だから。聞き耳たててたらスケベ野郎って家の壁にデッッッカく落書きするからネ」

 言われなくとも聞かないよと思いながら建物を出て、久々にハテノビーチの方へ降りて行った。ボコブリンが数匹見えたが、人の姿を見ただけで逃げていく。あれではもう村の家畜に手出しするようなことはできないはずだ。

 しばらく辺りをぶらついてから戻ると、すでに話は終わっていた。

「何かあったらすぐに来るのヨ」

 念押しされながら見送られ、のんびりと坂を下りながら帰途につく。何となく声をかけづらくて喋ることはなかった。

 精神的なこと以外にも、見えないどこかお身体が悪いのかもしれない。しかしプルアさんのあの言い方からすると男の俺には聞きづらい。もしかしたらそれが、俺が未だに踏み込むことを許されていない部分なのかなと思った。

 夫や恋人ならば聞くことが許されるかもしれない。でも俺は姫様の騎士だから、そこだけは大昔から許されてはいなかった。

「姫様のお身体のことで、俺に知らされていない部分があるのは分かっています。俺ではお役に立てないことも理解しています。でも辛い時はすぐに言ってください、プルアさんを連れてきます」

「ありがとうリンク。私も、変なことを口走らないように、がんばります」

 ぼんやりと答えた姫様の容態は、やはり一進一退だった。

 朝からはつらつとしている日もあったが、悲鳴から始まる調子の悪い日もしばしばあった。俺のことをガノンが作り出す幻だと勘違いして叫び、右手をかざしても消えない怨念に怯えて午前中をベッドの中で震えていることもあった。

 前日のことも忘れていることも多く、些細なことも分からなくなって俺に尋ねて来る。煩わしいとは思わなかったが、少し変だとは思っていた。

 姫様のこれは、本当に厄災の悪夢に憑りつかれ続けている症状なのだろうか。

 体の方はもうほとんど悪くないようだ。調子のよい時に誘えば遠乗りも出来る。白馬も嬉しそうだった。

 でも朝だけは、毎日硬い翡翠色の瞳で「おはようございます」と言う。まるで初めて会った人みたいに、俺と姫様の朝は他人行儀な挨拶から始まった。

 その理由。

 それはある日唐突に分かった。

 朝はすでに晴れていたが、実は昨日の夕方から夜中にかけて大雨だった。雨が降った次の日は調子が悪いことが多いのはすでに知っていたので、今朝はまた幻だと睨まれるだろうと覚悟していた。

 ところが姫様はまだベッドのなか、うつ伏せになってすやすやと寝息を立てている。日記を開いたままその上に突っ伏して、右手のすぐ横には取り落したペンが転がっていた。

 姫様のあどけない寝顔を覗いてしまった罪悪感に、思わず口元を覆って目を逸らす。そんな姿を見せてくれることが少し嬉しくて、でも俺ごときが見ていいのか不安になる。

「姫様、朝です。おはようございます」

 この分だとほっぺたにインクでも付いているのじゃないかと思ったが、黒くなっていたのは左の手のひらだった。こっそり覗き込むと幾重にもなぞられ続けて黒ずんだ文字が、手のひらに彫り込むように書かれていた。

『朝起きたらまず日記を見ること』

 朝起きたら、姫様は必ず今開きっぱなしで突っ伏している日記に目を通すのが習慣だった。これが百年前から続く習慣かどうかは分からないが、少し変わった癖だとは思っていた。

 だが日記に目を通すと、なぜか姫様は落ち着くことが多い。ハテノの俺の家で初めて寝起きしたときもそうだった。

「姫様、代わりに俺が日記を読み上げてしまいますよ」

 冗談。

 そんな不埒なことはできない。でもチラ見するぐらいなら許してもらえないかなと、好奇心が勝ってしまった。

『今日は厄災を封じてから〇日後です。リンクは本物で、ガノンはもういない。何も思い出せなくても、気持ちをしっかり持って』

 書かれた文字が見えてしまった瞬間、スッと目の前に解へと続く道が開けた気がした。

 姫様は本当に未だに厄災の見せる悪夢に憑りつかれたままなのか?

 ずっとしこりになっていた違和感の正体が姿を現し始める。

『体はすっかり養生を終えて、私はリンクの傍に居たいと我儘を言っている身。インパには許可をとってある、ただし記憶が一日分しかもたないことはインパとプルアしか知らない。でも普通に振舞って、リンクにこれ以上心配をかけてはだめ』

 うつ伏せで寝ている姫様の手元から、静かに日記を引っ張り出す。丁寧だが震える文字が、様々なことを書き残していた。ここがハテノ村で俺の持ち家であること、今は俺と一緒に暮らしていること、すでに共に暮らし始めてから三か月以上は経っていること、と言っても相変わらず主従の関係であること。

 そして、厄災が復活して遥か百年後を生きていること。

「姫様の記憶は」

 思い返せば、変だと思うことはたくさんあった。

 調子が悪いのは決まって朝だ、夕方に近づくにつれて俺との距離感が縮まっていく感覚があった。また夜、寝ると言ってからしばらく灯りが付いたり、月夜の晩はカーテンが開けられていたことがあった。

 朝も悲鳴の後は必ず手を気にして、そのあとで日記を見るとふさぎ込んだり落ち着いたり。日によって反応は違ったが、決まって症状が落ち着くときは日記を読んだあとだった。

「……リンク?」

 うつ伏せから体を起こした姫様の翡翠色の瞳は、今日も何も知らない朝の混乱に怯えていた。俺のことをガノンの幻だと、また怯えるのかもしれない。

 ではその前に日記を見せて本人に記憶がないことを教えるべきか。それは一見優しい様に見えて、酷い現実を突きつけるだけだ。

 でも姫様は毎朝、ただ俺と暮らすためだけに日記で事実を一人で飲み込んで挨拶をしていたのだ。他人行儀な硬い『おはようございます』。あれがどれほどの勇気の結果だったのかと、今思うに背筋が凍る。

「リンク、ここはどこ? なんで貴方が? それより、いつ回生の祠から出たんです? 体は、傷は大丈夫なのですか?」

 今朝の姫様は、ただ俺を心配するだけの姫様だった。俺を生身の本物だと微塵も疑わず、まだ寝起きの温かい手でペタペタと触れてくる。

 その手が柔らかくて、悲しかった。

 この人にとっての昨日は、ガノンの胎の中。目が覚めたら温かな寝床に居たとなれば混乱もする。でもそれよりも先に、俺の心配をしてくれた。

 そんな体にしてしまったのは、間に合わなかった俺なのに。

「リンクどうしたのです? 大丈夫ですか、傷が障るのですか?!」

 日記を抱いて泣き崩れた俺に、姫様はただ心配をしてくれるだけだった。

 仕方がなく、俺は日記を差し出した。

 それから事実を理解した姫様の傍らで、何もできずただ嗚咽を飲んだ。

「一緒に暮らそうと思ったのにこんな症状を隠しておけると思っていたなんて、昨日までの私は随分と甘い気がします」

 姫様は自嘲していたが、到底笑えなかった。

 笑えるはずもない。こうなったのは俺が百年間も寝ていたせいだから。

 詳しいことは姫様本人も分からないが、ある時点より以降の出来事は寝ると忘れてしまうらしい。いくら思い出を大事に脳裏に焼き付けたとしても、一晩寝ると厄災の只中にあったときに記憶がリセットされてしまう。

「俺が、もっと早くに、目覚めていれば」

「でもおかげで私は、勇気を出して貴方と一緒に暮らしたいと言い出せたのだと思います」

 ぎこちなく微笑んだ姫様は、いつもの朝よりもわずかに俺に近いところに居た。お昼を食べる時ぐらいの距離感。だがこれも、明日になればまた忘れて遠くに離れてしまう。

 ようやく取り戻せたはずの姫様は、夜を越すごとに遠く過去へと引き戻される。俺の手の届かないところへ、あの厄災の只中へ。

 ベッドの縁に座ったその膝に、泣き縋るよりほかに何もできなかった。このことは当然インパは分かっているし、プルアも知っているのだろう。だから俺を遠ざけてまで話をしていた。

 知らされていなかったのは俺だけ。日にち薬なんて大嘘だ。

「時が癒してくれるなんて嘘じゃないか、姫様だけずっと悪夢の夜が明けないなんて」

 ハイラルに朝日をもたらした人のところにだけ、朝が来ない。何という皮肉がまかり通る世界。

 だが当人は繰り返される新しい一日に、毅然と頭を上げていた。

「朝ならリンクが連れてきてくれました。だから明日もお願いします。私がどんな悪夢にとらわれていても、きっと朝を連れてきて」

 それがただ一つ残された俺にできる奉公なのだと思った。

 以来、姫様は一日で一生を過ごすようになった。

 朝は全てが終わった後だと知って恐れおののき、昼には平和を謳歌して綻び、夕べにはその記憶が消えてしまうことを悲しむ。受け入れられる日も、抗いながら悔し涙を流す日も、ただ茫然とする日もあった。

 俺はただその横にいて、朝を呼んだ。