妙な勘とでも言おうか。
私はそれがふと怖くなって真夜中、そっと彼の腕の中を抜け出した。温かい場所からひんやりと冷たい床へ。音を立てたつもりはなかったが、当然のように背後から声があった。
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい。……喉が、乾いてしまって」
ぐっすり寝ていたはずなのに、青い瞳が闇の中でうっすらと揺らめいていた。でも硬い髪をひと撫でするとその光も瞼の奥に消える。リンクが再び寝入ったのを確認してから階下へ降りた。水瓶からコップ一杯分の水をくみ上げ、それを持ったまま扉に手をかける。
ふと見たくなった夜空は銀砂を撒いたように明るかった。ハテノの空は広くてゾッとするほど澄んでいる。綺麗で、恐ろしい空だった。
「己の小ささが実感できるとは、よく言ったものです」
ほうとすぼめた吐き出した息はまだ白くはならない、でも夜はさすがに少し肌寒い、そんな秋口のころ。ハテノへ越してきてから、見える星座の種類がようやく一回りした。去年のいまごろ、私はこの夜空を初めてリンクと見て、ここへ来られてよかったとこっそり涙を零したのだ。すぐにバレて彼は酷く焦っていたけれど、あれは確かに嬉し涙だった。
でも今はどうだろう。
心がぽつねんと立ち尽くし、銀砂に足を取られてどちらに進めばよいか戸惑っている。まるで綺麗な蟻地獄みたい。
「戻らなきゃ」
長居は禁物、心配した彼が本格的に起き出してしまう。大して乾いてもいない喉を慌てて潤すと戸を閉めた。再び足音をなるべく立てないように二階に戻ると、やはり寝ていたはずの温かい寝床が腕を開いて待っている。
「外どうしたの?」
「星が見たかっただけです。綺麗ですよ」
「でも体がすごい冷えてる。上着を着ないと駄目だよ」
力強い腕にぐいと囲まれて、やっぱりここは本当に温かいなと思いながら私は目を閉じた。もう寝よう。夜は何かと暗いことを考えがちになる。
でも、とつとして唇に温かい物が触れた。それは私に許可なく私の唇を、頬を額を、軽やかに吸う。本当は応じたかったけれど私は気だるくてそのまま黙っていた。すると時機に諦めてリンクも寝てしまった。
彼の腕の中はとても安心する。決して嘘や誇張ではなく。
だが一方で不安はずっとわだかまっていた。お腹の奥の方にちりちりと燃え始めた気鬱の種火は日に日に大きくなっていった。
その種火に最初に飲み込まれたのは食欲だった。どうしてだか何も食べる気になれない。
「いいの? このクッキー美味しいヨ?」
「プルアがどうぞ。貴女の方こそ大きくならなければ」
「えーアタシは若いまんまでいいヨー」
若いと言うより今のプルアは幼いの間違いなのだが、そんな冗談にもなんだか鬱々としてうまく反応が出来ない。たぶんお腹が空いているせいで体が重たいだけなのだが、そうまでしてでも体が食べ物をあまり欲さない。
欲のない胃袋に食べ物を流し込むのはとても苦労する。無意識のうちに気持ちを喰らう魔物、とでも表現すればよいのだろうか。思い当たる節を遥か昔に見つけて、私はプルアから目を逸らした。
「なになにーダイエットでもしてるの?」
「そうです、体形維持ぐらいは頑張らないと」
「姫様がそんなことしなくっても文句言わないでショ。あの剣士クンなら真顔で抱き心地がいいとか言いかねない」
そうでしょうね、とどうにか苦笑を返した。
最近私の食が細ってきたせいで、リンクは食事にも工夫をしてくれている。芳ばしい香りをつけてみたり、見た目を鮮やかにしてくれたり、のどごしの良い物をわざわざ選んでくれたり。
それでもあまり食べたいとは思えなかった。食べられないこと自体が申し訳なく思えて何度も謝る。そうまでしてでも食べようとは思えない。そのたびに「少しでもいいから食べて」と彼は困っていた。
まるで穏やかに死へ向かう様相。体の芯から生命力が抜かれて転がり落ちる螺旋階段。反比例して増大していく体奥底深くの憂鬱。
「雨の、坂道」
まさにいま私は、身も心も雨の坂道にいた。
研究所からの帰り道、折からの強い雨がざあざあと音を立てて体に打ち付ける。傘も無く、坂道を上がって研究所へ戻る元気も、家まで走る気力もない。とぼとぼと足を引きずりながら前に進めることしかできない私に、雨は容赦なく打ち付けた。
それもこれも全ての原因は漠然と理解はしていたが、どうしたらよいのか、どうしたいのかは考えがまとまらない。でもこのままでは確実に体の方が先に堪えてしまう。寒い、それにこの場で心臓を吐き出してしまいたいほど気持ちが悪かった。
「ぁがっ……」
村と研究所を結ぶ一本道のど真ん中、こんな雨の中でも明るく輝く青い火の灯篭に縋った。むかむかと胃液だけがせり上がってくる。
どうしようか一瞬考えた末、逆らわず、雨の草むらに向かって嫌なものを全て吐き出した。
ごぼごぼと内臓が立てる音は雨音が消してくれる。空っぽの胃から、さらにその奥の十二指腸からも苦く粘つく液が逆流した。味わうようなものでもないのだが、閉口するほど嫌な味がする。
そこで私の気力はぷっつりと途切れてしまった。
雨だか涙だか区別のつかないものが頬を伝い、四肢は糸が切れた操り人形のように放り出された。自分の意思で動かせるのは辛うじて石灯篭に立てた爪の先だけ。それもわずかな引っかかりにしがみついているだけで、冷えて感覚が無くなると滑り落ちて行った。
「ゼルダ!」
声の主に助けを求めたくて必死で頭を上げようとしたけれど、頭がこんなに重たいものだとは知らなかった。それも回らない頭など、本気で無用の長物。
自分で視線を上がるよりも早く、リンクの腕が伸びてフードをかぶせられ、そのまま抱えあげられる。
「どうしたの……?」
リンクの漠然とした質問に、私の心は雑然としていて簡潔な答えが導き出せない。何と答えたらいいのか分からない。
ただ事実だけが私の体の中に在った。
「いる気がするの」
溶けるほど熱い彼の左手を私は自分の下腹部に導いた。凍てついた体の奥の方に、尚も温かい炎が宿る。
決して悪い物じゃない、分かっている。頭では理解はしている。でも感情が上手く追いつかない。
私にとってそれは、不穏の種でしかなかった。
「馬鹿!」
青い瞳が大きく見開かれた。彼が私に、これほど強い語調で声を投げつけたことは未だかつてなかった。
私を抱えたリンクは、傘もささずに駆けだす。畳んだ傘は途中で道端のロレルさんに放り投げてしまった。
「リンク……」
「黙って! 舌噛むよ!」
首に回した腕に力が入らず、リンクの足が大股で踏み出すたびにがくがくと揺れた。
突然の雨に慌てた様子の村の中央を人目を集めながら走り抜け、橋を数歩で跨ぎ越し、家の扉を蹴って開ける。飛び込んだ家の中は温かかったが、すぐさま濡れた服をはぎ取られた。
なすすべなく項垂れながら体を拭かれ、真新しい寝巻を着せられると、まるで子供みたいにベッドの中に放り込まれる。
そこでようやくリンクは怒鳴った。
「何やってんだ!」
至極もっともな怒りと思う。
月の物が遅れてもう半月以上経つ。他にも様々な体調の変化を考えれば、恐らく間違いではないことも分かっていた。
嬉しくないわけではない。夫婦になったのだから、いずれは子供が欲しいと思っていた。
でも実際に身ごもってみたら、喜びに勝る憎悪が湧き出てきた。拭いきれない己への嫌悪が、未だに自分の中に蔓延っていることに気が付いてしまった。
「わたし、自分の子供を産むのが怖い」
「怖い?」
「私の、無才の血を引く子が、苦しみながら生まれてくるのが怖いの」
およそ馬鹿げた妄想で、話せば鼻で笑われること理解はしている。
でも生まれた子が私と同じ目にあったら。いつ緩むとも知れない封印に怯えながら力に目覚められずに苦しんだら。そうでなくとも生まれる前から重荷を背負わせてしまう。生まれてきたことを後悔させてしまったら。
考えないようにしても、不安が際限なく湧いてきた。百年間、ガノンの胎の中に在って対峙していた時よりも、答えの見えない問題だからこそ遥かに心が揺らぐ。
「でもリンクの子供は産みたい、でも私の血を引いているのが恐ろしい。支離滅裂なことを言っているのは分かっているんです。でも、怖くて怖くて、こわくてこわくてこわくて、子が私と同じ苦労をするぐらいなら、もういっそ」
息を飲み、続く言葉を口に出そうとしたその瞬間、ガバリと大きな体が私を暗闇に閉じ込めた。
自身も雨に濡れてしっとりとした服に、顔が押さえつけられる。声どころか息さえ詰まらせて驚いていると、くぐもった声が降ってきた。
「それ以上は言っちゃだめだ、考えたらだめだ」
それが出来ればどれだけ楽か。
でもようやく吐き出せた不安の種のおかげで、喉のつかえがとれた。泣くことができる。息が出来る。声が出せる。まだ私も、お腹の子も生きている。
ひとしきり泣き叫んだあと、ふつりと私は意識を失って寝てしまったらしい。気が付くと温かい布団の中でまどろんでいた。後ろから抱え込まれ、大きな硬い手が私のお腹をさすっていた。
「気が付いてあげられなくてごめん。……あと怒鳴ってごめん」
雨は止んで、夕日が差し込んでいた。随分と激しいあれは、ただの通り雨だったらしい。
冷えた体はもう汗ばむぐらい温められていて、少し暑くて布団の隙間から爪先を出したくなるほどだった。人肌は本当に、いや彼が特別に温かい。
はぁと大きなため息が、私の長い髪を掻き分けて首筋に当たる。
「ねぇゼルダ。あなたが苦しんでいるその悩みは、本来は生まれてくる子供の物じゃないのかな」
「横取り?」
「だってゼルダが力に目覚められなかったのはゼルダのお母様の血のせいではないでしょ。自分の子供とはいえ、他人の悩みを奪うのはお門違いだと思うんだけど」
これは私の不安に見えてその実、私の不安ではない。言われてみればなるほどと思い、お腹を覆う大きな手に自分の手を重ねる。
しかし子が苦しむと分かっていて、そこへみすみす産み落とすことが果たしてよいのかどうか、私にはまだ分からない。リンクに言わせてみれば、苦しむかどうかすら分からないのだろうけれど。
「では、私はどうしたら?」
「一緒に悩んであげたらいいんじゃないのかな。分かることがあれば教えてあげればいいし、分からなければ一緒に考えればいいし。それに俺もいる……あ、それとも父親が俺じゃ不安?」
まさかと思って顔も見ずに首を横に振る。誰よりも、下手をしたら自分自身よりも信頼できる人がいるとしたら、それは彼だ。
すると安堵したような、すこし呆れたような笑いにまでならないような吐息が聞こえた。
耳の後ろに唇が当たる。
「ゼルダはいま、あの青い火を灯した灯篭と一緒なんだよ。お腹の中で燈火を守っている器のようなもの。でもいずれその炎は独り立ちする貴女ではない誰かだから、今は自分の体を気遣ってあげて。頼むよ、もうあんな姿見たくない」
怒りと悲しみが一回りしたかすれた声が、私の耳元で訴えていた。
「ごめんなさい」と呟くと、「本当に」と耳を齧ってくる。くすぐったくてくるりと体を反転させると、濡れた服を全部脱ぎ去ったリンクが眉尻を下げて笑っていた。今までもこれからも、私を守ってくれるのはその傷だらけの体だ。
「だとしたら、さしづめリンクは灯篭の守衛さんでしょうか」
「じゃあ俺はゼルダに雨が当たらないように傘をさして隣にいるよ」
だったらロレルさんのところに傘を取りに行かなければ。たぶん何事かびっくりされただろうから、お詫びにお菓子でも持っていこう。何のお菓子がいいかしら、久々にアップルパイでも焼くのもいい。
そう、うん。甘く煮たリンゴなら食べられるかも。
ぼんやり考えていると、こつんと額が当たった。
「ありがとう、ゼルダ」
声が鼓膜をゆらし、じんわりと頭の中へ沁み込んでいく。ここに居られて本当によかった。お礼を言うのはこちらのはずなのに、どうしてか鼻の奥がつんと痛んで声が出なかった。
その間にリンクは私の体をぐいっと抱き寄せて、こらえきれない喜色でくくくっと笑う。
「男の子かな、女の子かな」
「リンクはどっちがいいですか?」
「女の子。ゼルダにそっくりの可愛い娘がいいです」
妙な勘が働く彼にしては珍しくこの予想は外れるのだが、私もこの時は女の子がいいなと思っていた。
だって、もし私と同じ藻掻き苦しむ生だったとしても、予想外の幸運に恵まれることもまたありうる。ようやくそれを思い出して、私は己が幸せの形に口付けをした。
了
—
【時系列案内】