雷の器

 パーヤが貸してくれた一心の弓は、筋力の落ちた私の腕でもすんなりと引くことができた。昨夜のうちに弦を私に合わせて張り直しておいてくれたのかもしれない。なにしろ最後に弓の手習いをしたのは遥か昔、すでに百年以上も前のことだから。

 狩りがしたい。

 それはかなりに久方ぶりの感情だった。おそらく百年どころではない。もっとずっと、もしかしたら生まれて初めてかもしれない種類の欲心だった。

 貴族の嗜み、あるいは姫巫女の心得として、弓術は幼い頃から教え込まれていた。しかし技術の習得はしても、実際に弓を使って何かを射たいと思うことは無かった。

 ずっと自分の放った矢で生き物が傷つくことから、目をそらしてきたのだろう。

「あそこにヤマシカがおります」

 この日、供をしてくれたパーヤは背の高い草に身を隠しながら、遥かに前方の木陰を指さした。昼下がりのアラブー平野には、野生のヤマシカがのんびりと草を食んでいる。

 こうして狩りをするのは命を奪うことだ。一方で命を頂く行為もその延長線上にある。大勢の人にかしずかれる暮らしは、命を奪う場所と頂く場所とがあまりにも離れていて、口に運んだ食事が差し出された命の形だとは気付きづらい。もしくは幼い私は自分が生き物の命の上で生きているのだと、気が付きたくなくて蓋をしていた。

 百年経ってようやくそのことと向き合おうと思った私は、だから狩りがしたいと願い出た。命を頂くために、最初から最後まで全て自分でやってみたいとようやく思えるようになったわけだ。

 静かに弓を番え、深く息を二回吸って吐く。それからぴたりと息を止めると、立派な角の牡鹿の頭に狙いを定めた。

 苦しませぬよう一矢で。

 果たして、私にそれが出来るだろうか。

 張り詰めた矢じりの先が迷いに揺れたその時、ギャアと鳴き声がして視界の端っこでモモイロサギが飛び立った。同時に番えた矢羽根から指を離したが一瞬遅く、矢が捕らえたのは牡鹿の胴だった。

「あぁ、逃げます!」

 パーヤの慌て声に、すぐに二の矢を番える。

 だが牡鹿は、私を見た。

 黒光りするつぶらな瞳からは何の感情も読み取れなかったが、ハッと息を飲むだけの力があった。狩る対象であったものが私を見据え、体を反転させる。

 おそらくその瞬間、私は牡鹿の気迫に押し負けたのだと思う。

 瀕死の牡鹿は立派な角を振りかざして、猛然と突進してきた。

「危ない!」

 ピギィと漏れた断末魔を聞いた時には、パーヤの小太刀が牡鹿の首を捉えて深々と薙いでいた。

 首から音を立てて血が噴き出し、巨体が横倒しになる。

 そこでようやく忘れていた息を吐き出し、私は呆然と立ち尽くした。

「お怪我はございませんか?」

「大丈夫ですパーヤ。ありがとう……」

 雌鹿たちは遠くへ逃げ去り、私の前に残されたのはひときわ大きな牡鹿だった。四肢が痙攣し、体はまだ湯気が立つほど温かい。

「ご無事でほっといたしました」

 パーヤは牡鹿を近くの水場まで運び、血抜き、皮剥ぎ、解体と、実に手際よく生き物を食材の形にしていった。その横で私はただ見ていた。

 自分の血肉になるまでに、どんな事情を経ているのかをつぶさに観察する。それ以上のことはまだできなかった。

「全部パーヤにやってもらってばかりです」

「手負いの獣は手強いと申しますが、姫様は逃げませんでした。ご立派だと思います」

「完全に牡鹿の気迫に飲まれていました、……覚悟が全然足りていませんでした」

 言ってはみたものの、何の覚悟かはよく分からなかった。

 命を殺す覚悟だろうか、それとも相手を食べる覚悟だろうか。いずれも違う気がする。

 答えが見つからぬまま肉と皮とを背負った。角も皮も大切な材料になる。パーヤは私に荷を持たせることをとても嫌がったが、せめてこれぐらいは私にも出来るはずだと言い張った。

 それに二人で持たねばならぬほどに牡鹿は大きかったので、せっかくの命を余すことなく持ち帰るには私も持つ必要があった。

「雨が降り出しそうです。姫様、早く帰りましょう。今夜は腕によりをかけて紅葉鍋をお作りします!」

 元気に歩き出すパーヤの背を追いながらカカリコ村へ戻る。夕暮れの空は暗く垂れこめて、案の定その夜は雨になった。雷が鳴り、雨も強く、なかなかに激しい嵐だった。

 紅葉鍋を食べ終えると早めに布団に潜り込む。久しぶりの狩りで疲れた体はすぐに眠気に襲われたが、夜半、強い風の音に混ざって子供が泣く声で目が覚めた。

 またプリコかしらと寝ぼけまなこを擦る。プリコは村で最も幼い。雷の鳴り響くこの風雨に怯えているのだろう。

「明日、たくさん抱っこしてあげましょう、ね」

 丸い子供の頭はとても撫で心地がいいことを百年越しに知った。温かくて髪も柔らかで、とても愛おしい。

 すぐにでも飛んで行って抱きしめてあげたいところだったけれど、さすがにこの雨のなかを外に出るのは無理がある。きっと父のドゥランと姉のココナに、慰めてもらっているはずだ。

 ところが明けた次の朝、意外にも目を真っ赤に泣き腫らしていたのは姉のココナの方だった。

「ひ、ひめさま!」

 村はずれの墓地にうずくまっていた小さな影がぴょんと飛び上がり、袖口で乱暴に顔を拭く。唇をぎゅっと噛み締めて、これでもかと眉根に力を込めていた。

「昨夜泣いていたのは貴女だったのですね」

「えっ……、聞こえて、いましたか?」

「プリコかと思っていました」

 姉とはいえココナもまだまだ子供だ。雷が怖いのは決して恥ずかしいことではない。

 だがココナはじわっと目の端に涙を浮かべ、再び大声で泣き始めてしまった。

「ココナ? ごめんなさい、そんなに恥ずかしかったですか? 大丈夫です、私も雷は怖いですよ」

「そうじゃないんですひめさま! 昨日の夜、何かがいっぱい、村の中を走っていたのです!」

「いっぱい、走っていた……?」

「あれはきっと雷獣です! 嵐に紛れて村に雷獣が入ってきたんですー!」

 わんわん泣くココナを置いて行くことも出来ず、困り果てた私は小さな手を引いて門番をしていたドゥランの元へ行った。父親のドゥランは私とココナを見るや、額に手をやって大きくため息を吐く。

「申し訳ありません、姫様。ほれ、ココナももう泣くな」

「そんなこといっても父様、本当なのです! 本当に何かが泉の森の方へ走っていったのです!」

 父娘が火花を散らす様子を、もう一人の門番のボガードと共にきょとんと顔を見合わせる。

 ココナの話をまとめるとこうだ。

 昨晩遅くに家の外にある厠へ行こうとした彼女が軒先を歩いていると、村の中をたくさんの赤い獣と黒い獣がもつれあいながら走り去ったのだという。あまりの恐ろしさに家の中まで取って返したココナは、怖いから父のドゥランに厠についてきてほしいと懇願したが起きてくれず。結局、少し間に合わなくて泣いてしまった声が、深夜私のところまで聞こえたということらしい。 

「赤い獣には曲がった角が生えていて、黒い獣には尖がった角が生えていたのです! それをガシンガシンぶつけ合って、すごい音がしていたんですよ?!」

「ココナが嘘をついているとは思わんが、姿形はもちろん、足跡もなかった。何か見間違えたのではないか?」

「そんなことありません! あれはきっと雷獣です!」

 雷獣と言えば、あのライネルの異名だ。

 特にゾーラの雷獣山にいるライネルは大昔から電気の矢を扱うので、水棲のゾーラ族の天敵ともいえる。それにライネルのたてがみには様々な色があって、ココナの言う通り赤や黒っぽいたてがみの物も確かにいるし、角も生えている。

 でも厄災を封じた現在のカカリコ村周辺はとても穏やかで、ラネール山の麓まで行かないとライネルは見られない。まさかあんな場所からライネルが風雨の中をカカリコ村へ? それも何頭も?

 私も思わず首を傾げるとココナは酷く傷ついた顔をして、どこかへ走って行ってしまった。

「おそらく寝ぼけていたのだろうと思います」

「だとは思いますが、でも可哀そうなことをしてしまいました」

 あれではまた夜中に厠へ行くのも一苦労だろう。私はうんうんと悩みながらインパの屋敷へ戻った。

 恐怖とは正体が分からないから増幅される種類の感情だ。幼い時分の私も、ハイラル城のいずこかに住む幽霊の噂話を恐ろしく思っていたのを思い出す。風が強い夜は、塔の間をすり抜ける風の音が幽霊のすすり泣く声に聞こえて、布団を頭からかぶって震えていた。もちろん大人になって風の音だと分かってからあまり怖くなくなったけれど。

 それを踏まえれば、ココナの怖い気持ちを取り去るには、彼女が見たものの正体を明かしてやるのが一番良いように思えた。

 それにこういう時、一番頼りになる人がハテノ村からもうそろそろ来ているはずだった。

「リンクは来ていますか?」

 あれからずっと、リンクは家を構えたハテノ村とカカリコ村を行ったり来たりしていた。何か調査があれば同行してくれるし、何も用事がなくてもひと月に一度ほどは顔を見せに来る。お土産を抱えきれないほどたくさん持ってくるので、特にココナとプリコは大喜びだった。

 次はアッカレのお土産を持っていくと手紙があったばかりで、実はその約束の日が昨日。ずっと何かお返しがしたいと思っていて、狩りがしたいとパーヤにお願いしたのはそのせいもあった。

 ところが昨日、珍しく彼は姿を現さなかった。

 共に食事ができなかったのが残念ではあったが、牡鹿のトドメを刺せなかったこともあり、再挑戦の猶予が与えられたようで少しだけ安堵したのは秘密だ。

 しかし今日もインパは首を横に振る。

「まだ村には来てはおらぬようです」

「珍しいですね」

 回生の眠りを経て記憶の一切を失った彼だったが、約束を違えるような人ではなかった。次第に戻りつつある記憶が頭の隙間を埋めながら、時に百年前の硬い面影が覗くこともあるが、おおむねリンクの性質は変わらない。

「何か手違いでもあったのかもしれませんな」

 かもしれない。

 一抹の不安は感じたが、それよりも今の私の頭は雷獣のことで大半が占められていた。

 リンクの協力が得られなかったとしても、やることは変わりがない。こっそり屋敷を抜け出して、雷獣の正体を探しに行くだけだ。

 もちろんインパは反対するだろうし、パーヤではあの祖母に筒抜けになるので相談は難しい。供は無く、一人での探索になる。しかし昼間に行けば問題はないし、さほど恐ろしいとは思わなかった。

 ドゥランの言う通り村の中には何の痕跡も無く、実際にライネルが入り込む可能性はほぼないに等しい。おそらく別の獣を見間違えただけだろうから、赤と黒の獣を狩るか、最悪毛束でもあれば、ココナは賢い子だから恐怖の原因を理解できるはずだ。

 人々が夕食の支度が忙しくなるころ合いを見計らい、私は借りたままの弓を握りしめて屋敷を抜け出した。

 村の中ももう一度調べてみたが、特に獣の痕跡は見当たらない。

「やはり森に逃げ込んだのでしょうか」

 つづら折りの急な坂道を上り、細い道を丹念に辿って森の奥へ分け入る。大妖精の泉がある森は決して大きくはないが非常に豊かだった。足元にはしのび草が咲きこぼれ、黄昏に染まりゆく森の細道を明るく照らしていた。

 煌々と光る泉の周りには以前は見えなかった妖精がうっすらと飛び回り、まるでこの世とあの世の境のよう。

 本当にこんな場所に、角をぶつけ合う赤と黒の獣が潜んでいるのか勘繰りたくもなる。

 しかもすでに別の場所に逃げてしまったとしたら、ココナの怖い物が何だったのかは証明できなくなってしまう。

 だとしたら森の奥で獣の逃げていく姿を見たとでも言おうか。私の言葉なら、ココナは信じてくれるかもしれない。

「でも嘘を吐くのは嫌ですから、がんばりましょう」

 相手が騙しやすい幼子とはいえ、嘘で言いくるめるのは私の正義に反する。

 だが、そうこうしているうちに森は一段と暗がりが濃くなり、しのび草の灯りだけでは頼りなくなってきていた。そろそろ村に戻らなければ夕食に間に合わない。勝手に屋敷を抜け出したことがバレてしまう。

「リンクがいてくれたら」

 もっと的確に獣の痕跡を指摘してくれたかもしれない。甘えているとは分かっていても、彼の力量は認めていた。主従ではなくなってからも、彼以上に頼れる人はいない。

 そう理解しているから、シーカーストーンだって預けている。

「あ、そうです。シーカーストーンにライネルのウツシエがあるのでは?」

 ぽんと、森のど真ん中で私は手を打った。

 いくら探しても見つからない偽の雷獣を見つけるよりも、シーカーストーンで本物のライネルをココナ見せて『違う』ことを教えた方が早いのではないか。百聞は一見に如かずと言うが、別に実物ではなくウツシエでも問題は無いはずだ。

 そうと決まればこれ以上森の中を彷徨う理由はない。早く帰ってパーヤの美味しいごはんを食べたいわと、踵を返す。

 と、目の前に赤い衣を纏った人が立っていた。

「ひっ……!」

 突然のことに驚いて数歩下がる。

 よく見知ったシーカーマークが逆さまに、その目のついたお面が私の方をじっと見つめていた。

「イーガ団?!」

 カラカラバザールで襲われて以来、その模様には人一倍敏感になっていた。

 厄災を封じでもなお、厄災を信奉する者たちが居なくなったわけではない。厄災は封じても人の信条を封じることなどできないと分かっていたから、イーガ団については実質的には何もできていなかった。

 それが目の前で、直に脅威となって剣を振り上げる。

 鋭く歪曲した首狩り刀。

 曲がった角の、赤い獣。

 これがココナの見た赤い雷獣の正体だと、頭の中を閃光が走り抜ける。ココナが見たのは首狩り刀を振り回したイーガ団の下っ端だったのだ。

 私は悲鳴を上げながら、咄嗟に一心の弓を我武者羅に振った。剣ではないから何の殺傷能力も無い。しかしイーガ団は予想外にたたらを踏んで、お面の向こう側からはくぐもったうめき声が聞こえていた。

「……手負い?」

 脇腹は刃物で大きく穿たれた跡があり、赤一色だと思った衣はどす黒い血に染まっていた。それも相当の深手に見える。

 それでもイーガ団は再び首狩り刀を振り上げ、荒々しく息を吐き出しながら私へと迫った。だが足取りはおぼつかなく、私の逃げ足に追いつくことも難しい様子だ。よく見ると首狩り刀には血脂が浮いており、すでに相手が刀を綺麗に拭うほどの余力も無いことが伺えた。

 ここぞとばかりに私は走って距離を置くと矢を番える。

「立ち去るのならば見逃しましょう。ですがそれ以上近づけば撃ちます!」

 お面の中心に照準を合わせ、ひたりと止まったイーガ団を睨む。

 本当に、脅しではなく、射るつもりでいた。

 だが面の中央を射貫けば、手負いとはいえ彼は確実に死ぬだろう。緩く張られた弦ではあるが、それぐらいの威力はあった。

 じわりじわりと恐怖が足元から忍び寄る。

 身を護るためには相手を殺すしかない。まるで昨日の牡鹿と同じだ。自分が生きるために相手に刃を突き立てるだけの覚悟があるのかと、現実が私の喉元目掛けて疑問を投げかけてくる。

 自然と指が震えて心臓が跳ねる。私には殺せない。相手の命を奪ってまで自分が生きていく覚悟などこれほども無い。でも死にたくはない。

――なんて我儘。

 振り上げた首狩り刀が鋭利に光った。

 ただ指を離せば矢が飛んで行って自分が助かるだけなのに、私にはどうしてもその指が離せない。震えて凝り固まった指が律儀に矢羽根を抑え込んだまま、ただ悲鳴を噛み殺すしかなかった。

「姫様!」

 怒声と共に首狩り刀が宙を舞う。

 私とイーガ団の間に滑り込んできた人影は、青白く輝く剣を振り抜いて首狩り刀を弾き飛ばす。どこかで見た光景に、一瞬見とれてしまっていた自分が恥ずかしい。

 完全に百年前のカラカラバザールの再現だった。

「リンク?!」

 黒いハイリアのフードに、青白く輝く直剣。

 ではココナが見た黒い獣はリンクのことで、つまり昨晩カカリコ村の中で行われていた獣同士の争いとはリンクとイーガ団の戦闘ということ。

 武器を失ったイーガ団はさすがにたじろいだ。姫だけなら手負いでもどうにかなると踏んで私の後ろに立ったつもりだろうが、勇者が居ては難しい。

 ずるずると引き下がって、あるところまで距離を置くとどろんと姿をくらました。

 はぁと肩から力が抜ける。

 結局私は、自分が追っていた獣に殺されかけ、もう一方の追っていた獣に助けられてしまった。

「リンク、ありがとうございました」

 無茶をし過ぎだとさすがに怒られる覚悟をした。ところが彼は抜き身の剣を持ったまま、ザっと音を立てて小道の脇に避けた。

「リンク?」

「大丈夫です、辺りには何の気配もありません。でもこのまま、すぐに村に戻ってください」

「貴方は? 行かないのですか」

 こんな不思議があるわけがない。

 危険な目にあった私に早く一人で村へ戻るようになどと、彼が言うはずがない。可笑しい。本当にこれはリンクだろうかと疑いそうになったが、どう見ても先ほど振るっていたのは退魔の剣だ。本人以外ありえない。

 だとしたら一体彼に何があったの、昨夜姿を現さなかったのはなんでなの。

 不思議に思いながら視線を泳がせていると、逃げたイーガ団の手から弾き飛ばされた首狩り刀を草むらの中に見つけた。その刃を曇らせている血脂にゾッとする。それにココナは、獣はいっぱい・・・・走って行ったとは言ってなかっただろうか。

 首狩り刀に着いた血脂が一体誰のものかを理解して、私は目の前のハイリアのフードに手を掛けた。

「早く行ってください……!」

「リンク、怪我をしているんでしょう?!」

 無理矢理剥ぎ取ったフードの下は、青い衣が切り裂かれて黒く染まっていた。

 ようやく見えた彼の顔色は蒼白で、お世辞にも大丈夫そうとは思えない。

「早く村へ行きますよ!」

「大丈夫です、ここで一晩寝れば、妖精もいるし大丈夫です」

「駄目です、その出血の量は貴方でも手当が必要です」

 痛みに歯を食いしばっている。こんな状態で寝れば治るだなんて、妖精が居たとしても非常識きわまりない。

 無理矢理手を引いて村へ向かおうとしたが、その手が乱暴に振り払われた。

「俺に構うなと言っているんです!」

 言われた私も目を丸くしたが、言った本人が何よりも驚いた顔をしていた。

 だが口に出した言葉はどうあっても戻ることは無く、彼はそのまま私を苦々しく睨みつける。牙を剥き出し、毛を逆立てて、さながら唸る雷獣に見えた。

 弱っているところを見られるのが、余程嫌だったのだろうか。三度みたび、私は手負いの獣に触れる覚悟の不足を突き付けられる。

 だとしてその相手が彼であれば、私の方にも他に選択肢など無かった。

 そしてようやく気が付く。

「心を鎮めてください」

 いくら優れた弓を持とうが弓術の心があろうが、私は相手を屈服させるような力の持ち合わせは無かった。元からそういう人間だと忘れて、どうやら覚悟の種類を間違えていたようだ。

 唸る獣に近寄って、迷わず手を伸ばす。体がびくりと震えた隙を逃さずに頬を包みこんだ。そこまで距離を詰めてしまえば、あっけに取られている彼の額はもう目の前だった。

 怯えた青い眼に、ようやく光が灯る。

「どんな貴方でも受け入れる、私は器になりましょう」

 額に口付けを落とす。

 雨と泥を吸ったリンクの髪は、湿った森の匂いがした。手負いの彼を一晩匿ってくれた泉の香りだった。

 手を離すと、彼は震える手で口元を抑えて、その場でうずくまるようにして頭を垂れる。逆立っていた毛が大人しくなり、か細く聞こえてきたのは「申し訳ございません」という謝罪だった。

「姫様から頂いた衣を、割かれてしまいました」

「ではまた繕います。それで大丈夫ですから」

 丸まった背に手を添えた。

 近くによって見てみれば、百年前に渡した青い衣には丁寧に繕った跡がいくつもあって、彼が何を大切にしていたのかが手に取るように分かった。見せたくなかったのは自分の傷より服の傷。

 呆れてしまったが、彼らしいとも思った。

「それに貴方のためなら、新しい服も作りますよ」

 いくらでも、と付け加えるとリンクは酷く驚いた顔を跳ね上げ、口をパクパクしながら再び押し黙ってしまった。

 今度は一体何を考えているの? と、本当は聞きたかった。でもこれ以上踏み入るのは、今はやめておく。何も聞かずに彼の手を引いて村へ戻った。

 それからしばらくして私は居をハテノへ移し、本当に彼の服を縫うようになった。

 もちろんこの時、『服を縫う』ことが仕立て屋の仕事ではなく、平民の生活ではもっぱら妻や母の役目だと元王女の私は知る由も無かった。

【時系列案内】

1.水の器
2.雷の器(いまここ)
3.風の器
4.炎の器

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