馬宿までもう一息というところだったが、日が暮れ始めていた。暗くなる中を馬で駆けるのは危ないと思い、手綱を緩めて並走していたゼルダを呼ぶ。
「今日はこのあたりで野営にしましょう」
「でも」
「夜道で馬を走らせるのは危険です」
渋々ながら頷くので、下馬して白馬の手綱を引いた。灌木を避けて岩肌の影へ、隠れられる場所を探す。
本来であればゼルダだけでもシーカーストーンでカカリコ村に帰したいところだったが、おそらく本人がそれを良しとしないので提案はしないでおいた。なんでも自分の足で世界を歩きたいのだと言って、出来る限りワープには頼りたくないそうだ。
「すいませんリンク、私が時間を気にしなかったばっかりに」
ゼルダが巨馬を見てみたいと言ったのは、俺がウツシエに残しておいたものを見たからだった。確かにあんなに大きい馬は、オブババ草地でしか見たことがない。捕まえてみようかと思ったが、すでに気に入った馬が居たのでそのままにしておいた。
逆にそれが良かったのだろう。ゼルダは随分と長いこと、遠目から野生馬たちの様子を観察していた。
「お気になさらず。わざと止めませんでした」
「言ってくれればよかったのに」
「無粋かなと思って」
荷を解き、馬たちの手綱を木に繋ぐ。乾いた山間で一晩、たまにはこんな日もあっていいかなと遠いハテノの自宅に思いをはせる。厄災を封じてからはハテノ村とカカリコ村と、なんだかんだと理由をつけて半分ずつぐらいの期間で往復していた。本当はずっとカカリコ村に、お傍に居たいのだが、一方的に居づらさを感じている。
ずっと姫様と呼んでいたゼルダには、もう姫と呼ぶのは止めてほしいと言われて、渋々名前を呼ぶようになった。でもまだ慣れないので気まずい。だから今はこれぐらいの距離感がちょうどいいはずだと自分に言い聞かせている。
逢いたいけれども、会いたくない。我ながら妙な感覚だった。
「でもリンク、水が足りません。今日のうちに高原の馬宿まで戻るつもりだったのでしょう? 今夜使ってしまったら、明日の分がちょっと……」
ああ、と荷物の水袋を確認した。確かに少し足りない。
一番近い水のありかはオーセ平原を南へ下ったところのテホタ湿地だが、湿地の水は淀んでいてあまり水質がよろしくない。さてどうしたものかなとあたりを見回す。
東にカゴッサ連峰、西にモルガナ山と、東西を高い山に挟まれたオーセ平原。以前はライネルが住処にしていたが、今は静かなものだ。
「どうしましょう、やはり先を急いだほうが」
「大丈夫です」
荷から布と空き瓶を取り出す。絶壁の壁沿いに歩いて、染み出す水を探した。
以前ゲルドキャニオン馬宿で教わった方法で、こういった山の麓のどこかには水の染み出すところがある。山に降った雨が川にならず地面に染み込んで、それがじわじわと溢れてくる場所。案の定、濡れて色の変わった岩の割れ目を見つけた。
「どうして水がある場所が分かったのですか?」
「場所はなんとなく」
「これを集めるのですね」
といってもすくう程の量もなく、瓶の口を当てがって溜まるような綺麗な凹凸の岩肌でもない。綺麗な布を水の染み出す間際に当てて、布の先を瓶の中へ突っ込む。すると水が布を通って瓶の中に落ちる。しばらくするとようやく一滴、ぽたりと水が落ちて来た。
「明日の朝には溜まっていますよ」
「布が濾過の役割も果たすのですね、すごいです」
そこまでは知らないけれど、博識な彼女が言うのならばおそらくそうなのだろうと思う。ゼルダは俺の経験を知識で裏付けをしてくれる。間違った生き方をしているわけではないと言われているようで、記憶の無いあの頃を思い返すとかなり安堵した。
馬たちのところへ戻りながら今夜の食べる物をどうしようかなとポーチを探る。日持ちがしそうなハーブの類と果物が少し、あまり大したものが無かった。
仕方がないので目に付いたモモイロサギを狩ってトリ肉を確保し、持っていたハイラル草やリンゴと合わせて肉の入った煮込み果実に。あとは辺りの特徴的な太い木に登ってトリのタマゴを少々失敬してくる。明日の朝にでも食べればいいかとこれはポーチに入れておいた。
「流石ですねリンク」
「あまり手の込んだものは作れませんが」
椀を渡すと美味しそうに食べてくれたので、一呼吸おいてから追うように自分の分に口をつける。どうにもまだ一緒に食べるというのが慣れないでいた。
いつか慣れるのか、それは少し怖い気もする。彼女に対する恐れのような敷居がなくなる自分が想像できない。大抵の人とは気安く話すことができるのに、どうしてもこの人にだけは上手くできない。いったん全てを忘れ、記憶を取り戻したからこそ、まだ抗いがたい忠義面が一本太い線を引いていた。
「リンクが先に寝てください」
「大丈夫ですよ、一晩ぐらい起きていても」
「いいえ駄目です。私だって火の番ぐらいできますから、夜が更ける前に交代しましょう」
「でもこのあたりはイシロックもコヨーテも出てきますし」
「出てきたらすぐに起こしますから、どうか先に体を休めてください」
完全に暗くなる前に毛布を押し付けられた。本当に一晩ぐらいどうということはないのだが、言い出したら止まらない方なのは昔から変わらない。仕方がないなと先に横になった。
「何かあったらすぐに起こしてください」
「ええ、横にいます」
寝たふりをしていると案外ばれることも、百年経ってようやく分かった。聡い人で、ちゃんと体を休めないと怒られる。
観念して目を閉じると、そういう性分なのですぐに深い眠りに落ちた。寝ると決めたらすんなりと寝られる。対照的に起きるときも何か気配を感じるとすぐに意識が浮上する。だから、なぜ目が覚めたのかと言えば、隣で身震いをする衣擦れの音がして、薪がぱちんと勢いよく爆ぜたからだった。
あたりの気配に探ってみたが、特に気になるものはない。遠吠えも遠い。危険なものはいないが、やはりゼルダが気になった。
「寒いですか」
「あ、ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
昼間は乾いて気温の上がる谷間も、夜は砂漠ほどではないが冷えてくる。毛布を体に巻き付けていたが、その下で手足を擦っていた。
「気づきませんでした、申し訳ありません」
使っていた毛布をさらに上から掛けようとしたら、むっとした顔で押し返される。
「これはリンクのです」
「でも風邪をひいたら」
「大丈夫ですってば!」
これで熱でも出された日には、インパに怒られるのは俺なのに。
でも言い出したら聞かないからなぁとため息を飲み込む。どうしたらいいのか、ちょっと考えれば分かった。でもそれをするには、彼女はまだ少し遠い人だった。
どうしようかなとしばらく視線を逸らして考える。自分でも答えは分かっていて、必死で言い訳を探す。
寒そうだから。風邪をひかれたら困るから。
全て嘘ではないが、そうではなくて。
「ゼルダ」
腹に力を込めて、細い腕に手を伸ばす。
「こうすれば二人とも暖かいです」
絶対に目を合わせないようにして、自分の毛布の中に引っ張り込んで横になった。これ以上は何もしない。必要以上は体を寄せたりしない。絶対。
ただ寒いからくっついて寝るだけ。
俺がそうしたいと思ったから、そうするだけ。他意はない。
「……ありがとう、暖かいです」
「寝てください。火の番は代わります」
ゼルダの額が俺の胸のあたりにこつんと当たって、だいぶ経ってから規則的な寝息が聞こえてくる。どんな顔をしているのか、お互いに何も見てもいない。赤々と燃えるたき火に照らされて、深呼吸をひとつ。
百年前に比べたら随分と感情が出るようになったと思うし、こうして行動に移すこともできるようになった。しかし、それでもまだ感情が詰まる瞬間、自然と堪えてしまうことがある、特にゼルダに関してはそれが顕著だった。
でも岩肌に染み出す水のように、確実に滲み出してくるものがある。それが怖い。
もしゼルダに対する感情が杯を満たして溢れたら、いったい自分が何を口にするのか恐ろしい。でもいずれその時が来ると分かっている。一滴ずつ、感情は着実に溜まっていた。
すでに一度、記憶が戻った時にゼルダに対する思いが溢れて止めどない涙になった。次に杯が満たされたら、今度は器が割れてしまうかもしれない。それでも喉は渇き、いずれ零れ落ちてくる何かを求めて、こうして体が動いてしまう。
「あったか……」
まだまだ夜は更けない。随分と長い夜になりそうだが、丁度いいやと星空を見上げた。こんなことを考えていたら、どうせ一睡もできやしないのだから。
了
—
【時系列案内】