空針で鯛を釣る

 老人と海、というにはいささか物足りない。

 元助手の少年もいなければ、手鉤も銛もない。大物狙いの太い糸を手繰っているわけでもない。ただ日に焼けたしわの多い老人が一人、春の日差しの中で網を繕っていた。

細かい臙脂色の網を破れ目に沿って、同じ色、同じ太さの糸を合わせて互い違いに網の目を綴じてゆく。煙草をくゆらせ、ほとんど手元も見ずに木製の網針で一目ずつ結節を作っていく。

老人はそうやって、目の前に広がる静かな内海と対面していた。

「S漁港の<ruby>三崎<rt>みさき</rt></ruby>さん? ですか?」

 風景にまったく馴染まない若い男が忽然と現れた。老人は目玉だけで若い男を見る。活発そうではあるが白い肌の、少し軽そうな男。

 静かな漁師町には似合わない都会の臭いがした。妙に背が高く、細く、遠目からも目立つ。

「あんたが<ruby>境<rt>さかい</rt></ruby>センセの紹介で連絡をくれた記者さんかい?」

「A週刊誌の清水と申します」

 清水はジャケットの内ポケットから名刺入れを出し、出版社のロゴの入った名刺を両手で差し出した。しかし老人、三崎の方は名刺を片手で受け取ると、すぐに尻ポケットにしまい込んで作業に戻ってしまう。

 空の高いところをトビが鳴きながら旋回している。うららかな春の陽気は、ともすれば眠気を呼びよせるような安穏とした雰囲気。時計の針よりもゆっくりとした時間が流れていた。

「お電話しました通り、今回政府が打ち出した漁具規制の問題についてお話を伺いたいのですけれども」

「もっとデカい漁港の偉いヤツじゃだめだったのかい」

「現場の生の声、本当の声をというのが編集部の方針でして」

「それであと腐れのないジジイ捕まえて洗いざらい吐き出させようってわけか」

 イエスともノーとも答えず、清水は無言のまま笑顔で頷いた。そのまま流れるような動作でポケットから銀色のスマートフォンを取り出し、三崎の方に向ける。

 不躾に光るスマートフォンに三崎が露骨に嫌な顔をして見せると、清水は「これで録音させてもらってますんで、すいません」と幾分か申し訳なさそうにした。

「週刊誌だったら他にもネタはたくさんあるだろう」

「たまには正義を謳う記事も書きませんと、不倫・不祥事・グラビアだけではやっていけませんから」

「漁具規制で困っている俺たち漁師から話聞いて、政治家叩こうって腹か」

「読者さんは正しい行いが好きなんですよ」

 清水の屈託のない笑みには、ぞっとするほど悪意がない。

 三崎は網を繕う手を止めず、腰を折って伺っている清水を見やる。煙草を一度大きく吸い、ぱーっと大きく吹き出す。まだ少し冷たい風が煙をどこかへ吹き飛ばしていった。

「需要と供給とはよく言ったもんだな」

「今回の政府の決定について、率直にどう思われます? やはり漁具に規制が入ることは反対ですか、生活面への影響や、道具の買い替えの必要性ですとか。あるいは漁具のメーカーと国の癒着という線もささやかれていますが」

 清水の口から飛び出す質問は、徹頭徹尾、読者の同情を買うための質問だ。規制には反対だ、生活は苦しいという怒りの答えを待っている。筋書きの決まった学級会のような回答を求めている空気が、小春日和にいがいがと広がった。

 大仰にため息をついて見せた三崎は、答えづらそうな顔をしながらようやく<ruby>網針<rt>あばり</rt></ruby>を止めた。

「書く方も読む方も、同じ穴の狢か」

「我々は国民の声に真摯に向き合って、真実を白日の下に晒しますよ」

「それが同じ穴だって言ってんだ」

 「そうですかね」と清水は言いながら、あくまで表情を崩さずににこりと糸目になった笑顔を見せつける。何もしゃべらなければ、実に人好きのする面の皮を維持していた。

 三崎はそんな胡散臭い男から顔を背け、網針から繰り出した糸を戻す。途中まで破れ目を繕った臙脂色の網を持ち上げて日に透かした。見事なまでに調和のとれたひし形が整然と並ぶ。

「おめぇらには分からん話だろうが、今の漁師の仕事は魚を逃がすことだ。獲ることじゃねぇ」

「撮ってもいいですか」

 清水は背負っていたサックからコンパクトカメラを出して、ちょっと持ち上げて見せた。

「撮ってもいいが、顔や名前や場所が分かるようには写すんじゃねぇぞ」

「ありがとうございます」

 持ち上げられた臙脂色の網目は1目おおよそ5センチ。手で縫ったところ以外は結び目がない、目の細かい網だった。

 カシャ、カシャと機械的な音がいくつか響く。

「これは何を獲る網ですか」

「イワシとかだな」

「なるほど、それでその、逃がすっていうのはどういう意味ですか。魚は獲るもんじゃないんですか」

 矢継ぎ早に繰り出される清水の言葉に、ようやく三崎は煙草を手放した。隅に置いてあった一斗缶へ煙草を放り込む。

 体の向きを整えて、この何も分かっていないのっぽな男の方へ顔を向けた。

「もし、だが、この網目よりも魚が小さかったらどうなるか、それぐれぇは分るな?」

「魚は逃げますね」

「そう、それが網目の選択。つまり大きい魚は獲るが、雑魚は逃がす。もうちょっと大きくなってから獲るようにって寸法だ。といっても、これは境センセが言っていただけで、俺が実際魚が逃げていくところを見たわけじゃねぇ。でも理屈は分った。だからセンセのことを信じて今日まで少しばかり目の大きい網を使ってたのさ」

「つまり、政府の打ち出した漁獲規制よりも以前から、自分たちで管理していたと?」

「あたりめぇだ。俺たちはもともと海を守らねぇとダメなのは分かってた。それでも生活もあるから逃がしてばっかりじゃおまんま食い上げだ。その落としどころがこの網目の大きさだったんだ」

 清水はしゃがみこむと、自分の手でも網を手繰り寄せて網目の大きさを見た。この目を抜けるものは逃げて、目を抜けられない魚は漁獲される。

 簡単なロジックは、とどのつまり小学生で習う比の問題だ。

 大きな網目になれば、その網目の大きさにあった魚が獲れる。小さな網目にすれば逆の状態になる。獲りすぎず、かといって逃がしすぎず、そのちょうどいい網目の大きさが今この状態。

 清水は網の目を矯めつ眇めつ、分かったような分からないような妙な顔をして首を傾げた。しゃがみこんでようやく目線があった三崎の顔を覗き込む。

「でも今回の政府の決定って、網だけじゃないですよね? 延縄とかも入ってるって聞いたんですけど」

「何だ、調べてきてたのか」

「ネットで少々」

 海からの強い風に運ばれた砂が、アスファルトの道の端に分厚く積もっていた。その向こう側には黒ずんだコンクリートの堤防。さらに向こう側には静かな内海、その内湾を出ると太平洋が広がる。

 この房総の小さな港には細々とした漁をやる漁師しかいない。漁港の方にも受け入れる設備もない。

 だが近隣の大規模漁港には、数か月にもおよぶ長期航海をして漁をする大型船舶がいくつも出入りしている。

 延縄、トロール、流し網、全ての漁具に制限を掛けたことで現場は大混乱。現在使っている漁具が今後も使えるのかどうか?

 漁師たちは漁そっちのけで確認に追われていた。

 一方世間の方はといえば、漁師たちがいったい何に慌てふためいているのかいまいちピンとこない。ネットで少々知識をかじったという記者ですら、よく分からない顔をして質問攻めだ。質問が出るだけでもまだマシなのかもしれない。

「釣り針も網目と同じだ。でかい針にはでかい魚がかかるし、小さい針には小さいのがかかる」

「大きい釣り針に小さい魚かかったり、大きいのが小さい釣り針を食べたりはしないんですか」

「これも境センセの受け売りだが、小さいやつは口も小さいから大きい釣り針は食えねぇ。逆に大きいやつは、小さい餌を食べても腹の足しにならんから食わねぇ……らしいな」

 最後の「らしい」の部分をことさら強調するように言った三崎はおもむろに立ち上がった。ちょいちょいと手招きをしてのっそりと歩き出す。

 砂を噛んだ長靴がジャリジャリと音を立てた。その後ろをアスファルトを叩く清水の固い靴音が続く。

「はぁ~自然ってうまくできてるんですねぇ」

 頭一つ分大きな清水が、小さいながらもガタイの良い三島の後を付いていく。後ろを振り返ることもなく、三島はスタスタと漁港へ向かって歩き出した。 

「まあなんとでも言ってくれ。そういう釣り針の大きさや網の目の大きさを、ちょうどいい塩梅にしてやるのが、今の俺たち漁師の仕事」

「逃がすための?」

「そうだ、小さいのは逃がして、大きいのだけ獲る、自分たちが困らない程度のギリギリのいい塩梅の所を見極めんのさ」

 清水は右手のスマートフォンを前に突き出しながら、大股で悠々と追いかける。

 厳しい顔つきの老人の後ろを、妙にひょろ長い男がスマートフォンを差し出しながらついていく。すれ違う人がいれば振り向くような光景だったが、あいにく閑散とした港町の端っこでは誰にも出会わなかった。 

「ところがそこに政府がしゃしゃり出てきたと」

 人がいないのを良いことに清水の口は動くのを止めない。一言二言のあとには「政府の決定は」「政府の方針は」と、そればかりを聞きたがる。

 いい加減、聞き飽きた質問の三崎は口を重そうに持ち上げた。

「正直なことを言えば、役人がおっとり出てくる前から自主的に規制をやっていた俺たちが割を食うのは納得いかねぇよ。でも外国からきた藻が増えたり、上流のダムがどうのとか、なんやかんやと小難しいことを言われても俺達には分かんねぇ。役人は分らないように俺たちに話をする。たまったもんじゃねぇ」

 この言葉が取れた時、清水は明らかにしめたとばかりに微笑んだ。ようやく欲しかったものが手に入った、その会心の笑み。

 対照的に喋らされた、つい言ってしまったとばかりに三崎は長々しいため息をついた。

 お互いに表情を崩しながら漁港の片隅、漁師たちが集まる一室へ向かう。

 中は換気扇を回しているのに煙草の煙で白く曇っていた。パイプ椅子に座っているのはいずれも黒く日焼けしてしわだらけの爺さんばかり。ただし誰もが筋骨隆々で未だ現役なのが分かった。

 その中に一人、少し雰囲気の違う爺さんが混ざっていた。日焼けはしているが他の漁師ほどではなく、表情もやや柔和で背広にネクタイ。どうやら客人のようで、足元には通勤用にも使えそうな鞄が置いてある。

「あ、境先生! 先生もこちらにいらしてたんですね。今回はご紹介どうもありがとうございました。大変良い記事が書けそうです」

「それはよかったよ、A週刊誌の清水君といったかな。僕も用事があって、ついさっきこっちに来たばかりなんだ。今、学生たち待ってるところ」

 真っ先に気が付いた清水がニコニコ顔でお辞儀をする。それに合わせて立ち上がった堺先生は、清水にうんうんと頷き、その背後で渋い顔をしていた三崎に向かって会釈をした。

「三崎さん、今回は引き受けてくれてどうもありがとうございました」

「境センセのお願いは断れねぇよ。俺たちの恩人なんだから」

「そういってもらえて助かりました。他の方には断られちゃいましてね」

「そりゃぁそうだろうよ」

  話の途中でお茶と、境先生が持ってきてくれたお土産のお茶菓子を渡され、三崎と清水も空いていたパイプ椅子に座った。

 無線も動いていないのんびりとした日中。漁師の爺さんたちはぼそぼそと聞き取れないぐらいの声でやり取りをしていた。

 そんな中で元気そうに清水がまた銀のスマートフォンを、今度は堺先生に向ける。

「境先生は今回の国の方針についてはどうお考えなんですか?」

「僕は大学の教員であって漁師じゃないからねぇ」

  あからさまな苦笑いをした堺先生は、ポリポリと後頭部をかく。だがその程度で清水は引き下がらない。

 なにしろ大学教授の言質が追加できれば、記事としても箔が付くというもの。その絶好の機会を見逃すような彼ではない。

 堺先生も分かっていて「どうだろうねぇ」「わからないねぇ」とまろやかに、言葉巧みに明言をしない。そんなやり取りを横目に、老漁師たちは呆れ顔を並べて束とお茶を消費していた。

 そんな中、立ち上がった三崎が小汚いデスクの脇に掛けられていたカレンダーをめくる。明日からちょうど4月。めくっていたカレンダーを戻すと、堺先生を質問攻めにしていた清水の方を振り返った。

「そういやおめぇ」

「はい?」

「明日までいるか? 今夜どこか泊まる場所あるか」

 虚を突かれた清水は目を丸くしたが、すぐに落ち着いて頷いた。

「ええ、今夜は駅前のホテルです」

 「んじゃあ明日の朝、ちょっと俺たちに付き合うか」

「はい? 明日? 何にです?」

 眉毛を段違いにして清水は首を傾げる。

 周囲の漁師たちは察したように「やめとけ」と声が上がるが、それを制して三崎は言葉を続けた。

「俺たちのこと、ばらさないって約束するならいいもん見せてやるよ。明日の朝4時にまたここに来られるか」

「何かあるんですか?」

「そんなのぁ俺たちの口からは言えねぇよ」

  声を低くして他の面々を伺う三崎に対して、いずれも神妙な顔をしたまま全員頷いたり俯いたりしている。中には腕組みをして帽子を目深に被り、目を合わせないようにする者までいる。

 一変した空気に、清水はきょろきょろと見回すが誰も助け船を出そうとはしない。堺先生ですら目を合わせず素知らぬ顔をして、飲み干した湯呑を手の中で転がしていた。

 その異様な光景に戸惑っていた清水だが、ある瞬間ハッと背筋を伸ばす。恐る恐る、今までとは打って変わって小さなささやくような声で言葉を続けた。

「ま、まさか、密漁とか……?」

「どうだか、自分の目で見てみな。とにかくバラさねぇなら明日の朝4時にまたここだ。来られるのか? 来られるんなら準備しといてやる」

 「ええ、もちろん、もちろん来ます。ありがとうございますっよろしくおねがいします!」

「あんちゃん、足のサイズと身長は?」

  立ち上がった清水の後ろから、ニヤニヤと他の老漁師が声をかける。振り返り満面の笑みで彼は答えた。

「足は27センチで、身長は186です!」

「そかそか、んじゃあ息子のがちょうどいいわ。うちで準備しておこう」

  爺さんばかりの漁師たちに見送られて、清水はそそくさと駅前のホテルへと帰っていった。何しろ明日は4時集合、最高の記事を書くための最高の材料を仕入れるために今日は早く休む必要がある。

 清水が去ったあと、しばらくすると漁師たちはいずれもニンマリと笑った。美味しそうに煙草を呑む。もちろんその中には境先生もいた。

「随分と立派な大きな手伝いを釣り上げたじゃないですか、三島さん」

 カラカラ笑う堺先生のスマートフォンのバイブが鳴る。どうやら学生の一団が到着した知らせが来たようだ。

「あーあ、僕なんかこれから学生たちに晩ご飯おごりですよ? 釣り針だけじゃ全然食いつかないから、餌までつけなきゃいけないのに。あの記者さんは針だけで簡単に釣れて、いいなぁ羨ましい」

 帰り支度を始めた堺先生は、席を立つと先ほど三崎がめくっていたカレンダーをちらっと見る。3月1日に『藻除去』と書かれている。

「三崎さんも人が悪いよ、春先の月初めは漁協総出で河口の藻の除去だろうに。だから僕も学生いっぱい連れて来たのにさ」

「俺は漁師だよ、センセ。教えてもらった通り、とびきりデカい釣り針を用意したんだから、狙うのは図体がデカいやつだけさ」

 打って変わって満面の笑みの三崎は、立派な上腕二頭筋をポンと叩いて見せた。

一次創作に戻る