お食事の時間 - 3/4

 何やら口論が聞こえてきた。女の声が二つ。

 青年は後ろ手に縛られてベッドの上に転がされていた。そのことに気がついた時には、まだ腹に疼痛があった。

「あ、起きた。母さま、起きちゃったよ、餌が起きちゃった」

 黒髪ショートがぱっと振り向いた。外見よりも随分と幼い話し方の女だった。もう顔には血は付いていなかった。だが、記憶にある血だまりを思い出して、青年は驚き慌てて何も話せないでいた。

「母さま食べて。キシュアナが獲ってきたの、食べて!」

 女、彼女はキシュアナというらしい、彼女が後ろを振り向く。キシュアナが話しかけている相手は彼女の母親のようであった。青年からは、キシュアナのさらに向こう側にもう一人女が見えた。黒く長い髪をゆったりと弄りながら、白いロングスカートの女が椅子に座っていた。だが、どう見ても母親というには若すぎる。キシュアナが二十歳前後に見えるのに対して、母親というのが三十手前に見えたのだ。

 青年は目だけを動かして周囲を見回す。薄い毛布がかけられたベッドが二つ、最小限に抑えられた家具、半分閉められたカーテン、そこはホテルの一室だった。後ろ手に縛られた青年と、若い方の女キシュアナ、そしてもう一人の女、三人が狭いホテルの一室を圧迫していた。

「キシュアナ、ユーリンケは食欲がないと……」

「何も食べなかったら、母さま死んじゃうよ! せっかく獲ってきたのに!」

 キシュアナは、母親の手を引っ張ったが、振り払われてしまう。ユーリンケと自分を呼んだ女はこめかみに手を当ててため息をついた。青年は唖然として、二人の女を見た。

「お前ら、人喰い、なのか……? 人肉嗜食カニバリズム……?」

 見れば見るほど、彼女たちは妖艶なまでに美しかった。現場を見ていなければ、まさかキシュアナの顔が血まみれだったなどとは誰も信じないだろう。

「人喰いじゃないよ、キシュアナと母さまはヒトの脳を食べるんだよ」

 キシュアナが舌舐めずりをしながら答えた。少し回りくどい言い方をする、独特の口調だった。違和感を覚えつつ、男は二人の人喰いから目を反らそうとはしなかった。むしろ反らせなかった。

「キシュアナの言うことは少しあっているが、少し間違っている。我々は脳を食べる。だから脳の大きいヒトを狙って食べる。サルでもよいが、あれはすばしっこい上に脳が少々少ない。人は脳が大きい上捕まえやすい」

「どっちにしたって人喰いじゃないか!」

 青年は思わず声を荒げた。キシュアナがびくっと体を震わせる。だがユーリンケというもう一人の人喰いはその言葉をなんでもないように聞いていた。そして青年の悲鳴にも似たどなり声の一拍後に冷静に口を開いた。

「違う。ユーリンケたちは、お前の言うところのカニバリズムではない。よく間違えられるが、カニバリズムとは人同士で人を喰うこと、いわば共食いであろう? 我々は、特にヒトを餌とするリリアラ食人種だ。我々は隠れて生きているので、知らないのが普通である。世の中にそういう生き物がいれば、お前たち人は得意の〝駆除〟をするだろうからな」

青年は、困惑した表情で母親だというユーリンケの方を、寝転がされた体勢から見上げた。

「何を言っている……? お前たちは、人間だろう?」

 体を動かして首を楽な体勢にする。多少楽になった首を動かして、青年はまじまじと二人を見たが、見た目には普通の人間だった

「だから、違うよ。キシュアナとユーリンケ母さまは、リリアラ食人種っていう生き物なんだよ。なんで分からないの?」

「はぁ? どういう意味だ?」

 青年が間の抜けた声を出すと、何が可笑しいのかキシュアナが笑い始めた。ユーリンケの方は、やはりな、という顔をしてフンと鼻でため息をついた。

キシュアナはコロコロと鈴を転がすように笑って、ベッドをぱしぱしと叩き、そして最後に青年の頭を軽く叩いた。叩かれた青年は最初こそ喰われるのではないかと体を硬直させたが、そのうちキシュアナが笑っているだけで何もしないと分かると、むっとして頭を振って彼女の手を払った。

「何が可笑しい! なにが、そのリリ……なんだ? どこをどう見たってお前たちは人間じゃないか!」

「違う。私、ユーリンケと、我が娘キシュアナはリリアラ食人種だ。お前たちが無意味に恐怖する宇宙人や、気違いと蔑む人を食べる趣味のヒトではない。それが証拠に我々は水を飲む以外には動物の脳しか食べることはない。それ以外は食べられないように体が出来ている。キシュアナ、口の中を見せておあげなさい」

 ユーリンケが言うと、キシュアナが青年から自分の上顎がよく見えるように口を開けた。下から覗き込んだ青年のむっとした顔は、一瞬にして恐怖に凍りついた。

 彼女の白い前歯の後ろ側にはもう一列、剃刀のように研ぎ澄まされた歯が、寸分の狂いなく綺麗に羅列していた。あるいはそれはそそり立つ巨大な雪山のようにも見えた。青年には裏の並ぶ第二の歯から、赤い血が滴り落ちる幻想が見えた。

「これでキシュアナたちは人の頭をかじるんだ。よく切れる」

 キシュアナは口を閉じて得意げに笑った。口角の上がった口の中に第二の歯があることを思うと、青年には彼女が笑っているようには見えなかった。

「化け物……? 何なんだ、お前らは何なんだよ。なんだってこんな、いいや、間違ってる! お前らちゃんとした生活送った方がいい、人間を食べるなんてのはおかしい事なんだぞ? それは間違ってるんだぞ!」

青年はおびえた目で、交互に二人を見た。するとユーリンケは半分あきれ顔で口を開く。

「一回の食事でより多くの脳を食べるためには、獲りやすく、脳の大きい動物を狙うのが頭のいい狩りの方法だろう? 最近のヒトはそんなことも分からないのか?」

 青年はようやく自分が〝変なもの〟、しかもとびきり変なものに捕らわれているのだという認識が芽生え始めていた。人間ならばまだ言葉が通じるが、通じても意思疎通のできない人間がいるとしたらこんな感覚かも知れない。

「どうしてどうして、言っているように我々はヒトではないのだから、ヒトを食べてもおかしくはあるまい。お前たちとて、牛や豚を食べるであろう。だからお前たちがよく言う、 『人道的』には制約されない。あるいはお前たち人は豚や牛を食べるのだから、いわば非豚道的であり非牛道的であろう」

 ユーリンケは何も思っていないような顔をして首を傾げた。青年は牛も豚も、鳥もなんでも食べる人だった。しかし、だからと言って彼自身、牛や豚に食べていいですかと聞いたことはなかった。あるわけなかった。彼は毎日三度の食事が食べられることを有難いとは思いつつも、食べ物は食べるものとしてしか認識したことがなかった。ましてや食べる相手を殺す瞬間に、彼は立ち会ったこともなかった。

「牛はきっとそんなこと考えない、たぶん豚だってそんな風に仲間意識は無いだろう! 人間は違う! 食べられていい動物じゃないんだよふざけんな! 人間じゃなくって牛喰ってればいいだろ!」

「食べられちゃいけない動物なんているの母さま?」

 いつの間にかベッドの縁に座っていたキシュアナが、さも不思議そうな顔をして母を見た。だがユーリンケはやさしく首を横に振った。

「食べ物にならない・・・・動物はいるが、どんな相手からも食べられてはいけない・・・・・・・・・・動物などない。若いヒトよ、どうしてどうして、食べなければ我々は餓死するというのにお前たちはそれを批難する? 我らは特異的に脳を食べるようになっただけゆえ、逆に脳以外は食べられぬ。食べるの対象がヒトであることは、これと言って特別、自然の摂理に反してはおらぬ。あえて問うが、若いヒト、お前は例えばアリクイがアリだけを食べることが可笑しいと感じたことはあるのか?」

 青年にとって、人間は狩られる側の存在ではなかった。人間を殺すことができるのは、事故や天災か、あるいは同じ人間だけだった。だがこの人外たちはどうだ、完全に人間の天敵になっている。

「そんなこと言ったって、喰われた奴が可哀そうだとか、思わないのか? キシュアナってだったか? お前はバーで何をやっていた?」

「私、狩り。ああいうところにいると、餌の方から勝手に声をかけてくれる。母さまに教えてもらった狩りの方法」

「あのな、そんな理由でお前に声かけたんじゃないんだぞあの男は! お前が綺麗だったから声かけただけで、そんな理由で喰われるなんて相手が可哀そうだとは思わないのか?」

 まくし立てられた言葉の半分も理解していないような顔をして、キシュアナは口を半開きにして首を傾げた。そしてまるで『通訳して』と言わんばかりにユーリンケの方を向いた。ユーリンケは娘の方には向かず、青年の方だけを向いていた。

「どうしてどうして、ヒトは喰われることが不幸だと思う? それは残された側が痛ましいと思うからではないか? 喰う食われるは本来あるべき、生き物の生死のあり方の一つである。循環する命の一つの作用に過ぎぬ。我らとて森を歩けば例えばオオカミに食べられるかもしれず、そうでなくともいつかは絶対に死ぬのだ」

 エネルギーは太陽から来て太陽へ還り、物質は循環する。地球を一つの閉鎖生態系と見れば、確かに命、生物は次の生物に食べられなければ環から外れてしまう。だが人間はいつしかその環の外にいる感覚で生活していた。それを、彼だけのせいではないのに、哀れな青年が今、天敵の人間を食べる者から指摘される。その事実に青年は愕然としていた。

「お前たちには罪悪感という概念は無いのか? 同じ人の形をしておいて、自分たちと似た姿の人間を食べることに抵抗は無いのか……?」

 同じ形をしたものを食べることに対する抵抗はないのだろうか、青年が最後に縋ったのはその感覚だった。非常にあいまいな感覚だった。知性のかけらもない生物ならまだしも、人語が通じる相手ならば通じるものがどこかにあるのではないか。食べられる側と食べる側の両方が共有できる感覚というのが、何かあるのではないかと、青年は食い下がろうとしたのだ。だがまたもユーリンケは小首を傾げつつ、青年の目を軽く睨み返した。

「どうしてどうして、人型をした我々がヒトを食べることに抵抗? そんなものはない。むしろ我々はお前たちに効率よく接近して食べるために、同じ人型になった。そして同じ人型の中でもヒトに近づきやすくするために特に美しく、そして美しいままであるようにほとんど歳をとらなくなったのだ」

 青年には相手を理解出来ないとしか、その時理解が出来なかった。唖然と、あるいは呆然とするしかなかった。彼女たち二人の感覚は、人間のそれではない。事故や人間は、人間を食べるためではなく、殺すために殺す。だが天敵であるリリアラ食人種は、食べるために人間を殺すのだ。生きる欲求を満たすためならば、躊躇はあるまい。

むろん彼女たち自身は、食べる側と食べられる側両方の認識、感覚が違うことを理解していたのだろう。だがそれは擬態して食べる側と、擬態されて食べられる側の意識の違いであった。青年にとってリリアラ食人種という生物が突然現れたところで、それは着ぐるみの中身が判別できないように、ただ人の皮をかぶった別の何者かでしかなかった。

 結局、青年には彼女たち二人が人間を食べるとことが日常であり、自然であることは理解しがたかった。そして唯一理解できたのは、これからどうなったとしても彼女たちどちらかの胃袋に彼が入るということだけだった。

「……もういい、お前たちとは、生きる世界が違うんだ。食べられる側の俺が食べる側のお前たちのことで理解できるのは、確かにお前たちが敵だということだけだ……。食べるんだろ、俺を」

 青年の目に涙が盛り上がる。単純な恐怖がようやっと彼に訪れた。

 心があったら、牛も断末魔以外の声を上げるかもしれない。涙が出るなら、鶏も卵を獲られるときに泣くかもしれない。あるいは逆に、獲られないからこそ、狩られないように防衛してきたからこそ、人間は悲しみ、涙を流すようになったのかもしれない。青年は滲む視界の中でぼんやりとそんなことを考えていた。

 しかしユーリンケの一言が青年の覚悟を一蹴する。

「だからユーリンケは食べないと言っているだろう」

 やはりか、という顔をしたキシュアナが唇を突き出して拗ねたように横をプイと向いた。

「どうしてどうして、ユーリンケはもはや食べる気力がない。これは生きる力が無くなったからに過ぎず、そしてユーリンケはそれを理解している。食べる力がなくなった生き物は死に至る。だから、若いヒトはどこにでも逃げて行くがよい」

「母さま……」

 拗ねていたキシュアナが、ハッとしてユーリンケの方を見た。ユーリンケは自分の死期を噛みしめるようにうなずいた。娘は何かを言おうとして口を開きかけたが、母の目を見て無駄であることを悟り、口をつぐんで項垂れた。

「キシュアナも、覚えておくがよい。生き物は、食べられなくなったら死ぬのだ。そして生きるには必要なだけ食べるのだ。食べすぎてはならぬ」

 そして立ち上がったユーリンケはキシュアナの肩を後ろから抱いて、耳元で諭すように言った。

「さあキシュアナ、お腹がすいているならば、このヒトを食べなさい」

 青年が再度目を見開いて硬直した。目からはすでに涙は止まっており、逆に野生で食べられる側の生き物の、おびえているが隙あらば逃げようとする生命の光が宿っていた。野生で生きるとはそういうことだった。

 じーっと青年の顔を見たキシュアナはふるふると首を横に振った。

「お腹いっぱい。キシュアナはもう十分に食べた。もういらない」

「ならば見逃してあげればよい。これで生き延びられなければ、そこまでの命だったということだ」

 ユーリンケはおもむろに椅子から立ち上がり、周りの荷物を古臭いカビの生えたトランクに詰め込んでいった。その時間ほんの数分、光景だけ見ていればそのまま人間のようだった。あっという間に旅装が整う。最後にユーリンケがハンカチを取り出して抵抗する青年の口に猿ぐつわを噛ませた。ついでに手を縛っているロープの端をベッドの足にくくりつける。がっちりと結ばれると、青年が暴れてもびくともしなかった。

「騒がれると、面倒なのでな。ユーリンケたちは部屋でも食事を獲ることがあるゆえ、宿舎の者には特に部屋の掃除など、世話はしなくてよいと言ってある。あと数日間は誰も来ることはないと思われるが、悪く思うでないぞ。我々とて生きるためならば手段は選んではおられぬ」

「じゃあね、バイバイ」

 キシュアナが嬉しそうに手を振った。無邪気な幼い子供の無垢な笑顔。そしてトランクを片手にドアの外へと出た。続いて出ようとしたユーリンケが立ち止まる。そして何を思ったのか、睨みつける青年の顔の高さに合わせるように床に膝をついた。

「忘れるな、若い人。お前と私たちは同じ空の下に生を享受する同じ生き物なのだから。お前と我々は同じなのだからの。ではまたいつか会おう、それまでしっかり生きておるのだぞ」

ひらひらと優雅に手を振りながらユーリンケは部屋から出て行った。半分だけ電気を消すために伸ばした繊手は、美しい人間の女のようだった。

 

 七日後、あのホテルのある町から二百キロほど離れた町の駅に、二人のリリアラ食人種が立っていた。キシュアナは少し大き目のズボンの裾を折ってはいており、ユーリンケは黒いスカート姿だった。寂れた炭鉱町で、二人以外に人の姿はない。二人はそれぞれ真新しいトランクを地面に置き、キシュアナが持っている新聞を二人で覗き込んでいた。

「えーっと……、ほてるのへや、いっしつから、ろく? 十六?にちぶる……に? んーと、じもとせい……、おとこ? たすけらる、あ、違う、られただ!」

「そう、この間の若いヒトが、六日ぶりにホテルで生きて見つかったと書いてあるのよ」

「すごいね、あのヒト、生きていた。弱くない」

 キシュアナが一生懸命に新聞の文字を読み、ユーリンケがそれを助けているところだった。キシュアナはまだ自由に文字が読めるわけではないようで、眉をひそめながら続きを読み始めた。

「みつかてやる、はんかち、の、もつ……もってたひと? ひと、くい……と、ふめいの、こと……いって……る? であってる?」

「あの青年は、ハンカチの持ち主が人喰いだから見つけてやると言っているそうだ。どうやら、さすがに音沙汰がない私たちにしびれを切らした宿舎の従業員が、部屋を開けて見つけてしまったようだね。運のいい若いヒトだこと」

「へー!」

 キシュアナは感心したように何度も頷いた。それからもう一度紙面に目を落として、読み返した。

「よかったね、あのヒト。仲間に助けてもらえた」

 しみじみとキシュアナは言って、新聞を折りたたんだ。そしてそれをユーリンケに渡した。

「まぁキシュアナは、仲間、知らないから、よく分からないけど」

 幼い子供のようにキシュアナは口を尖らせた。年齢不相応の娘の行動を見ても、母のユーリンケは優しそうに笑って、自分より少し背の低い娘の頭を撫でた。するとキシュアナは嬉しそうに笑う。一見、どこにでもある仲の良い友達同士のような光景だった。

「大丈夫。キシュアナが十歳になるまでには、ユーリンケがきっといい相手を探し出してみせよう」

「でも、もう母さまが父さまと会って、父さまが死んでから、別のリリアラ食人種には会っていないんでしょ? もう何年も前なんでしょ?」

 キシュアナがユーリンケの目を覗き込んだ。ユーリンケは少し寂しそうな顔をしていたが、認めるようにゆるゆると頷く。

「もう百二十八年前に我が夫に出会って以来、他のリリアラ食人種には会っておらぬ。あの人に会えたことすら奇跡だったのかもしれない。キシュアナ以外の十二人の子供たちも育たずに死んでしまうか、下手に狩りをして逆にヒトに見つかって殺されてしまった……」

 キシュアナがそれを聞いて項垂れる。彼女とて怖いのだ。人間の天敵であろうとも、逆に彼女たちの天敵は人間なのだ。項垂れた娘の肩をしっかり掴んで、母は力強く言った。

「心配するでない。キシュアナはユーリンケが守る。キシュアナを最後の一人にはさせぬ。そういう定めだったとしても、抗おうぞ。それが生きるということだ。ヒトの言う、絶滅になど、なってたまるものか……」

「さだ、め? ぜつめつ……?」

「生きてゆけば分かる。いつか、あの若いヒトも分かるであろ」

 言葉の最後の方は丁度到着した列車の音にかき消されてしまった。キシュアナが先に乗り込む。そしてユーリンケも列車に乗り込んで、列車は出発した。何事も無かったように、ホームに風が吹いた。