夜が明けてから先のことは、完全に姫様の掌の上だった。果たして本当に何事も無かったように次ぐ日は終わり、二日後には陛下から褒美を思いついたか問われる。少し考える振りをして、言いつけ通り「一年間ハイラル中を見て回りたい」と申し出た。
陛下は「あい分かった」と深く頷いて、旅装に十分なだけの支度金をくれた。欲しいものなどなかったうえに、寮でつましくやっていて、城下に貰った家は貸していたので蓄えは十分にあったのだが、ありがたく使わせてもらった。
表向きの振舞として姫様に旅立つ許可をもらいに行くと、なぜかプルアとロベリーがいてシーカーストーンを押し付けられた。なぜこれをと首を傾げると、姫様は目を輝かせている。
「気になったもの、全てウツシエに残してきてください」
呆気に取られて返事を忘れていると、ポポウ!とテラコに怒られた。
見送りを全て断り、目立たぬように人の流れに紛れて夕刻、城を出る。どこの誰とは悟られぬようにハイリアの服一式で、背負ったマスターソードにも布を巻いて、見た目は完全に旅人のそれ。
フードを目深に被って顔を隠す。あまりにも寂しくて、知らぬ人からでも顔を見られたくなくて俯いたまま歩いた。
「どこに行こうか……」
夕日に背を押され、城下を抜けてもさらに西へ。見晴らしのいい場所まで行きたかったのでマズラ橋を渡って馬を降り、手綱を引いてゴングルの丘へ上がった。そういえばここでも姫様を守って戦ったな、と思い出が湧いては消えていく。
代わりに世界を見てきてくださいと言われても、パッと行きたいところが思いつくはずもない。本当に、姫様がいないと何もできない奴だなぁと自嘲したが、幸いなことに情けない姿を揶揄する人もいない。
と思ったら。
「ユウシャサマ、ひとり?」
丘の上にコログがいた。人の気配がしなかったのに、少し気を抜いていただけでこれだ。
「うん、一人」
「むにゃむにゃゴロゴロしにくる?」
あまり眠くはないけれど、しかし背中のマスターソードのことを思うと最初の行き先は確かにコログの森かもしれない。丘の上で遥か北の方角に目を凝らすと、デクの樹様の樹冠を飾る花がかすんで見えた。
厄災が封じられたのだから退魔の騎士はもう必要ない。ならばその証たる剣も、そろそろ休ませてもいい頃合。ならばここでコログに出会ったのは意味があるのだろう。
「そうだな、ちょっと疲れたから行ってもいい?」
どうぞどうぞと言わんばかりに連れられて、迷いの森を進むとまとわりつくコログがどんどん増えていく。こんなに居たかと首を傾げたくなったが、気を抜けば涙腺が緩みそうだったので賑やかなのが逆にありがたい。
デクの樹様の前へ来て、迷いなくマスターソードの鞘を払った。青白い刀身が月明かりに輝いていた。
「誰かと思えば」
重たい声が梢を揺らす。寝ていたはずのデクの樹様がうっすらと目を開けていた。
「お返しします」
「よいのか」
「はい、ありがとうございました」
耳の奥の方で剣の声が聞こえた。それにありがとうと返事をして、台座に差し込む。手を離れてもしばらく、耳の奥に声が鳴り続けていた。心の奥底まで染み渡り、心地の良い疲れに目を閉じた。
「焦らずとも良い、いずれ道は開けよう」
いつだったか、それはデクの樹様が姫様に送った言葉だ。今更同じものを、今度は俺が受け取る。焦る気力もなく、道が開けたようにも思えない。力を求めて必死にもがいていた姫様に比べたら、今の自分はあまりに不釣り合いな意気地なしで、同じ言葉を受ける資格もないはずなのに。
「おぬしの姫巫女は聡い。信じて待て」
「はい」
一晩、ふかふかの寝床を借りて、朝起きて来たボックリンに挨拶をして、俺は迷いの森から出て行った。おそらくもう来ることもあるまい。
どうせ時間は腐るほどあるのだからとのんびり故郷のハテノ村へ、それから英傑たちのところへ足を向けた。
ミファーのところへ行ったら心配されたものの、シドたちの遊び相手をしている間だけは少し忘れていられた。次いでダルケルのところに行ったら少しびっくりされたけれど、「元気を出せ相棒」とやっぱり特上ロース岩をご馳走してくれた。
リーバルのところへ行けば、わざわざ浮かない顔を出さないでくれと嫌な顔をされたのに、いつの間にか鍛錬に付き合わされていた。その足でウルボザのところへ向かおうとしてカラカラバザール寄ったとき、ある噂が耳に飛び込んできた。
「ゼルダ姫がご静養でカカリコ村に向かわれたらしい」
あまりの驚きで、かぶりつこうとしていたヒンヤリメロンが砂の上に落ちる。振り向くと行商姿のゲルド人二人が話し込んでいた。思わず立ち上がって大股で詰め寄る。
「その話、詳しく教えてくれないか」
「わたしも聞いた話さ。なんでも一年程度、ご静養するって」
「一年?! どこかお体が悪いのか!」
「そんなことまでは知らないよ」
二人は逃げるようにして去っていく。頭の中が真っ白になった。
二カ月前に城を出た時は至って元気そうだった。でも二カ月も前だ、何かあったのかもしれない。コーガ様が厄災討伐に関わったのですでにイーガ団は反ハイラルの体を成していないが、それでも従わない者はわずかに居る。それでなくとも姫様は一人でほいほい野外調査に行かれてしまうから、俺の代わりの騎士を撒いてしまうことだって当然やりかねない。
怪我か、病気か、どちらにせよこれ以上の情報を得るには、一番近場のウルボザのところへ行くしかない。袖を通すのが少し億劫だった淑女の服に身を包み、ゲルドの街へ乗り込むとウルボザは顔をしかめていた。
「もういい加減、自分の身長を考えた方がいいよ」
そういえば、これが通用していたのはもっと背が低かった時だ。慌てて周囲に目をやったけれど、もともとガタイのいいゲルド人たちは俺の異様さにさほど興味を示してもいない。
それよりも、とウルボザに詰め寄る。
「姫様がご静養って聞いて、何があった? どこかお体が悪いのか?」
「ああ、そうか。血相変えてるのはそれか」
一応ウルボザも族長で、それなりに仕事が忙しい人だとは分かっていても歯止めが利かない。この人ならばおそらく知っている。教えてくれないのなら一度ハイラル城へ戻るべきか。
そこまで思うのに、姫様の言いつけである「カカリコ村にだけは近づかない」というのは守ってしまう。
ウルボザは、ため息を吐いて俺の肩を軽く叩いた。
「落ち着いて。御ひい様なら大丈夫だから」
「でも一年もご静養って!」
「御ひい様だって、厄災討伐したんだから休みが必要だろう? 遅かったぐらいだよ。それにあんただって休養を兼ねて旅しているじゃないか。大丈夫だから、言いつけ通り少しは休みな。あんたたち二人は功労者なんだからさ」
安堵で肩の力が抜けた。そうか、姫様も表向きの褒美を求めないと、疑われてしまうのだ。だからご静養と言う形でそれを陛下からもらったんだ。なんだ、なんだそういうことか。
ああーと口から変な声が出てその場にへたり込んだ。
「まったく、御ひい様のこととなると途端に冷静さを欠くんだから」
「ごめん。でも本当に心配で」
「ま、その気持ちは分らんでもないけどね」
そのあと仕事の終わったウルボザにヴァーイミーツヴォーイを一杯だけ奢ってもらった。姫様が無事だと分かってよほど気が抜けていたのか、いつもよりも早くアルコールで頭がこんがらがっていく。
「リンク、あんたのその生真面目さは時として命取りになるんだよ、分かるかい?」
わかる、と頷いたけど。こればかりは自分でもどうしようもないんだよな、とため息も吐いた。
それからは当てのない旅をした。気の向くままといえば聞こえはいいが、実際は彷徨うだけの旅路。途中からは馬も預けて、自分の足だけで迷走した。気付けば人助けやら、頼まれごともこなす。さすがに魔物は少なくなったが被害はゼロではなかったし、商人たちが活発に行きかう分だけ、それを狙う盗賊のような輩も増えていた。
基本は道のない原野をあてどなく歩き、崖があれば登り、川があれば泳いで渡る。食べ物を見つけ、狩りをして、火を起こして、夜は拾った剣を抱いて眠る。剣も弓も盾も、手入れなどせずに使い潰しながら旅を続けた。人としての姿が保てるギリギリの生活で、久々に馬宿に立ち寄ると建物に入る前に裏で体を洗って来いと怒られる程度には人間を辞めていた。
決して褒められたものではなかったが、おかげさまで色々なものを見つけた。
フィローネの森の中には姫様の好きそうな遺跡がたくさんあったし、ハイリア大橋の上で夜を明かせば周囲をぐるりとフロドラが巡っていく。サトリ山が淡く光る日にはヌシがいて、ヘブラ山脈の最奥にはクジラの化石があった。ゲルド砂漠の最奥まで行ったら大妖精の泉があって久々に会ったらやっぱりルピーを要求されたし、デスマウンテンの山頂からは実はヘブラ山脈まで見えた。
それら全てをウツシエに収めた。それから道すがら、姫しずかがあれば必ず場所をマークした。
いまだにあちらこちらに、厄災との傷跡が残っている。でも姫様が見て来いと言ったハイラルが俺の目には原色に映る。生きている色、綺麗だった。でもそれをどれだけシーカーストーンに記録しても、一人で見るのが辛かった。
息が白く濁る頃、俺は双子山の高い方の山頂に陣取っていた。道祖神から少し離れたところにたき火を焚いて、空を眺めていると時々流れ星が落ちてくる。それが朝方まで細い光を発して、たなびく様子が綺麗だった。それにここからだとハイラル平原が一望でき、さらに視線を東へずらせばカカリコ村を隠すナリシャ高原の凹凸が見える。
カカリコ村には近づかない約束を守ると同時に、俺はハイラル城へも近づかなかった。ひとたび里心に気を許すとどうしようもなくなるのが分かっていたから、こうして遠くから眺めて自分を慰めていた。
その日、まだ一つも流れ星が落ちないのでりんごを齧りながら、たき火の傍で胡坐をかいた。強い風が横から吹き付けてくる。
『……。……ンク、リンク』
風音すら姫様の声に聞こえて、耳を塞ぎたくなる。最近こうして頭の奥の方に声が聞こえてくるようにまでなって、いよいよ頭がおかしくなってきたんじゃないのかと頭を振る。
ところが今日は幻聴に留まらず、後ろに気配があった。ぽんっと音が弾けたので、辛うじて見知った人だと分かった。今日はさすがに剣を抜かなかった。
「ようやく見つけました」
「良くここが分かったね、インパ」
数か月前と変わらない様子の執政補佐官、これはさすがに幻覚ではなさそうだ。もし幻覚ならば、絶対に姫様を見るだろうから。
「うわ、随分と、その……」
「汚れた?」
「そう、ですね。ちょっとクサイです」
「ごめん、最近馬宿に寄ってないから」
顔だけ振り返ると、月影が逆光にもかかわらずインパのしかめっ面が見えた。向こうからはこちらの薄汚れた様子がはっきりと見えるのだろう。あまり近づくと怒られそうだったので、たき火の脇で体を反転させた。するとインパの方もそれ以上は近づこうとせず、その場でコホンと咳ばらいをする。
「姫様から伝言です」
「またインパが?」
「そうです、またですよ、また! なんで私ばっかりこんな、もう……」
ぶつぶつと文句を言うのがまたインパらしい。久々に人間と会話している気分になった。
思えば、ここ数週間ぐらいはまともに人と会話すらしていない。喋るのすら億劫で、襲われている人を助けても、最近はろくに言葉も交わさずにその場を離れていた。
このままいくと人の言葉すら忘れてしまうんじゃないかと思ったが、姫様のお傍に戻ったときに余計なことをしゃべらなくなっていた方が、都合が良い。
「それで、伝言って何ですか」
「来てください」
「え?」
「来てくださいと」
「俺が、呼ばれたの?」
「そうです。姫様のところへ連れていきたいんですけど、でもさすがにちょっとクサすぎるので身綺麗にしてもらえます?」
そんなの当たり前だ。すぐにでも綺麗にしてくる。山を下ってすぐの双子馬宿に駆け込んで、桶を借りて服も洗濯をする。うっすら生えるようになっていた髭も剃った。
それからインパを急かしてついて行くとカカリコ橋を渡った先、村に入る門の前でハイリアのフードを被るようにと言われた。顔を見せるな、俺が来たことを誰にも悟らせるな、と。
姫様が静養されているとは聞いていたが、そこに俺が来てはいけない理由が良く分からない。そもそもなんでカカリコ村に近づいてはいけないのか、訳を明らかにはしてもらっていなかった。
しかもインパは村の方へ下る坂を無視してそのまま山の方へ向かうつづら折りの道を上がっていく。シーカー族の村長の住む館である一番大きな屋敷とまるで方向が違うので、思わず白い袖を引っ張った。
「こっちであってます」
どういうことだ。普通、姫君が静養するなら一番いいところだろう。
ところがインパは迷いなく村の奥の坂を上っていく。ますます分からないが、ついて行くしかない。坂を上り切り、木立の間を縫うように歩き、丸太でできた橋を渡る。その先にはもう一つ、祠があった。
「こんな場所があったんだ」
「謂れがあって、あんまり人が来ないんですよ」
あたりは木々が生い茂っていて、少し気を抜くと道を見失う。人が入り込んだ形跡の少ない森だ。
「こっちです」
手招きをされてさらに進むと、なぜかコログが居た。しかも一匹や二匹ではない。デクの樹様の周りにいるぐらい多い。こんな場所は初めてだ。首を傾げていると、こっちですーとインパが手招きする。小さな家があった。
「お待ちですよ」
本当にどういうこと?
どうして姫様が、こんな人目を避けるような場所で静養するんだ。人手がなければ不自由もしよう。しかもコログに囲まれた森の中で、これではまるで隠遁生活だ。
カカリコ村の建物と同じ作りの引き戸を開ける。中は案外温かくて、ハイリアのフードを外して目線を上げると金の髪を緩く三つ編みにした姫様の後姿があった。白と赤のシーカー族の着物を着て、座布団の上で膝を崩して座っている。
「連れてきましたよ、姫様」
「ご苦労でしたインパ、ちゃんと見つかりましたか?」
「姫様の予想通り、人助けの痕跡を辿って行ったら拗ねてました。そちらはどうですか」
「こっちはいい子でしたよ」
振り向いて微笑む姫様は、やっぱり姫様だった。
でも姫様の腕の中に、見慣れぬものが動いていた。それは俺の知らない奴だった。
「リンク、長いことご苦労様でした。しばらく呼びかけていたのですが、一向に答えてくれないのでインパに探しに行ってもらったんですよ」
あれは俺の幻聴ではなかったのか。ずっと無視していただけに、凛とした声が耳に痛い。
でも姫様の声以外の聞きなれない声があった。
それがなんであるか、誰であるか、理解したくない気持ちが思考に蓋をする。しかし手招きをされれば、おのずと足が前に出る。
あまりのことで声が出ないまま振り返る姫様の前へ進み出て、そのまま膝を床に打ち付けた。
姫様の腕の中に赤子がいた。
「さあ、抱いてあげて」
俺と同じ濃い黄金色の髪をして、小さく開いている瞳を覗き込んだら姫様と同じ翡翠色をしていた。誰だとは、言われなくても分かった。それが俺の腕の中に押し込まれる。
剣などよりもずっと軽いはずなのに随分と重たくて、甘いミルクの匂いがした。
「男の子です。とっても元気がいいの、あなたみたい」
姫様はおっとりと笑っていたけど、俺の方は到底笑える気ではなくて、頼んでもいないのに目から涙が零れた。ぼたぼたと音を立てて、生成りのおくるみの上にシミを作る。
ありがとうなのか、ごめんなさいなのか。何を言えばいいのか分からなくて、ひたすらに嗚咽だけが漏れた。
「名前はリンクがつけてください。私が思いを込めてつけてしまうと別れが辛くなるから」
涙でぐしゃぐしゃの顔を跳ね上げる。
どういう意味ですかと問いたいけれど、しゃくりあげる自分の喉がそれを上手く言葉にできない。一年旅をしたら、俺はあなたの元へ帰れるんじゃないんですか。どうして赤子を俺に押し付けて、別れなんてことを言うんですか。
齧りつくような視線をものともせず、姫様は俺を見つめていた。
「この子を連れて逃げてください」
有無を言わさない言葉に瞠目して、息が止まった。
どうしてそんな酷いことを言われるのか心当たりを探る。人を辞めるように山野を歩き回ったせいか、あるいはすでにウツシエにハイラルの至る所を収めて役割を終えたからか、はたまた退魔の剣を森へ帰したからか。だとしたらもうちゃんと人らしく振舞うし、シーカーストーンのウツシエだって全部消してしまえばいい、もう一度デクの樹様のところへ行って剣を抜かせてくださいとお願いする。
何も言っていないのに、でも全部違うというように、姫様は首を横に振った。
「抜け殻になってしまうあなたを手元で飼い殺すより、元気なあなたを手放す方がよっぽどいいと気付きました」
「俺が捧げた剣を、今更、つっかえさないでください」
「返しはしません、代わりにその剣でこの子を守ってほしいの」
赤子の手が俺の髪を引っ張った。たまたま手の届く位置に零れ落ちた俺の伸びた髪の束を、反射で鷲掴んで離さない。まだ首も座ってないくせに、手の力だけはめっぽう強い。そういえば妹もそうだった。どうしてだか生まれたばかりの時は、一番強いのは手。多分必要なものを手放さないためなのだと思う。
その手が、俺の髪を引っ張ってぐいぐいと寄せてくる。
「あなたの気質を考えれば、本当はのびのびと山野を駆けまわっている方がよほど似合っているんです。だから国に縛られず自由している方が私も嬉しい。でも手放せば諸侯が黙っていないでしょう。あなたを政治の道具にしたい人間は山ほどいる。そんな渦中へ、大切な人をむざむざ戻せようはずもありません」
大丈夫です、もう大丈夫だからと言いたいのに、俺は赤子に顔を埋めて息も絶え絶えになる。
「でも、単に突き放せばリンクはきっと人間を辞めてしまうでしょう? だから捧げた剣はそのままに、この子を守って、育てて、一人前の人の子にしてほしいのです」
訳を言って一年遠ざけられただけでも人間を辞めかけていただけに、反論はできなかった。本当に叶わないなと思うばかり。
また赤子が髪を引っ張る。どうしてこいつは、どうしてこんなに俺に似てるんだろう。憎らしいぐらいにかわいい。
「今のあなたなら、市井に紛れて暮らすことは容易なはずです。私の大事な子をお願いできますか」
「こんなのって、ないよ。俺が断れないと分かっていて」
「我ながら酷いことをしている自覚はあります、ごめんなさい。でももう自由になってください」
ずっと俺を遠ざけて、一人ですべて根回しをして、随分と苦労をして、しかも相当に痛い思いをたった一人でやってのけた。全部それが俺一人のためで、それなのに俺は全く知らないところで一人やさぐれていただけ。
こんなに自分のことが恥ずかしいと思ったことはない。騎士の顔をして姫様の背後に居なければと気を張っていたあの時よりも、ずっとずっと自分の力が及ばなさ過ぎて嫌気がさす。
同時に姫様の力の凄まじいことにも驚く。これだけのことをたった一人でやってのけてしまう。俺なんか確かに居てもいなくても同じなのかもしれない。本当にゼルダは強い。
「分かりました。お引き受けします」
悔しいけど、俺の剣は突っ返されたんじゃない。この子に手渡されたんだ。
いまだ捧げた相手は姫様だと誓ってもいい。でも、その姫様から頼まれたら断ることなどできない。
「せめて明け方まで体を休めていってください」
気が付くと、最低限いたはずの侍女もインパの姿も無かった。どれだけ気が緩んでいたのか苦笑する。
疲れた体を横にして一時間ほど眠った。数か月ぶりの深い眠りから覚めると、姫様が子供を俺の横に寝かせ、その向こう側に姫様も横になっていた。ベッドの上に三人で川の字。最初で最後だろうと子供の寝顔を覗き込む。
見るにつけ俺に似ていた。目鼻立ちとか、髪の色とか。姫様がそれを愛おしそうに撫でるので、少しずるいと思うぐらいには似ていた。
「どうしてあの夜、大丈夫って嘘ついて……いや、あの夜がそういう日だって分かったんですか。もしかして女神のお力を使ったり?」
知らず知らずのうちに声がムッとしていたのだと思う。少し笑われた。
「いいえ、しいて言えば女の勘です」
「そんな適当な」
「非科学的ですが、案外当たるものだと証明されましたね。たった一夜でも、花が咲けば実は成るものなのですよ」
そういえば亡くなった母には悪戯が良く見つかった。あれもそういう類のものだったんだろうか。ふと、亡くなった母の眼差しと今の姫様の眼差しがかぶって見えた。子供を見る目がまるで同じで、遠いなぁと手を伸ばすのを止める。
よく寝る子で、恐る恐る頬を突いてみるが一向に起きる気配がない。泣いたら泣いたで大変なのは知っているけれど、父親と言えども初めて会う男の横でここまで動じずに寝るというのもよっぽど肝が据わっている。面白い奴だ。今は片手で抱えられるぐらいしかないのに、いずれ俺と同じぐらいになる。
「私たちはずっと、厄災と戦うために必死でした」
「はい」
「特にリンクはそうでしょう?」
「姫様の方が必死だったと思いますけど……でもそう。物心ついた時から迫る厄災のことばっかりで、倒した後のことなんかちっとも考えてなかった。平和になったら全て丸く収まるというか、むしろ平和が何なのか良く分からなくて。いまさらどう生きたらいいのか分からなかったんだ、俺」
子供のころから厄災復活の予言を聞いて育った。だが、この子が大きくなるころには戦いの痕跡など消えて、おとぎ話だと思われているのかもしれない。それは良いことだと思う。でも平和の中で育っていく子供が何を思うのか、俺にはさっぱり分からない。今ですでに分からない。
むしろ俺が成長して、そこに適応していかなければならなかった。でもそれが上手くできなかった。
退魔の剣を引き抜いたことや、姫様の騎士であろうとしたのは紛れもなく自分の意志だった。ところが戦いが終わってみたら、自分の意志ではどうすることもできないことがあまりにも増えた。それに全くついて行けずに振り回され、無様を晒した。
ようやく気が付いた今だから、ああすればよかった、こうすればよかったと思うのであって、もう時期は逸してしまっていた。今は目の前のこの子に次を託すしかない。まぁ、それも悪くないかなと思った。俺の根本はやっぱり騎士で、全部見抜いた姫様の采配なら従う以外の選択肢はないのだ。
愛おしい人を好きなだけむさぼったあの夜と同じで、黎明の薄明かりを頼りに赤子を連れて家を出た。「お元気で」とその人が微笑んでくれたので、俺も「さようなら」と言って。最後に一度だけ口づけを許してもらった。やっぱりしょっぱかった。
後ろ髪を引かれるなんて生半可なものではなく、背中の皮が全部剝かれるぐらいに痛い。それを圧してでも足を動かし、祠の前を素通りして斜面を上がる。
ともかくこの子の食い扶持をどうにかしなければならない。まずはハテノ村へ行くべきかと思ったが、スリングの中をカカリコ村の人に覗かれるわけにもいかない。村を通らずに道に出ようとしたが、パラセールを開こうにも怖くて左手が離せない。
「これは、参ったな」
あまりにも柔らかいこの子が怖くて左手が離せず、右手しか使えない。一応盾も背負ってはいたけれど、左手が空いていないのだから使い勝手は悪い。同じく弓だって、当たってしまいそうで気安くは使えない。かといって相手が待ってくれるわけもなく、基本は物騒な輩からは逃げるしかなさそうだ。
しかも子供と言うのは妙に温かかった。俺の体温も他の人に比べたら高い方で、夏場は近づくなって邪険にされるのだが、その比じゃない。それが二人してくっついているから、少し歩いただけで腹のあたりがじっとり汗ばんでいた。まさに雪よけの羽飾り要らず。
「さて、どうしようか」
答える相手がいないのは一人旅と同じなのに、自然と口数が増えた。これは人間辞められるわけがない。俺はこれからこの子に、人の言葉と生き方を教えなきゃならないんだから。姫様の知慮はさすがだ。
眼下には目覚める前のカカリコ村の小さな明りが、山の合間から遥か遠くにハイラル城の影が見えた。今でこそ厄災が覆う禍々しさはないが、あそこには人のしがらみが怨念のようにまとわりついている。
そこに姫様は一人で戻る。心配だなぁと思った。
姫様のことだからこれからも無茶をするんだろう。きっとインパにもまた無理を言うに違いない。だからといって他の英傑たちに事あるごとに会えるわけでもなく、テラコが息抜きの相手になるかもしれないが、未だにプルアやロベリーに拉致られているからいつもそばにいるわけじゃない。陛下だってそれなりにお年だから、いずれ姫様が女王陛下として即位して、その頃にはきっと政略まみれの王配が横にいる。そんな姫様のことが俺はやっぱり心配で。
遠目にハイラル城を見つめていると、スリングの中からふにゃふにゃした声がした。俺が足を止めいたせいで、文句を言っている。そういえば子供ってどんなにぐっすり寝ていても、揺らすのを止めるとなぜだかすぐに起きて怒るのだ。思い出して添えた左手でゆっくり尻のあたりを叩き始めると、ありがたいことにまたすぐに寝始める。そのあどけない顔を見て決めた。
「ごめんな。お前の父さん、思ったよりも欲張りみたいだ」
まだ答えが返ってくるはずもない。でも将来、もし真相が露見したら驚かれるか、怒られるか、呆れられるか。それでもいい。それすら楽しみにしていよう。
俺は踵を返して、安全に崖から下りられる場所を探して歩き始めた。