4 彼女の覚悟
月下美人というのは温暖な気候が好きな植物らしいので、リンクに言って植木鉢を一番日当たりのよい窓際に置いてもらった。上手くいけば葉の先に蕾が付いて、数輪が一夜にして咲くという。楽しみでたまらない。
「一夜だけとはなんとも儚い花でございますね」
今日付いている二人の侍女は、少し前から王宮に上がったばかりの姉妹だった。厄災で父親を失った下級貴族の姉妹だとかで、行儀見習いも兼ねて私に付いている。
身元はもちろんのこと、作法もしっかりとしているので、行儀見習いよりも家門を守るための婿探しの側面が強いのだと思う。もちろんそれは貴族の娘にとって当然のことなので、私がとやかく言うようなものではない。気立ての良い娘たちだからいずれ良い人と巡り合えるだろう。
「どんなに儚くとも、花は実をつけるために咲くものです。その力強さは計り知れぬものです」
謁見の際のドレスを脱がされて髪をくしけずられながら、私はいつになく上機嫌だった。
白くて綺麗な花とは一体どんなものなんだろう。甘い香りがするらしいのだが、それはどんな香りなのかしら。
でも気が付くと、想像の中で一緒に花を楽しんでいるのはリンクだった。そのたびに、心の中に冷やりとしたものが這う。今日はいつになく彼の顔が強張っている気がした。
今度はいつ帽子を取ろう。どこであの固い唇に触れて、彼がようやく目を緩ませる姿を私だけのものにしようか、考えるだけで頭がしびれた。
「この花を献上された方は、どうしてもゼルダ様のお隣に座りたいのでしょうね」
「花ぐらいでは、さすがに私の心は動きません」
「でも大層、楽しみにしていらっしゃるじゃありませんか」
正直言って、花を贈る意味を分からないわけはない。見え透いた下心に嫌気すらする。でも醜い感情を表に出さないのが淑女としての当たり前だし、花自体には何の罪もない。私はただ、綺麗な花をリンクと一緒に見るのが楽しみなだけ。
そうだ。一緒に月下美人を見ながら、帽子を奪ったらどうなるだろう。いつもよりもっと心をほぐしてくれないだろうか。それは酷く甘い誘惑だったが、さすがに許されないと頭の方は冷静で自嘲が漏れた。
あくまで私が帽子を奪うのは、彼の瞳が曇っているからだ。一時でも苦しいのを忘れて欲しいからで、目的と自分の欲望をはき違えてはならない。そっと戒める。
「でも姫様の場合にはお隣と言っても、他に席を設けても罰は当たりませんしね」
言葉に冷水を浴びせられて、想像の中で花が散った。
侍女たちが、いつものロイヤルブルーのドレスを手に私の背後へ立つ。こういったドレスは一人で着つけることは難しい。彼女らの手は、言葉に悪意が無いからか、淀みなく動く。鏡越しに見える姉妹の顔もいたって普通で、だからこそ私は少し不愉快になる。
「どういう意味ですかそれは」
「王族や上流の貴族の方々ともなれば、伴侶の方とは別に恋人の一人ぐらいいるのが普通ですから」
「亡くなった父も、若い頃はどこかの奥様から可愛がっていただいたって」
「もちろんお母さまには内緒ですけどね」
二人は侍女に上がって日が浅いからか、私の声色の変化に疎い。こちらには目もくれず、後背へ回って着付けを続ける。手と目は目の前のドレスに集中しながら、口だけは別の生き物のように動いた。
「姫様なら、例えばあの近衛騎士殿などは?」
「そうですよ、見目もよろしいですし! 何より退魔の騎士なら、姫様のお傍に侍らせても見劣りはしませんし」
思わず閉口した。反論も、諭すことも、悪意のない彼女らには意味が無い。
最後に髪を整えてティアラをつけて、身支度の終わりに静かに待った。その沈黙が逆に、おしゃべりな姉妹には引っかかりを覚えたのか、ふと顔が上がる。
「あの、姫様?」
苦々しい顔をした私と、鏡越しにようやく顔を合わせる。だが二人には、いったい今の会話のどこに問題があったのか、おそらく気づきもしない。しかし彼女らが悪いのではなく、貴族の文化を受け入れられない私の方が異端。
「伴侶の他に恋人を持つのが理解できないという私の方が、世間的には可笑しいのでしょう。気にしないでください」
目を合わせるのも嫌になって顔を逸らした。
そういうことが、常識的にまかり通るのが貴族社会だというのは理解している。だが恭順しようとは思えない。御父様が貴族よりも武人としての気質が強い方で、そう言ったことにあまり良い顔をされないと言うこともあったが、私自身も本来好きではない。私の隣に立つ者は一人で十分だ。
姉妹は不穏な私の気配を察してかしょぼんと肩を落としていたが、ところが姉の方が本当に不思議そうな顔で首を傾げている。
「でも案外、騎士殿の方もそういう腹積もりがあるんじゃありませんか」
ハッとして目の前が暗くなった。
「姫様のお隣が難しいのは、騎士殿だってご承知のはずです。だから一緒に居る方法を考えるとそれぐらいしかありませんし……」
「ちょっと、姉さん!」
「お似合いのお二人だって、あなたも言ってたじゃない。でも無理を通すわけにはいかないから、方法としては恋人しかないわねって」
今の歪な恋人ごっこのような関係を強いている私を、彼はどう見ているんだろうか。何しろ理由を言っていないのだ。
何も言わず、ふと思い立ったときにリンクを呼ぶ。目で問うと、大丈夫ならば少し屈んで私の手の届きやすいところに頭を持って来てくれる。指を絡めながら帽子を取る、口元だけ隠して唇を重ねた。ただそれだけ。言葉など交わしたこともない。
やり取りの短い間だけ、穏やかさを取り戻す彼の気配に安堵する。酷く一方的な私の身勝手。
「姫様?」
姉妹は怪訝そうにしていたが、身支度は終わった。これ以上悪意のない言葉に苦しめられるのも嫌で、手を振って一人にしてもらう。椅子に腰を鎮めると頭のてっぺんから力が抜けて、体がずんと重さを増した。
「姫様?」
入れ違いの声に振り向くと、リンクが戻って来ていた。
遠目には様子に特別変わりはないように見えた。いつもの固く冷めた騎士の顔をしている。こちらの方が居住まいを正してしまうぐらいに、きっちりとしていた。
「御父様はなんと?」
「姫様のことを頼むとお言葉を頂戴しました」
「そんなこと、いまさらでしょうに」
何か、大事なことを隠しているのかなと思った。それは勘で、でも彼は頑固だから御父様に内密にしろと言われたらきっと私にだって話すまい。だから聞いても無駄。
それよりも、先ほどの侍女の言葉がぐるぐると頭の中で迷走していた。
彼はどういう思いで、私の口づけを受け取っているんだろう。
「庭へ出てもいいですか」
「かしこまりました」
手を引かれ、緑が濃くなる前の庭へ出る。葉がいい目隠しになるのだ。太い木の影に彼を隠して、目で問いかける。ところが初めて明確に首を横に振った。駄目な時は視線を逸らしてそれとなく教えてくれるはずなのに。
「なりません」
「なぜですか」
「姫様、私は姫様付きの騎士です」
なぜ。どうして、リンクが自分のことを『私』と言うのか。冷たい瞳にゾッとした。
ずっと『俺』と言うのを許してきたのは他でもない私だ。慣れぬ言い方に照れ隠しをするので、ならば一人称ぐらい好きにして良いと許した。
本当に御父様と何かがあったのだ。
あまりの様子の変わりように頭が追い付かない。私のこれが露見したのだろうか。それなのに私の元へ無事に戻って来たということは、つまり何かを約束させられた。おそらく私の婚儀に関わる何らかのことについて、盛大に釘を刺されたのだ。
だとして、私にはもう彼の強張りを解く術が思い当たらない。彼の帽子へ手を伸ばすが、一向に手の届く位置に頭を持って来てくれない。ドレスの肩が邪魔で、それにまた彼は背が伸びた。忌々しいぐらいに届かない。
「取らせなさい」
「嫌です」
「ならば命じます、自分の手で取ってください」
こういえば嫌でもリンクは従う。嫌な方法だと分かっていて、彼に自ら騎士から降りるように命じる。やるせない。でもこれ以外に彼の青が曇っていくのを止める方法が分からない。どうやったら頑なになっていくリンクを貴族どもしがらみから守れるのか、あまりにも自分が情けない。
帽子を持たないで口づけをするのは初めてだった。強張る頬を両手で包んで、吸い寄せる。でも半ば予想した通り、見開いた青はくすんだままだった。
もう私では、どうにもできないんだろうか。それこそ先ほどの侍女が言っていた通り、堂々と恋人として傍に置けばいいんだろうか。
「私は、皆の言う結婚観が、貴族の常識が理解できません。侍女たちは、好きな相手なら結婚せずとも一緒に居たらいい、結婚相手とは別に恋人を持てばよいというのです。皆やっていることだと」
彼は一体私の中に何を見ているんだろう。
少なくとも私はリンクの中に、ただの恋人だとか、愛人のようなものを求めてはいない。ただひたすらに大事なだけ。剣を持たせれば誰にも負けないはずの彼が、宮中の空気で濁っていくことから守りたい。
「リンク、あなたはどうなのですか」
違うと言って欲しい。
そんなものでは足りないと、ちゃんと言葉を否定して私の手を取って。ほころんで私を見て欲しい。できることならその腕で、私を抱き寄せてそちらから口づけをしてほしい。
胸にすがろうとした手を、ところが彼は丁重に押し返す。
「私は、あなたの恋人の一人にしていただけるのなら、こんなに幸せなことはありません」
嘘を言わないで。さっきまで御父様のところへ行くまではこんなんじゃなかった。
植木鉢を持って一緒に部屋へ戻る間も、騎士らしく振舞おうとするのは分かるけど、少しずつ綻びが見える。それがよかった、まだ人間らしいと思えたから。
何があったのか分からない。
ただ無性にこの人に裏切られた気がしてならなかった。
パンと乾いた音が一つ。思わず彼の頬を張っても、騎士は顔色一つ変えない。視界が歪んだ。
「申し訳ありません」
ちがう、ちがうちがう!
私が欲しい言葉はそれじゃない。彼は分かっていて、違う答えを弾き出している。もう私が心へ踏み込むことを許さないと、明らかに拒絶された。
打っても響かない心の壁に、もう彼には時間がないのだとわかった。早く解き放たなければ、いずれ死んでしまう。そんなことになったら私はきっと耐えられない。
そうか、リンクのためと言いつつ、私は私のために彼を助けたかったんだ。
背を向けて木陰から出て、涙をぬぐうと行き先が見えた。迷っている暇はない。背を向けて歩く後ろから、慌てて帽子を直した彼が着いてくる。
「姫様」
「ついてこないでください」
草を食む音がだいぶ遠くに止まった。それ以上は本当についてこない。
言えば止まってしまう程度の騎士を私は欲していなかった。欲しいのは、駄目と言っても自分の意志で付いてくるようなリンクなのだ。あれは似て非なる者、私が守れずに歪んでしまった。ならば今度は私が彼を守る番だ。
厄災との戦いで、リンクにどれだけ助けられたのか手足全部の指を使っても足りない。私はそれを返しきれていない。返さないどころか、まとめて自分の腕の中に抱き込んでしまいたいぐらいに大切なのだ。
「御父様、褒賞のことでお話があります」
先ぶれなく訪れた執務室で、御父様は沈んだ顔をしていた。彼に何を吹き込んだのか、問いただしたい気持ちを抑える。
「リンクのことか」
「いいえ、私のことです。どうかお人払いを」
御父様は私の顔を見て、目を伏せて手を振る。静まり返った部屋に親子二人、邪魔するものは誰もいない。