青年期の終わり - 2/9

1 彼の陰り

 最初は本当に偶然で、二度目からは姫様の悪戯だった。

 こちらから手を差し伸べる場面ではないときに、急に振り向いた姫様の手がトンと軽くぶつかった。触れないようにと意識していた瞬間にこそぶつかってしまい、全身がビクッと一回、思わず「はゃっ」と変な声を上げて手を引っ込めた。

「そんなにびっくりしました?」

 姫様はこちらの気も知らないで、面白そうに笑っている。ゴーゴーカエルを見ていらっしゃるときに似ている感じ。

「えっと、はい。すいません」

「リンクでも驚くとそんな声が出るんですね」

 しどろもどろ、目線も上手く合わせられない。ふふふと笑いながら、姫様は俺の頭に手を伸ばした。驚いた拍子に近衛兵の帽子がずれたらしい。でも少し届きにくそうにしているので、ありがたいと思って頭を下げた。

「また背が伸びましたね」

「ちゃんと食べて寝られるようになったからだと思います」

 厄災を封じたあと、近衛騎士に引き立ててもらった。おかげさまで一兵卒だったころよりもちゃんと食べられるようになり、平時なのでたいして睡眠不足になることもなく、節々に痛みを感じるぐらいには背が伸びている。

 姫様と同じか、少し小さかったあの頃と同じではない。それがなんとも誇らしい。

「はい、これで大丈夫」

「ありがとうございます」

 主君に帽子を直してもらうなんて、傍から見たらどうかしてる。こんなところ、誰にも見られるわけにはいかない。

 平和になってからこっち、いろんな方向からのやっかみが酷い。貴族はもちろん、同格になった近衛騎士のなかにさえ、あからさまな態度を取る者がいる。分かりやすい嫌味を言ってくれる御仁ばかりではないので、気が付いていない悪口雑言がたくさんあるのだろう。

 かといって以前の同輩たちは、あまりにも異例に出世をしてしまった俺を遠巻きにしている。確かに、こんな面倒な奴と好んで関わりたいと思うのは下心があるんだろうと、鈍感な俺にだって分かった。

 だから誰にいつ見られても良いように気を張るようになったうえ、同格といえども丁重に接するように気を付けている。なるべく粗の目立たないように、付け焼刃の作法だったとしても批判される的だけはなるべく小さくする。

 自分が悪く言われるのは構わない。でも「あんな奴をお傍に置くとは物好きな」と姫様が言われるのが嫌で、ただそれだけが無性に悔しかった。

 今だって、本来ならば驚いて声なんか上げてはならない。それどころか、まさか姫様に帽子を直させるなど。でも内心では小躍りするぐらいに嬉しい。いつもお傍に仕えているからこそ、こちらからではなく、姫様の方から手の届く範囲に居たかった。

 ところが本当に困ったのはそれからのこと。周りに誰もおらず、俺が気を抜いていそうな時を狙って、姫様は俺の手を触ろうと手を伸ばすようになった。それは人差し指一本だったり、小指の付け根だったり、あるいは中指と薬指だったり。

 声こそ上げなかったが、二度目はまだ驚いた。

 最初のあれは本当に意図しなかったことなので、まさか二度目は無いと思っていた。だが三度、四度ともなると、さすがにこちらだって分かってくる。テラコが真似をしてジャンプで叩いてこようものならこともなく避けるのだが、姫様の悪戯は受け止めざるを得ない。誰かの気配があるときはそれと分かるように避けたが、それ以外の時はなるべく姫様の遊び心に沿えるように努力した。

 だから手を突っつかれる時は、わざと驚いたふりをして帽子をずらす。すると姫様が俺の名前を呼んで傍に立たせ、わざわざ帽子を直してくださる。そこまでが一つの遊び。

 誰もいないときを見計らって、姫様はこの遊びを繰り返した。悪い気は全然しない。ご政務の合間に気を紛らわせる、ほんのちょっとした緩みみたいなものだと思って、その相手に選ばれたことが嬉しかった。

 でも俺は調子に乗りすぎた。

 何度も何度も悪戯されたので、ある日、姫様が触ろうとしているその手を逆に捕まえてみた。ちょっと集中すれば後ろを向いていても簡単、ボコブリンをいなすよりも容易い。後ろ手に組んだ手の中に姫様の手を捕まえて、いたずらっ子を少しとっちめようと振り向いたら、目も口も丸くした姫様が居た。

 俺の手に捕らえられた自分の手を見て、完全に硬直している。

「あ、すいません……」

 流石にこれは主君に対してやってはいけないことだったと察して手を放そうとしたのだが、どうしてだか次の瞬間、姫様のほっそりとした指が俺の手袋をした指の間に絡まった。今度驚いて目を丸くするのは俺の方。何が起こったのか、あまりの衝撃に声も出ない。姫様が魔物だったら、多分もう命が無い。

 そのまま半歩、間を詰められた。情けないことに逃げられない。

「捕まえました、リンク」

 姫様は遊びのわりに真剣な顔をして、俺の近衛の帽子に手を伸ばす。ストン、と帽子が取られてその手が俺の肩口に乗った。きつく結んだ手が帽子を立たせて俺の顔を隠し、姫様はそのまま背伸びをした。

「こんなことをしたら、あなたはどんな顔をするの?」

 やわらかい。自分の唇に触れたものが一体何だったのか。しばらく分からなかった。

 目の前に微笑む人が、いま、俺に、何をした?

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、また帽子を直してくださる。ようやく頭が追い付いてきて、思わず左手で口を覆った。言葉が返せない。静まり返った執務室で、差し込む夕日すらうるさかった。

 以来、姫様に呼ばれて帽子を取られるのが一つの合図になった。

 誰の目もないときにだけ俺は帽子を取られて、姫様の手で姫様の騎士から降ろされる。

 この行為にどんな意味があるのか、これが何という名前の関係なのか、俺は怖くて聞けなかった。この薄ら寒い幸せのおかげで、恍惚とした首筋に刃物があてがわれているような思いばかりが募った。