その日の朝、私はパーヤに身支度を整えてもらって、ゾーラからの迎えを待っていた。
無事に厄災を封じられたからといって、のんびりしているつもりは毛頭なかった。まずやるべきは各種族との親交を取り戻すこと、それから神獣がどうなったのかの確認。やることは山積みだ。
それぞれの里との行き来自体は、旅の商人たちの間で成り立っているようだったので、一番近いゾーラの里に『キングゾーラにお会いしたい』と使いを出すと、すぐさま『使者をお迎えする準備はもちろんある』と返事があった。
あの一族は長寿のわりに案外動きは素早い。ゴロン族の方がよほどのんびりしているぐらいだ。
だがミファーのこともある。建設的な話が出来るかしらと不安になりながら、懐かしい青い服に袖を通していた。そこへ心配そうなインパが何度目かの顔を出す。
「姫様、お加減はいかがですか」
「大丈夫ですよインパ。もうなんともありません」
「であればよいのですが、何かあったらすぐにパーヤにお申し付けくださいませ。パーヤも、姫様のお傍を離れるでないぞ」
「ハイ、おばあ様」
これほどまでにインパを不安にさせるのは、リンクが去ってすぐに私がまるまる一昼夜眠り続けたからだろう。
100年止まっていた時が動き出し、体がただの人間に戻ろうとする影響なのか、一時的に睡眠と食べ物を強く欲した。あれから数日経って、本能的な欲求は落ち着いてきている。何でも美味しいし、あれほど不安で寝られなかったのがぐっすり眠れるので、逆に調子がいいと感じてしまうぐらいには体は健康だった。
さて、と一つ背伸びをして立ち上がると、私はパーヤを見上げる。
「パーヤ、今日乗る馬を見せていただけますか」
「ゾーラの方々がいらっしゃってから引き出しますけれど……」
「その前に、挨拶をしておきたいのです」
「挨拶? 馬にですか?」
パーヤは不思議そうな顔をしていたが、こればかりは譲れない。本当なら馬とは心を通わせる時間ぐらい欲しかったけれど仕方がないので、せめてお願いしますと挨拶ぐらいはしておきたいと考えていた。あるいはいずれ、自分だけの馬を持ちたい、などとぼんやり思いを馳せる。できれば白い、あの子みたいな馬を。
馬を贖うには、現在はどうすればいいのか、どれぐらいの金額が必要かなどということをパーヤに聞きながら、屋敷の長い階段を下っていった。門の前にはすでに面識のある門番のドゥランが立っていて、同じくおけさ笠の旅の商人と何やら話をしていた。ところが今日はやけに顔が渋い。
「……だから、もうこれ以上は」
「ドゥラン?」
「おお、姫様! もうご出発ですか?」
一つ礼をして、商人は足早に去っていった。何か売りつけに来たのかもしれない。
「今日乗せてもらう馬に挨拶をしたいと思いまして」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
商人はもういいのかしらと、村の入り口の方へ向かう後ろ姿を見ていた。と、細い切通からブワっと強い風が吹いてくる。真横でパーヤが思わず声を上げるほどの大風。
何事かと目を細めて切通を見ていると、突然大きな鉄色をした狼が走ってくるのが見えた。額に白い模様の入った青い目の狼が、明らかに私目掛けて走ってくる。悲鳴を忘れて息を飲んだ。
「姫様?」
「狼がっ、狼が来ます!」
狼狽えて屋敷の階段を数段駆け上ったが、ドゥランもパーヤもきょとんと見上げるだけ。どうしてこんな巨大な狼が目の前に居るのに2人とも怖がらないのか困惑しているうちに、黒い巨体が階段の下で足を止めた。
ハッハッと何度か荒く息を吐いているだけで唸りもせず、襲ってくる様子はない。
両耳に青い耳飾り、左の前足に古い戒めの鎖を付けた狼の背にはコログが乗っかっていた。リンクのことを頼んだコログだった。
『ひめみこサマ! ゆうしゃサマが連れ去られまシた!』
「連れ去られ?! どうやって……いえ、この狼はもしや、他の見えていないのですか?」
『“黄昏さん”は見えてないでス。それより早くきてくださイ!』
あのリンクをどうやって拉致するのか、そっちの方が一瞬気になりはしたけれど、狼が私の服の裾をパクっと噛んで引っ張るので慌てて歩調を合わせて付いて行った。
サハスーラ平原の下の方で、遠目に白い動物が右往左往している。それが馬で、しかも100年前にハイラル城までの片道をひた走ってくれた愛馬と、寸分たがわぬ白馬であるとすぐに気が付いた。
「この馬は?」
『ゆうしゃサマがここまで乗ってきたんです、ここで赤いヒレの人に連れていかれまシた』
「リンクがここまで来ていた?」
『ひめみこサマに会うつもりだったんでス』
その言葉に、間違いなく喜びで心が跳ねた。
あれだけきっぱりと別れを告げた彼が、言葉に反して戻ってきてくれるからには、何か重大な決断があるはずだ。辺りにはしばらく迷った馬蹄の跡があり、歩幅も狭い。恐らく戻りたくて戻ってきたのではないことも手に取るように分かる。それでも嬉しかった。
しかし今はそれどころではない。
拉致されたというのなら追わなければ。ゾーラ族の案内役はここまで来て、リンクをハイリア人の使者と間違えて連れて行ってしまったのかもしれない。でも見える限りではリンクの姿もゾーラ族の姿もなく、恐らくもう見えないところまで行ってしまっている。
迷いながら私は傍らの白馬の顔を覗き見た。生唾を飲みながらそっと首に手を伸ばす。見た目は同じ白馬だが、確かに昔乗せてもらっていたあの子とは雰囲気が少し違う。初めて会った人間を乗せるほど気性の穏やかそうではない。
でももしあの子の子孫であれば、お願い乗せて、私をリンクのところに連れて行って欲しい。
その思いが通じたのかどうかは分からない。でも白馬は小さく一つ嘶いて大きな頭をゴシっと私の顔に擦りよった。ありがとうと面長な顔を包み込むと、温かい鼻息が髪に拭きかかった。
「よろしく、お願いしますね」
鞍を掴んで鐙に足を掛けると、案外体が覚えていてすんなりと乗ることが出来た。腰を落ち着けた鞍はまだ温かく、ここに乗っていた人物が降りてから、まだあまり時間が経っていない。旅の荷物も括りつけられたまま。
「姫様! 一体どうなされたのです!」
「リンクがここまで来て、赤いヒレの人に連れ去られたと、コログが言っているのです。おそらくゾーラの迎えの人に勘違いされたのでしょう。私はコログに案内してもらって跡を追います。あなた達も支度が出来次第、ゾーラの里へ向かってください」
「お供もつけずに危険です! 少しお時間をくださればすぐに私どもも馬でお供いたします!」
パーヤが必死の形相で馬の手綱に手を伸ばそうとしたが、白馬は嫌がって歯を剥き出しに嘶く。どうどうと首を叩いて落ち着かせながら、“黄昏さん”とコログが呼んだ狼を見た。
瞳は貫くような冴えた青をしていて、不思議とリンクを思い出す。傍らに狼がいるというのに、白馬もその存在に全く構う様子はない。
この狼は只者ではないだろう。姿勢を低くして、先導役を今や遅しと足元で待ち構えていた。
慌てるドゥランとパーヤを振り返り、首を横に振った。
「心強い方が付いているので大丈夫です」
「ど、どなたが?!」
「説明は後でします、では先に参りますね。案内をお願いします!」
『黄昏さんが着いて来いって言ってまス!』
黄昏さんの背にしがみついたコログが赤い実のついた枝で、ラネール湿地の奥の方を指す。やはりラネール川の方向。もし川を遡っているのなら、到底人の足で追いつけるものではない。馬の脚をもってしても、曲がりくねる山道を駆けるのは時間がかかる。
それでも黄昏さんはもちろん白馬も途中一度も音を上げず、あっという間に私をゾーラの里まで運んでくれた。一番堪えたのは、もしかしたら私の腰かもしれない。
ゾーラ大橋を渡りきったところで白馬を飛び降り、あの麦藁色の頭を探した。ハイリア王家の使者と勘違いされて連れ去られているのなら、いまごろ里の誰か偉い人に責め立てられて双方困惑していることだろう。
それにミファーが亡くなったこともあって、100年前を知っている年嵩のゾーラ族のハイリア人への印象はあまり良くない。さらにリンクの顔を知っている人もいるだろうし、本人に記憶が無いことが原因でこじれたら最悪とんでもないことになってしまう。
『黄昏さんがこっちだって、匂いがするって言ってまス!』
「はい!」
黄昏さんとコログに導かれ、夜光石に彩られた里へ踏み込んだ先に懐かしいミファーの面影を彫りあげた石像があった。柔らかい表情は今でも思い出せる。
一族からとても慕われた彼女は、きっと亡骸すら見つからなかった。だからこうして石像に思いを寄せなければ心が持たない人がきっといたのだ。
その前に、リンクが立ち尽くしていた。
「リンク!」
ゆっくりと振り向いた彼は、ガラス玉みたいな瞳からボロボロと涙をこぼしていた。
「ひめ、さま……」
「リンク、大丈夫ですか!」
わずかに伸びた手を握りしめ、崩れ落ちる体を抱きとめる。ずぶ濡れになった体を震わせていたが、恐らく寒いからではない。
慌てて背をさするが、浅い呼吸を繰り返して何かうわ言のように繰り返していた。
「落ち着いて、大丈夫です。記憶が蘇りかけているんですね?」
コクンと頷くのだけを確かめ、これ以上どうして上げたらいいのか分からず手を握り返す。
ミファーの像を見て、一体どんな記憶が蘇ったと言うのだろう。頭の中でミファーとリンクが幼馴染出会ったことを思い出し、さらにそこから推測の枝葉を広げようとしたとき、脇に居た置いたゾーラ族が声を荒げた。
「ゼルダ姫! これは一体どういうことゾラ?! 復興のための使者がコレとは、ゾーラ族を侮っておいでか!」
やはり、彼が使者と勘違いされた。でも事が悪い方へ転がったのはおそらくミファーが絡んでのこと。
なんという間の悪さだろう。きゅっと奥歯を噛み締めて、悪態を突き返したくなるのを堪えて、必死に言葉を選んだ。
「どうやら行き違いがあったようなのでお詫びします。でも今は彼の状態を優先させてください! 彼は記憶の一切を失っているのです!」
緑色の老ゾーラ族はさすがに一歩引いたところで口を噤んだ。知らなかったのだろうから仕方がない。
私が震える彼の手を握り直していると、傍らにいた大柄の若いゾーラ族が膝をついて同じように手を差し伸べてくれた。言葉はなかったが、気配が彼の高貴を表している。たぶんこの大柄の赤いゾーラがシド王子、亡くなったミファーの弟その人だろう。
ちゃんとご挨拶しなければと思う気持ちはあったが、それよりも目の前で次第に呼吸が途切れていくリンクの方が気がかりだった。王族失格と思いつつも、でももう彼を手放したくなかった。
「リンク落ち着いて、ゆっくり呼吸をして」
「だ、だめなん、だ……」
だめって、何がダメなのかしらと眉をひそめる。
ずっとリンクはかすかに何度もだめ、と繰り返していた。
「俺は、だめ、なんです……」
「何がですか?」
思わず掛けた声に、リンクがようやく私の顔を見る。無垢で爛漫としていた、ただの男の子だった面影はどこにも見当たらない。きっと何も知らずに無防備なまま、記憶の蓋をこじ開けてしまったのだ。
何か言おうとしたものの声が出てはこなくて、リンクは糸が切れたみたいにカクンと意識を失った。
「リンク、リンク!」
思わず揺さぶる私の手を止めたのはシド王子。わざわざ彼自身がリンクを里の宿屋まで運び、どうやら勘違いと行き違いがあったことも謝罪してくれた。
あの老ゾーラのムズリという方からも、おざなりではあったが一応謝罪はされた。ただやはり、納得してはいない様子だったので、怒りを収めてくれたことにだけは感謝の意を伝える。
同じ立場ならば私だってきっと怒りのすべてを隠せと言われても無理だと思う。これは致し方のない感情であり、全ての原因は私の力の目覚めが遅かったから。右手の甲に光る聖三角を恨みがましく撫でつけながら、私はキングゾーラに100年ぶりに謁見した。
まずは里同士の公式の交流を復活させる方向で話を進めること、加えてヴァ・ルッタの様子を見せてもらう約束を取り付けることが出来た。少し挨拶をする程度のつもりだったのに、シド王子が記憶喪失のリンクを無理矢理連れてきたこともあってか、キングは渋い顔をしてトントン拍子に話を進めてくださった。
「シド王子、昔お会いしたのを覚えていますか?」
「ぼんやりとだが、ミファー姉さんを時々訪ねて来ていたのはだけは何となく。……それにしても、リンクには申し訳ないことをしてしまったゾ」
大きく強面なシド王子はベッドで眠るリンクの脇でしゅんと肩を落としていた。心なしか立派な赤い尾びれも元気がない。でも彼の体躯を見て、ようやくコログが『連れ去られた』と言った理由を理解した。
確かにシド王子の巨体なら、リンクや私を小脇に抱えてゾーラ川を遡るのは容易かろう。あれほど足の速い黄昏さんでも、水中のゾーラ族を追うのは容易いことではない。
道理でこの狼は私のところへきたわけだ。今もずっとベッドの脇に伏せてリンクの傍を離れないことからも、この狼は精霊か女神の遣いか、少なくとも尋常の存在ではない。そしてリンクを守ってくれている。
「でも里へ着いた時にはぴんぴんしてたんですよね? 様子がおかしくなったのは、ミファーの像を見てからだと」
「それは間違いないゾ。ムズリが姉上の像に謝罪をしろと引っ張っていったあたりから何かがおかしくなって……」
実は先ほど、ゾーラの里に隠れているコログからも話を聞いていた。リンクはミファーの像を見て、恐らく何か大事なことを思い出した。忘れていた方がよかったような何かを。
ベッドに横たわっているリンクの青白い顔を覗き込み、冷たい甲をさすった。記憶がない時はあんなに元気で楽しそうだったのに、やはり彼はもう何も思い出さない方が幸せなのではと暗い考えが頭をよぎる。
「こんな時に申し訳ないのだがゼルダ殿、一つお願いがあるんだゾ。もしよければルッタの調子を早めに見て貰えないだろうか?」
「シーカー族の研究者たちが到着し次第ですが、なにぶん高齢なのですぐには難しいかもしれません。しかしなぜですか?」
「実は先日、ルッタがいきなり大量の水を吹き上げて動き出したんだゾ」
えっ?と首を傾げる。今、ルッタはもちろん動いている様子はない。
ところがシド王子は腕組みをして鋭い視線で、遥か東の方角を睨んでいた。
「この100年、ルッタはほとんど動かなかった。それなのに2週間ほど前にいきなり動き出したかと思うと、7日8晩ずっと水を吐き出し続けていた。この一帯は昼夜を問わず大雨になり、ずっと続けば貯水湖が決壊でもしてしまう勢いだったんだゾ」
「でも今は振っていない、つまりいつまた動き出すか分からないと?」
「うむ。長きに亘るお役目を終えられたばかりのゼルダ殿に、キングも早々にお願いすることは憚られた様子だったが……。ゾーラの民が安心して暮らすためにも、できれば早めにお願いできないだろうか?」
ルッタが動いていた。これは予想外の事態だった。
厄災が復活したとき、4体の神獣はガーディアンと同じく乗っ取られてしまった。それを知らずに乗り込んだ4人の英傑は、神獣の中で何者かと戦って亡くなってしまった。
……というのを、実際にこの目で見たわけではない。
しかし私自身は、何しろ100年間も厄災の中に居たわけで、見ることはできなくても厄災がしていることを壁越しに音を聞くような感覚はあった。だから英傑たちが神獣の中で亡くなったであろうことはまず間違いない。
だがそれがつい最近動いていたとなると、未だ内部には神獣を動かせる何者かが存在することを意味する。それが敵か味方かはすでに厄災を封じた後では、しかと確かめる術はなかった。
「分かりました。もしよろしければ明日にでも行きましょう」
「大丈夫なのか?」
「分かりません……ただ早く確認した方がいいことは間違いありません。シド王子、出来れば護衛を頼みたいのですが、よろしいでしょうか?」
「それは構わないゾ」
「……ひめさま」
声に振り返ると、リンクがうっすらと目を開けていた。まだ焦点の合わない瞳が潤んでいたが、声は案外しっかりしている。
触れていた右手もしっかりと握り返した。
「大丈夫ですか?」
「うん、……はい。大丈夫です、姫様」
顔色は真っ青だったが、体を起こした彼は、遥か昔に見覚えのある硬い表情をしていた。私を厄災から救い出してくれた当初の、温かく朗らかなものではない。
聞かなくても分かるが、形式的に問う。
「リンク、記憶は?」
「申し訳ありません。全部思い出したわけじゃないですけど、自分が姫様の騎士だったことぐらいは思い出しました」
重たく沈んでいく彼の言葉に、思い出したのはその事実だけではないような気がした。きっと思い出したくない何かを呼び起こしてしまったのだろう。
例えばミファーの死。
幼馴染が居たことを思い出すのと同時に、彼女の死を知ったとしたら。それを確かめるのは酷な気もしたが、一人で抱え込む方がよほど危険な気もする。
「ミファーのことも思い出しましたか」
ぴくっと肩が震えて、無言で彼は首を縦に振る。
やはり。
もしこの調子であと3人の死、あるいはそれ以上に守れなかったものを思い出したときに、彼の心が耐えられるのか不安になる。傍らに寄り添う黄昏さんの頬の白い毛のところを指で梳きながら、青い視線は彷徨っていた。
「俺はとんでもない卑怯者でした」
「卑怯者? あなたが卑怯だったことなど一度も……」
「ごめんなさい、でも言いたくない。姫様には言えない」
何をと問う言葉を遮り、リンクはベッドから立ち上がる。体が頑健なのは承知していたが、すでにふら付きもなくしっかりと歩けるのには驚いた。
そのまま宿の戸口へ向かおうとするので、待ってと引き留めようと手を伸ばす。
「リンク! ちょっと待って欲しいゾ!」
ところが私よりもシド王子の方が早く、遥かに声も大きかった。
さすがに王子から引き留められることは予想外だったのか、リンクもビクッとして思わず振り返る。挙動不審ながらも、青い瞳はしっかりとシド王子を見上げていた。
「話も聞かずに無理矢理連れてきてしまって悪かったゾ」
「大丈夫。大事なこと思い出せたから、逆にありがとう」
「だが、あの100年前の、あのリンクがキミならば、渡したいものがある」
王子はどこからともなく青い鎧を取り出して、リンクの腕の中に押し込んだ。キラキラした鱗がついていて、広げてみるとたぶんリンクの背丈にぴったりの鎧。
リンクは信じられないようなものを見る目で、しばらくその鎧を眺めていた。
「シド、これ……」
「これはミファー姉さんが作ったゾーラの鎧だゾ。キミの体にちょうどの大きさのはずだ」
ゾーラの姫君が作る鎧のことは、古い文献で読んだ記憶があった。確か、着ればそのきらめきが敵の目をくらませ、着た者の命を守るという話だったはず。
この目で見るのは私も初めてだったが、もしミファーがこれを作ったとなれば本来は100年前にリンクに贈られるものだったはずだ。それが長い月日を経てようやく本来の持ち主の手に渡る。傍目にはとても喜ばしいことのように思えた。
ところが彼の顔は、ひどく引きつる。
「シド、ごめん無理、もらえない……」
「ミファー姉さんは亡くなったから本来の意味はもはやない。だが気持ちだけでも受け取って欲しい、それが姉さんの想いだったんだゾ」
「だから、分かってるから、俺はこんなこんなもの、受け取れない……!」
ガタガタとまた瘧のように震えながら、リンクは青い鎧をシド王子の手の中に押し戻した。何度も首を横に振って、及び腰になりながら外へと逃げようとする。
だが王子も長年の未練を晴らす機会を逃す気はなく、何度も何度も鎧をリンクの手の中に押し返す。
「だめ、ごめん、本当に無理だから……ッ」
「なぜそんなことを言うんだ? 姉さんのことを嫌いだったわけではないだろう?」
「だってこの鎧は、本当はミファーのお婿さんが貰うもんだろ?!」
リンクの言葉に、傍らにいた私は目を丸くする。ゾーラの鎧にそんな謂われがあるなんて、初めて聞く。
ということは
ミファーがこの鎧をリンクのために準備していたということはつまり、そういうこと。
あまりのことにポカンとしていると、シド王子がさらに語気を強めた。
「そうだ、君は姉さんの夫、オレの義兄さんになっていたかもしれなかった! 叶わなかったが今からでもいい、受け取って欲しい!」
「だから! 今も昔もそんなのあり得ないって言ってるんだよ!」
悲鳴みたいな怒鳴り声と共に、もみくちゃになっていた鎧が床に叩きつけられた。シド王子は怒った顔をしていたが、対するリンクの涙は滂沱として流れていた。小さく彼の唇が「ミファーごめん」と呟く。
「俺は、誰からもそういうの、もらっちゃいけないんだ」
「リンク……?」
私は完全に第三者の立場になっていて、2人の間で一体何が起こったのか全く理解ができない。ただミファーの作った鎧が、言葉の通りであればミファーからの逆プロポーズであったことは理解した。
ミファーの気持ちにはうっすらと気が付いていたし、私の中にあるリンクへの感情も似たり寄ったりであることも感づいていた。だからそれ自体には驚きはしても拒否感はない。
しかしリンクのあまりの拒絶に驚くばかり。まるで怯えた小動物のように牙を剥いていた。
「どうしたんですかリンク。ちゃんと説明しなければ、シド王子も困惑するばかりです」
「姫様……」
戸口に残っていた片方の足が敷居の外へ逃げた。
涙に濡れていた顔がくちゃっと歪んで、石の壁に縋る爪が嫌な音を立てる。何度か言葉を絞り出そうと試みては失敗し、挙句うつむいたままリンクは抑えた声で口早に言葉を吐き捨てた。
「理由は言えません、でも駄目なんです。あとごめんなさい、やっぱり役目が終わった俺はもう姫様のお傍にもいられません」
脱兎のごとく逃げ出した彼を追える者はいなかった、黄昏さんを除いて。
静かに事の成り行きを見守っていた黄昏さんは、コログを乗せて走り出す。最後にチラリとこちらに寄越した視線が『任せろ』とでも言いたげだった。
残された私は、呆然とするシド王子の足元から鎧を取り上げる。
鱗が1枚1枚縫い込められた鎧は、ミファーの優しい人柄を思い起こさせた。私よりもずっと優しくて懐の深い人だった。慈愛の塊のような人だったから、少しだけ嫉妬もしてしまったこともある。
「リンクのこと、お詫びします。たぶん、何か記憶を思い出して混乱しているのだと思います……」
「いや、オレもムキになり過ぎたゾ……。何も知らないのに、故人の情が込められた物を渡されたら、困惑するのも当たり前だ」
「かもしれません。でも彼、少し可笑しい気がするんです。もし原因がわかったらお知らせしますから、どうか今回のところは私に免じてどうか」
本当なら家臣一人のために頭を下げることなどしない。しかしことがリンクに係わるのなら、私の詫びなど安いものだ。
リンクの走り去った方を見る。たぶん西の方角。
何の役目もないただのゼルダであれば、今すぐにでも追いかけて行きたいところ。ところが悔しいかな、私はすでに自らにハイラル復興の役目を課していた。まずはルッタが動いた原因を早急に突き止めなければならない。
おっつけ里にたどり着いたパーヤとドゥランと共に一泊して、一夜明けて翌日、東の貯水湖へ向かった。何が出るか分からないのでもちろん相応の準備はするが、仮に邪悪なものが居ても大抵は封印の力があればどうにかなるはず。シド王子の背に乗せてもらってルッタの昇降口へと赴いた。
そこで私は懐かしい姿を見つけた。
「ミファー……?」
息を飲む。
幽鬼に包まれたミファーが生前の姿でほほ笑んでいた。私が仕立てた青い衣も健在だった。
『姫様、来てくれてありがとう』
手を取ろうと伸ばした腕が、彼女の体を突き抜ける。それでようやく、彼女が本当に亡くなってしまったのだと理解に達し、息が詰まった。
泣いては彼女に失礼だ。それでも後悔が堰を切ってあふれ出す。
「ごめんなさい、ミファー……私が間に合わなかったせいで」
『でも厄災は封じられたのでしょう? だから泣かないで、また会えて嬉しいもの。それにシドにも会えて……、シドには見えてないみたいだけど。でも会えて、とても嬉しい』
ハッとして振り返ると、突然泣きだした私の様子に、シド王子は真っ青になってオロオロしていた。
「えっと、こっここに、ミファーの霊が!」
「ミファー姉さんが?! 霊?!」
『ねぇ姫様、シドに“滝登り出来るようになった?”って、聞いてもらってもいい?』
「ミファーが滝登り出来るようになったかと、聞いていますが……」
シド王子は金色の目を丸くして口をパクパクとしていた。それから目元を抑えると、感極まった小声で「姉さんのおかげで、出来るようになりました」と。ミファーはとても嬉しそうに微笑んでいた。
そこからは、ミファーの霊に連れられてルッタのメイン制御装置へと向かった。すでに内部には不穏な気配はなく、動き回る小型のガーディアンたちも操られている様子はない。ルッタは至って正常、100年前に私が立ち入った当時と変わりなかった。
「少し前に、ルッタが大量の水を放出して近辺がずっと雨になっていたと、シド王子から聞いて様子を見に来たんです」
『ああ、それはたぶんガノンが作り出した強大な魔物、カースガノンが久しぶりに暴れてた時のことだと思う』
「そのカースガノンはどこへ行ったのですか?」
『ある時ふといなくなって、そのあとすぐにガノン本体の気配も消えたから、もしかしてリンクが倒してくれたのかな? 水の放出も止められたし、ルッタも言うことを聞いてくれるようになったの』
ミファーにもよく分からないのか随分と首を傾げていた。
どこかへ消えたというカースガノンが戻ってくる気配もなく、私の聖なる力もあってかルッタの中は清浄そのもの。事の顛末をシド王子にも伝えると、ならば大丈夫だろうと胸を撫でおろしていた。
『シドは大きくなったね』
「シド王子、大きくなったことをミファーが喜んでます」
「姉さんの言いつけを守ったからだゾ」
ミファーとシド王子との話の仲介をしながら、3人で歩くのは不思議だが楽しい気分だった。出来ることなら、私が間に挟まらずに姉弟2人で話をさせてあげたかったことだけが心残り。
ルッタの基底部にある大型の古代炉にシーカーストーンをかざす。承認の音が鳴ったので、問題なくルッタは制御下に入った。もうおそらく大丈夫。
これでミファーもようやく肩の荷が下りる。でもそれは同時に、彼女とのお別れも意味していた。淡く光り出した彼女の体が、別れの時をひっそりと示唆する。
『本当はね、リンクが来てくれるかなって思ってたの』
物悲しく笑う。やっぱりミファーは、リンクのことが好きだった。
最後に会いたかったのは私ではなく、彼だったのだろう。でも彼は、たぶんミファーのことも今は受け入れられない。2人に対してどうしたらいいのか、私には答えの持ち合わせがなかった。
「リンクに会わせられなくてごめんなさい、ミファー」
『来なかったリンクのせいだから気にしないで。それにシドには会えたから、よかった』
それでもなお、彼女の視線はルッタの外を気にしていた。
だから、そんな彼女に聞くのは酷いのは十二分に承知している。でも自分の記憶に困惑して逃げ惑うリンクをそのまま野放しにしておけない。
消えかかるミファーを見据え、私は口を開いた。
「ミファー」
『なに、姫様』
「彼は。リンクは一体何を抱えているのですか」
優しいばかりだった彼女が、一瞬ハッとして、私から視線を逸らした。
幼馴染だったミファーは何かを知っていると思ったのはただの勘だ。でも明らかに彼女は動揺していた。
教えて欲しいけれど、無理は言えない。100年前のあの時は、彼女は私には何も言わなかった。それが今覆らないのは何らおかしいことではないから。
でも十分に迷った末、ミファーはおずおずを口を開いた。
『姫様、リンクはずっと自分の体ことを責めてたはずなの』
「体のこと……?」
『彼のせいじゃないのに、誰とも一緒に生きられないってたぶんずっと、自分を責めてた』
一体何が、リンクをそんなに苦しめていたの?
あれほど優秀だった人だから、おくびにも出さなかった。ずっと一緒だったはずなのに全く気が付かなった。おそらく、誰一人として気が付いていなかった。
ミファーはただ、幼馴染だからどこかで知る機会があっただけ。
『姫様、リンクと一緒に生きて。お願い、癒してあげて』
そう、最後に言葉を残して消えた気配に、私は呆然と立ち尽くす。治癒の力を持っていた貴女でさえ癒せなかったのに、一体私にどうせよと言うの、ミファー。
なんとも優しい恋敵は、難題を残して消えてしまった。
「ゼルダ殿……?」
傍らのシド王子に顔を覗き込まれて、私は随分と長い間、黙って立ち尽くしていたことに気が付いた。手を組んで目を伏せ、祈りを捧げる。
「ミファーが、逝ってしまいました」
「……姉さんは笑っていきましたか?」
本当のことを伝えても仕方がない。私は目を細めて「ええ」と頷き、翌日パーヤやドゥランに付き添われてカカリコ村へと戻った。
そして人払いをしてインパに詰め寄る。
「インパ、教えてください。リンクは体に何か不具合を抱えていたのですか?」
あれほど近しい間柄だと感じていたかつての腹心は、100年の時を経て一族を守る老獪な長となっていた。きっと今のインパにしてみれば、私は確かに主君ではあるが孫娘と大して歳の変わらぬ小娘だ。
だから聞き出すのに下手な小細工は通じない。単刀直入に問う。わずかにインパのしわが深くなったので、やはり彼女は私に何かを隠していると分かった。
「やはり、知っているのですね」
「一体どこでその話を?」
「ミファーの魂に聞きました。彼が100年前から何かを隠して、それを責め続けていたと。教えてくださいインパ、彼は一体何に苦しんできたのですか?」
教えて欲しいとにじり寄っても、しわがれた口元はぎゅっと引き結ばれたままだった。ずっと考えている様子で目を伏せるインパに「どうか」と言い募っても、石にでもなったように私が諦めるのを待っている。
でもここで聞きそびれたらもう、リンクの混乱を解く糸口が無くなってしまう。
こうなったらインパと我慢比べしかない。座布団の上に正座をして、口を開くまでは動かないわと睨みつける。ところが人払い中にもかかわらず、軽い足音が階段を降りてきたので、思わず視線がそちらへ動いた。見知らぬシーカー族の少女が2階から降りてくるところだった。
「もういいじゃんインパ、姫様に教えてあげなヨ」
丸い眼鏡をかけて、何だかプルアに似ている子だな、とは思った。でもプルアに限って言えば、孫や曾孫がいるとすんなり納得するのは難しい。才色兼備は良いとしても、あまりの破天荒振りで有名だったので。
ところがインパは石のようだった顔を緩ませて、はぁーっと長い息を吐き出す。
「そうは言うがな、姉様」
あねさま……?
インパに姉は1人しかいない。その幼い少女をまじまじと見た。プルアに似ていると言うよりは、むしろ彼女そっくり。
「あなた、もしかしてプルアなんですか?!」
「そう! この美少女がなんとなんと、あのプルアちゃんでーす! どうどう? 驚いた?」
「どうしてそんな、プルアが子供に?」
「事情はともかく、姫様お久しぶり~! チェッキー!」
紛れもなく口調はあのプルアだった。
どうしてインパよりも年上のはずのプルアが、私よりも年下になっているのか、問おうとしても「どうして」以外の言葉が出てこない。困惑しているとプルアはケラケラと笑っていて、私を惑わせることが狙いの一つであるのは間違いないようだ。
昔から、確かに彼女はこういう人だった。
でも今はそれどころじゃなくって、リンクのことを聞きたいのだけれど、もしかしてプルアも知っているのかしら。どちらに聞いたらいいのか困り果ててプルアとインパの顔を交互に見ていると、プルアが笑いを収めて座布団に鎮座する妹の方を向く。
「インパ、もう時効だよ。それに当の剣士君がいないってことは、たぶんその件で頭バーンして出奔中ってところでショ。教えてあげてもいいと思うけどナ」
「そうであろうか」
「もう王家のしがらみとか関係なくなっても、アタシはイイと思うんだけどネ」
随分と含みのある言い方は、しかしよくよく聞けば、問題を知らなかった原因は私の方にあったらしいと分かった。
私が王家の姫だから、知らされてこなかった何か。
当時の私には、触れてはならない箱のことは、その存在ごと知らされていなかった。でも気が付いてしまえば人は、その箱の中身を知りたくて仕方が無くなる。あるいは、中身を知らない方が怖くなってしまう。
だから聞くのは少し恐ろしかったが、私はプルアの言葉を待った。
「私も勇者の生体データ採るので偶然知り得たぐらいの秘密なんだけど、あいつ誰かに去勢させられちゃってたのヨ」
「きょっ、きょせいって……」
それがどういう意味の言葉だったか、頭の中の辞書を引く。
ところが何度調べても意味が飲み込めず、二の句が継げない。プルアはハァとわざとらしい溜息をついて言い直した。
「まぁ簡単に言うとアイツ、玉だけ無いんだよネ」
真相を知ったからといって、特別な感情は浮かんでこなかった。
ただひたすら、思考が追いつかないだけだった。