「あの人から監視しろって言われたのか?」
葉っぱが風を切る音に、思わず振り向いて憎まれ口を叩いてしまった。カカリコ村を出て、なだらかな平原を下って行ったところで、さてどちらに向かおうかなぁと見回していた時だ。
村の一番大きな家のすぐ下にコログがいて、カエルの石像の影からこっそりこちらを見ていることには気付いていた。葉っぱの形を見るに同じ奴かなと思ったら、どうやら当たりだったらしい。
『違いまスよ! ひめみこサマに、ゆうしゃサマを見守るようにお願いされたのでス』
「それを監視っていうんだよ」
『監視じゃなくってお手伝いでス!』
「どうだか」
城へ乗り込む道すがら出会った人との会話で、どうやらコログが俺以外には見えないのだとは知っていた。ところが、あのゼルダというお姫様には見えているらしい。
と言うことはもしかして、あの人と俺はどこかしら似ているところがあるのかも。
「だから俺、助けに行けって言われたのかな?」
『ゆうしゃサマ、全部忘れちゃっタの?』
「もう本当に清々しいほどキレイさっぱり。名前すら憶えてなかった」
失くした記憶のどこかに、俺とあの人だけがコログを見える秘密が隠されているのだろうか。だとしたらやっぱり、あの人の手助け無しに自分の記憶を探したいと思ってしまう。
記憶探しを助けてくれると言ってくれた彼女のことは、とても良い人だと思った。その反面、彼女の感情で濾過した過去を、はいどうぞと手渡されるのは何となく怖い。
なぜなら俺という人間が、あの人の中でどういう形であるかは分からないから。あの笑顔を見る限りは、そう悪い印象ではなかったとは思う。
だからこそ怖い。
「俺、たぶんそんなにできた人間じゃないと思うんだよなぁ……」
『ゆうしゃサマはイイ人でスよ?』
形容しがたい気持ちがぐるぐると渦を巻くのを振り払うように頭を振る。そのまま歩き出した。
コログ相手はおろか、そのへんの木に向かってでも、上手く言葉で言い表せない何かがあった。『お傍を離れたくない』という気持ちと『俺のような者は傍にいてはならない』という衝動が見事に同居している。
「自分でもよく分からん」
ギリギリ悩んだ末、今回は衝動に従うことにした。何となく、あの人が抱く『良い人の俺』を崩したくなかったから、そのまま消えようと考えたわけだ。
だから急かすように平原を下っていく。少し間違えると足が村の方へ戻ってしまいそうだった。
式典場跡で唐突に脳裏に蘇った光景で、あの人は青い綺麗なドレスを着て、俺も青い衣を纏っていた。あの人はかなり気後れしながらだったが、俺に祈るような言葉を与えてくれた。
それを受け取る自分の内心は不思議なことに、嬉しいの半分と引け目の半分。
しかし、当時のあの人の「苦手」と言う感情が読み取れなかったのと同様に、俺の複雑な気持ちが彼女に伝わっていたとは思えない。そうでもなければ、「自分ばかりが劣っていて、引け目を感じていた」だなんて言わないはず。
漠然と、俺はあの人に近寄りがたい何かを抱えてひた隠しにしていた。
それが何かは分からない。
「まぁ細かいことは追々思い出せばいいや。迷子になるなよ」
本当はあの人から頼まれたコログなんて連れ歩きたくはなかった。けれどもコログが悪い訳じゃないし、旅は1人より2人の方がたぶん楽しい。
ふわふわ風に頼りなく揺れているコログを掴むと、飛ばされないように肩に乗せてやった。重さなんかあってないようなもの。
コログをちゃんと肩に掴まったのを確認して、拾った木の枝を平らな地面に立てる。
「行先はこの枝が決めてくれる」
『そんなテキトーなことでいいんでスか?』
「いいのいいの、細かいことは気にすんなって」
行く当てなんかない。あの人から遠ざかれるなら、方向はどっちでもよかった。
手を離した枝が倒れて、沈みゆく太陽の方を向く。これで行先は決まりだ。
「はい、西に決定」
滅びたとはいえ、ハイラルという国の色々なところを注意深く見たくて、カカリコ村を出てすぐの平原で乗っていた馬は群れに返してやった。頼れるのは自分の脚だけ。こんなのんびりした旅もきっと悪くない。訳も分からないまま巨大な魔獣と戦った草原を眺めながら西へとずんずん歩いて行く。
魔獣の亡骸は不思議と跡形もなく消えて、戦った痕跡は何も残っていない。あの戦いが幻かにも思えたが、遠目に見える城に巻き付く影は無くなっていたので、あれは夢ではなかった。
きっと多くの人が何かが変わったことに気が付いているはずと思って、リバーサイド馬宿に立ち寄ってみるとやっぱり噂になっていた。ちょっぴり誇らしいけれど、説明するのも面倒だから黙っておく。コログと顔を見合わせて「しーっ」と一本指を立てた。
馬宿の外で晩ご飯を作りながら、このハイラルにはどれぐらいこういう施設があるのかと聞いたら、今のところ15だという。
「北へハイリア川沿いに行けば湿原の馬宿、台地沿いに西へ歩いて行けば平原外れの馬宿がありますよ。平原外れの方が少し遠いかな」
「そっかぁ、じゃあ次は平原外れの方に行こうかな」
話を聞いた馬宿のゴエタフさんという馬宿の従業員さんは、夕方辺りにはすでに赤ら顔でシロヤギの乳から作ったチーズを焼きながらちょっとずつ食べていた。片手に飴色になった木のゴブレットを持って時々傾けている。
「何飲んでるの?」
「これはアップル・ジャックというリンゴの蒸留酒です。湿原の馬宿の人と交換したんですよ。向こうにはロマーニって昔リンゴで有名だった場所があって……あげませんよ?」
「えー、一口ちょうだいよ」
「ジュースみたいなシードルならまだしも、蒸留酒は子供にはだめです。これは大人の味」
ふふんと得意げに言われて。
そういえば俺は何歳なんだろうと首を傾げた。名前すら分からなかったので、当然年齢も知らない。
「大人って何歳から?」
「ラネール山のしきたりに従えば17歳。と言っても、成人したからと言って特別何があるわけじゃありませんけどね。堂々とお酒が飲めるようになるぐらいですか」
自分の手の感触を確かめながらしばらく考えた。
17歳。パッと見た感じ、自分の姿形はあまり大人らしいとは思えない。背も小さいし顔も童顔だ。
だが体についた傷痕の量も痕跡の酷さも、他の人が見るとびっくりされる。自分でも最初に見た時は驚いた。これが子供の負った傷だというのなら、100年前の俺は一体どんな無茶な戦いを強いられていたのかと頭を抱えてしまう。
「俺は一体何歳なんだろうな……?」
「自分の年齢が分からないんですか」
「色々忘れちゃっててさ。たぶん大人な気がするから、そのお酒を一口……」
「だめです」
「ちぇっ」
代わりにヤギ乳の白いチーズを分けてもらった。独特な風味のチーズに「ん?」と首を傾げると、「舌は子供のようですね」とゴエタフさんに笑われた。
次ぐ日、また西に向かって、今度は平原外れの馬宿を目指して歩く。
途中で大きな池が右手に見つけて立ち寄ると、周囲の雑木林にたくさんのキノコが生えていた。イノシシもシカもいる。ちょうどいいから食材の補充がてら、ひと狩りしようと思ったその時だ。
池のすぐ脇のところで、またあの時と同じ感覚に襲われた。
『ゆうしゃサマ?』
「あぁ……ここも、知ってる……」
痛みがあるわけではない。あり得ないほどズンと頭が重たくなるだけ。
浮上してくる言いようのない感情に心が揺さぶられながらも、式典場跡での時ほどは取り乱さなかった。それが己の失くした何かだと分かっていれば、受け取ること自体はさほど難ではない。
『大丈夫でスか?』
「うん……やっぱりあの人、……ゼルダ様は、俺のことたぶんあんまり好きじゃなかったんじゃないのかなぁ……」
ゆわりと風に揺れる水面に、当時の幻影を見た。
姫様は付き従う者を見向きもせず、でもやけにはっきりと言葉を紡ぎながら歩いていってしまう。俺は黙って彼女の背中に着いて行くだけ。
姫様からは『誰かに頼ろう』という気配は微塵も感じられず、それは一番近くにいた俺相手でも同じだった。紡ぐ言葉すらほとんど独り言のようで、まるでお付きの騎士など居ても居なくても同じとでも言いたげだ。
でもしばらく行ったところで足が止まり、『貴方はその背中の剣を使いこなせていますか?』と問われた。
『その剣に宿ると言う内なる声……それが聞こえているのですか?』
「剣……?」
自分の背後を見ても、今背負っているのはモリブリンから奪った竜骨ボコバット。声もへったくれもあったもんじゃない。たぶん喋るなら煩いダミ声のオッサンだと思う。
一方で、記憶の中の俺は、大層な装飾が施された青い鞘の剣を背負っていた。どうやら上等な剣を求められるような立場の人間だったらしい。
「……そんな剣が持てる俺って、一体何者?」
『ゆうしゃサマですヨ』
「勇者って、だからなんだそれ?」
よく分からない。分からない自分が腹立たしい。
いっぺんに気分が落ち込んで、適当にキノコだけをもぎ取ってまた西へと歩き始めた。
「でもそっか、でも分かったことがある。俺はあの姫様のお付きの騎士だった」
『ようやくお分かりデ?』
「知ってたの?」
『コログ界隈では有名な話でス』
知らぬは当人ばかり也、なんとも理不尽なことだ。
でもこれで一つ腑に落ちたことがあった。俺がカカリコ村で別れを切り出した時、ゼルダ様やあのシーカー族のおばあさんが困惑していた理由だ。
記憶を失っているとはいえ、俺はまた騎士として仕えるのと思われていたんだ。そりゃあ、まぁ、100年経っているとはいえ向こうは姫君だし、お付きだっていなければ話にならないだろう。
なるほどなぁと独り言ちでいると、肩に乗せたコログが俺のもみあげをぐいぐいと引っ張った。
『思い出したなら、ひめみこサマのところに戻りましょうヨ』
「えっ……」
反射的に踏み出す一歩が大股になると、ジト目のコログは赤い実のついた枝をブンブン振って猛然と抗議する。でも無意識にそっぽを向いて、歩く速度は緩めなかった。
「嫌だよ。だって姫様、俺のことやっぱり嫌いっぽかったもん」
『昔のゆうしゃサマは、ひめみこサマと仲良しだったでスよ!』
「うそだー、別人じゃないの? それに一度さようならしたのに戻るのかっこ悪いからヤダ」
ポカポカと頭を叩かれたが気にせず歩いた。
そんなに『ひめみこサマ』とやらが気になるのなら1人で戻ればいいのに、それでもコログは俺の肩から離れようとはしなかった。それに、なんだかんだ言ってずっと話し相手にもなってくれた。実に気のいい奴が旅の道連れになってくれたものだ。こればかりはコログを遣わしてくれた姫様に感謝する。
そんなこんなで、まったく退屈せずに俺は平原外れの馬宿にたどり着いた。そこでまた一つ、馬宿のおじいちゃんから面白い話を聞いた。
「サルファの丘で王家の白馬を見たという話を昔、わしのおじいちゃんから聞いたんじゃ。ところが少し前ここに来た客の話によると、最近もサルファの丘で白馬を見かけたそうなんじゃよ」
「白馬って本当に全部白いの?」
「毛並みにムラが無い、美しい真っ白な馬じゃと聞いた」
へぇと相槌を打つ。
王家の白馬と言うことは、つまりあのゼルダ様が乗っていた馬……の子孫かもしれないと言うこと。それはきっといい馬なのかなぁと、にわかに見てみたい衝動に駆られる。
「サルファの丘ってどっち?」
「北のテスタ橋を渡った向こう側じゃよ」
トーテツさんというおじいちゃんに教えてもらって、すぐサルファの丘に向かった。たぶん記憶とは関係ない、何となく見たかっただけ。むしろお付きの騎士だったら、こんな寄り道はできない。道草は自由人の特権だ。
果たして白馬は居た。
遠目に見ても他の野生馬とは違い、たてがみや尾の先まで白い。純白の毛並みが日の光を弾いて、ぴんと張り詰めた見事な馬だった。
最初は見るだけのつもりでいたのだが、思わず高い背丈の草に隠れて後ろに忍び寄る。コログまで息を殺して白馬の背後に迫り、そして飛び乗る。
途端に白馬は大きく跳ねた。
「うわぁッ」
ただの野生馬ならば適当になだめれば、いずれは落ち着く。野生馬を馴らす要領はすでに心得ていた。たてがみを持って両足で腹を抑え込み、誰が主人なのかを教え込んでやればいい。
ところが白馬はやにわに走り出した。
それが風のように速い。
「落ち着けってば!」
いくら優しく声をかけて首を叩いても、ぎゅっとたてがみを引いても、白馬は背に乗せた俺を主だとは認めずに走り続けた。その場で暴れることすらしない。
こうなると逆に、振り落とされないようにしがみ付いているので精一杯だった。落馬したら死ぬ。それどころかこの馬は随分と矜持が高いから、振り落としがてら後ろ足で蹴られかねない。
この馬は賢い。乗った者の度量を試している。
――負けるかッ!
コログは途中でどこかに吹っ飛ばされてしまい、気にする余裕はなかった。軽いからまぁ、大丈夫だろうということにしておく。
こうなったら体力勝負、振り落とされるのが先か、白馬が根負けするのが先か。行先は馬に任せ、たてがみを握りしめて馬体にしがみついた。絶対にこの白馬を下して、それでいつかまた姫様に。
そう思った瞬間、脳裏によみがえるものがあった。
姫様は確かに、白い馬に乗っていらっしゃった。
『相手を思う気持ちって大事なんですね』
それを彼女に教えたのは、誰だったか。
――俺だ。
馬を並べて2人で進んでいく先、馬の石像が立つ公園があった。先に思い出していた2つの記憶に比べて、姫様の物腰は随分と柔らかく、言葉は温かみすらある。たぶん、姫様と俺は和解できて、十分に話が出来るようになっていた。
よかったと安堵を覚えるとともに、そこへ至った経緯が分からず困惑する。
何かがあったんだ、でも何が? 俺と姫様はいったい?
ところが深く考える時間を、暴れる白馬は与えてくれない。よそ見をせずに自分を見ろと言わんばかりに、無茶苦茶に走り回って体から汗が噴き出している。
――どうしてこんなに嫌がるんだ。
人間である俺には当然馬の気持ちなんか分からない。興奮した白馬にはなだめる声はもはや届かず、それどころか口を開けたら舌を噛みそうになる。
でも、突然後ろから乗られたら嫌なのは当たり前だよなぁとも思った。そんなに嫌がるのなら、やめておこうか。ここまで嫌がる馬に乗るのは俺も嫌だし。
どうにか上手く飛び降りようと、たてがみを引く手を緩める。まっすぐ走っているときに上手く飛び降りれば、軽い打撲ぐらいで済むだろう。
そう思ってタイミングを見計らううちに、白馬は徐々に歩調を緩めた。ブルルと文句は言っているのだが、無茶苦茶に走り回るのをやめて足を止めた。
「乗っててもいいのか」
伏せていた体を起こして問いかけたが、もちろん答えはない。でも腹を軽く蹴ると白馬は言うことを聞いて、なだらかな丘を登り始める。
そこには記憶の中で見た馬の石像があった。草ぼうぼうの中に、物寂しく立っている。その石像の脇で白馬は勝手に足を止めた。
『大丈夫ですカ?』
ガサガサ音がする方から、コログが頭に葉っぱをつけて戻ってくる。心配そうに顔を覗かれたのだが、俺は今蘇った光景で頭がいっぱいになっていた。何をどう答えたらいいか分からず、しばらくぽっかりと口を開けたまま辺りを見回す。
相当頭がこんがらがっていた。なにせ、いま思い出した記憶と感情が、そこまでに得ていた認識とあまりにも隔たりが大きすぎたので。
「ラネール山へ登るって……、知恵の泉に、当然俺もお供することに、決まっていた……?」
ハイラル平原を挟んで東側、霞むほど遠くに高い山が見えた。あれがラネール山、齢17に満たぬ者は登ることが禁じられていると、記憶の中の姫様は言っていた。ゴエタフさんも同じことを言っていたので、恐らく間違いはない。
でも問題はそこじゃない。彼女は確かに馬に乗りながら、笑っていた。
式典場跡や池の脇で思い出した記憶は、どう見ても姫様とは上手くいっていない様子だった。嫌われているのかとさえ思ったが、当の姫様曰く『苦手だった』だけらしい。
で、何かがどうにかなって、俺と姫様はたぶん仲良くなれた。
ところが今の自分にはその間の出来事が一切分からないので、整合性のない感情に今の情緒は振り回される。大きくうねる動揺に頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、何か適当なことを言わないと、変なことを口走ってしまいそう。
慌てて当たり障りのない言葉を探す。
「えっと、あ! 俺、成人してた!」
自分でも分かるほど声が上ずっていた。
とりあえず吐き出せたのは事実だけ。
『ゆうしゃサマが?』
「うんそう、大人だった。ってことは、お酒が飲めるってことだ」
わざと笑い顔を作って、白馬の腹を軽く蹴る。とつとつと歩き始めた馬の頭にコログがちょこんと乗っかった。
『そんなことより記憶は大丈夫でスか?』
「飲んでみようお酒。白馬に乗れたお祝いと成人のお祝いってことで」
『ちょっと、ゆうしゃサマ~!』
「馬宿に戻って、誰か売ってくれないか聞いてみよう」
態度の違い過ぎる姫様の謎はもちろんのこと、それ以上に理解が出来なかったのは姫様と向きあう自分の内面だった。漠然と伝わってくるのは、姫様に邪険にされれば悲しくて、向き合ってもらえれば嬉しいという当たり前の気持ち。
ところがそういった表面上の気持ちの水面下に、やはり得体のしれない大きな不安が下敷きになっている。それが掴みどころのない重石のように重くのしかかるのだから、たまったもんじゃない。
白馬を煽って帰り道を急ぎ、馬宿に戻るなりカブトムシ型のでっかいリュックサックを背負った商人にお酒を売ってもらった。彼の隠し持っていた特別な一品らしい。高くて手持ちのルピーが足りなかったけど、そこらへんで採ったカブトムシをあげたら安くしてくれた。いい人かもしれない。
夕刻前だというのに、馬宿の前にある鍋のところに腰かけて「かんぱい」と1人で声を張り上げる
「お酒って美味しい……!」
ツンと鼻から抜けていくアルコール。初めてのお酒は、砂漠の方の果物を漬け込んだ果実酒で、甘いのにさっぱりとしていて飲みやすい。果実の風味が舌をぴりりと刺激するので、無性に二口目が飲みたくなってしまう味だった。
何も食べないんじゃ酒の回りが速いっスよといわれ、慌ててハイラルダケと肉を焼く。でも焼き上がるまでに、お酒はちびちびと飲んだ。
「大丈夫っスか、お客さん?」
『大丈夫でスか、ゆうしゃサマ』
「らいじょうぶ、らいじょうぶ!」
焼けた肉を食べるころにはふわっふわの温かい布団にくるまれているような、それでいて踊り出したくなるぐらい、いい気持ちだった。耳の先までぽかぽか。
今ならきっと、吹けば不安も飛んで行く。だからもうひと口と思ったら、馬宿の若いお兄さんに杯を取り上げられてしまった。
「お客さん飲みすぎっス」
「んもー! ひどい、おれのお酒なのに!」
「少し酔い覚ましするまで預かっとくっス」
「えー。じゃあ酔い覚ましに……えーっと、おさんぽ行ってこようかな!」
「散歩?! 危ないっスよ!」
酔っぱらっているとはいえ、普通の人に捕まる俺じゃない。高いところから見下ろしたくて、適当に馬宿の裏手に走って行った。
ゆるゆると体を撫でる風が適度に冷たくて、火照る体に気持ちいい。思わず鼻歌でも歌いたくなるような黄昏時だった。
肩に乗っかるコログが随分を騒いでいたが、気にせず斜面を登った。
「へへへ。記憶なんか探さなくても、別にいいかもな~なんて」
『ゆうしゃサマ、ゆうしゃサマ!!』
記憶を探し当てるたび、それが本当に自分なのか分からなくて不安だった。どう見てもいくら思い返しても、記憶の中で動いていているのは間違いなく自分。ところが一歩引いて記憶を咀嚼すると、どこか他人事のように感じた。
まるで知らない誰かの過去を押し付けられて、自分ではない誰かになってしまう気がして身構えてしまう。
「思い出さない方が、逆に楽に生きられるかもなぁ」
悪魔のような囁きだが、言ったのは自分だった。
思い出して辛いぐらいならば、思い出さなければいい。どうして辛い思いを率先してしなきゃいけないんだ。俺はもう立派にお役目を終えたはず。
『本当に?』
耳元にはっきりと、声がした。
ゾッと総毛立って、我に返る。まだ酔っぱらってふわふわとする自分の体は、うっそうとした森の一本道に立っていた。
「は……? 森?」
『ゆうしゃサマ、ここはだめ! 帰りましょウ!』
いつも呑気なコログの声が切羽詰まっていて、服を握りしめる手もぶるぶると震えていた。慌てて周囲を見回すが、見覚えのある景色は一つもない。
「ここどこだ?」
『分かりませンよぉー!』
確か俺は、馬宿の裏手の斜面を登って見晴らしのいい場所へ行こうと上へと登って行った。だからこんな平坦な森に足を踏み込むはずがない。ところが左右と背後は見果てぬ暗い森で、道は正面にしかない。
さすがに身震いした。あたりの気配を探ると運よく敵らしいものが居ないが、全身の毛穴が開いて毛が逆立つような感覚。嫌な汗が滴り落ちそうになるのを手の甲で受け止めようとした瞬間、モフッと何かが頬を擦った。
「えぇ、毛!?」
毛が逆立つような感覚ではなく、実際手の甲から毛が生えて逆立っていた。髪の毛の色に似た、明るい茶色っぽい毛。しかし人の髪の毛とは明らかに違う、密度の濃い動物の体毛だ。
指先で顔の輪郭をなぞると、手の甲どころではなく、頬にもうっすらと毛が生え始めている。耳も心なしか形を変えて釣り上がり、爪も鋭利に、口の中で犬歯が存在感を大きくしていくような。
夕闇に染まりゆく空気が、硬い動物の毛をチリチリと燃やすように逆撫でする。
「ここ、やばい……」
この世には、時々人が覗いてはならない場所がある。常人はそういった場所に踏み込むことはまずない、入り口が分からないから。
でも人には見えないコログと会話している時点で、俺は常人ではない。その自覚もある。
しかも時刻は昼と夜が交わる黄昏時。
黒い影がちらつき、森は手招きをするようにざわめいた。これ以上進んだら戻れなくなる。でも背後には引き返す道もない。
「あ……」
酒に痺れた頭がようやくはっきりと冴え、どっと冷や汗をかく。
一本道の先に鉄色をした大きな狼が座っていた。