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シーカーストーンを使って、城正面の重たい鉄扉を久々に動かす。軋んだ音はするが、100年間放置した割に扉自体はまだまだ健在のようだ。サクラダさんも開いた扉に手をやって矯めつ眇めつ、しばらくの後にウンと力強く頷いた。
「ようやくお城の方に手を付けられるワね」
「まずは測量からですね。人員についてはパーヤがカカリコ村から帰ってきてから相談で構いませんか?」
「もちろん! これだけの場所よ、じっくり取り組むべきだワ」
予想よりも多くの人員が集まったこともあって、考えていたよりも遥かに早くハイラル城の門扉を開けることとなった。パーヤはカカリコ村のインパの元に、シーカー族の受け持つ仕事の種類について相談をしに行っている。そのため今日、私の傍らにいるのは三代前が逃亡貴族の女性だった。
少し年上の彼女は初めて見る城の入り口に、ぽっかりと口を開いている。
「私の祖父もここに居たんですね……」
「ええ。あなたのおじい様のこと、よく覚えております」
もちろん「廊下で鉢合わせるとせせら笑うような人だった」なんてことは言わない。彼女がいま私の補佐としてここに居るのは、彼女の誠実な人柄を見込んで私が補佐をするように言いつけたからであって、彼女の祖父はこの際何も関係が無い。
「今は荒れ果てていますが、これでも以前は美しい城だったのですよ」
「姫様……」
「ここが色々な人が集う新しい城になるように努めねばなりませんね」
私にとっては我が家とでもいえる場所で、恐らく御父様も亡くなられた。嫌なことも嬉しいことも悲しいことも楽しいことも、全部私の生活の中心はこの城だった。
その城が姿を変える。
城が生まれかわることへの喜びが半分と、もう半分は私の知る場所が無くなることへの悲しさだ。でも仕方がない。100年というのは、本来はそれほどの時間の流れのはず。
私が一切変化なく100年飛び越えている方が不思議と言えば不思議なのだ。
「中はどうされますか? 」
「そうですね、……いずれ」
厄災が封じたあの日、城を飛び出すその瞬間まで、私はガノンの腹の中だった。不完全ながらも繭の中で再生させたせっかくの体をリンクに打ち破られ、厄災はほうほうのていで平原の方へ逃げた。それに巻き込まれた私はあの日、城の光景を見た覚えがほとんどない。だから廃墟となり果てていたとしても、この城を目に焼き付けておきたかった。
可能な限り、静かに一人で。
それがとても危険なことだとであるかも分かっていた。魔物はもういないし、崩れる危険のある個所にはもちろん近づくつもりはない。そうではないのだ。
自然ときつく拳を握りこんでしまう。
「迷っているのかしら」
「……サクラダさんには何でもお見通しですね」
城の中を歩いて物思いにふけりたいから一人にして欲しい。そう願えば、恐らくパーヤですら許してくれるだろう。
でもそれは、今の私の心にとってはとても危険なことだった。
少しでも気を緩めれば闇深い思惟に足を取られる。まかり間違えば心が暗い奈落の方へ転げ落ちていく。様々な想いの眠るこの城の主になるということは、それら全てを我が物とする覚悟を決めるということだ。
城の再建には街以上に時間がかかるだろうから、すぐにでも即位などという話は今のところない。しかし門より先は1人の行き道だと分かっていた。だからまだ踏み出すのが怖い。
「いいのよ焦らなくて、まだお若いのだから」
「いえ……玉座の重さを、もっとちゃんと御父様から教わっておけばよかったと、思って」
あるいは共に背負ってくれる人を、手放さねばよかった。
遥かに遅い後悔が、逆に私の背を押す。もう選べる手立てはないのだから、あとは覚悟を決めるだけ。
でもその覚悟が酷く難しい。
「ひーめーさーまー!」
暗い思考の縁辺を彷徨っていた私を現実に引き戻したのは、お日様のような声だった。遠くから駆けてくるフード姿の子供がいる。
両手を広げて待っていると、飛びつく勢いで走ってきたのが一歩手前で急停止。フードの下には、飛びつきたいのを必死で我慢している青い瞳がウズウズしていた。どうやら背後の傍仕えの彼女の視線が怖かったようで、ちらちらと上目遣いに伺っている。
「姫様の御前ですよ、小姓ならばフードぐらいとりなさい!」
「よいのです、彼は事情があって許しています」
ぽんぽんと頭をなでてやると、手に2つ尖がった感触が伝わる。狼の耳を外に出したら大変なことだ。当然、尻尾の方もどうにか服の中にしまい込むように言いつけてある。それでも時々お尻のあたりがモサモサ動くので、慌てて隠したりしていた。
このことを知るのはパーヤとテバさんと私だけ。どうせインパにはバレているだろうが、何も言って来ないのでこちらから藪を突くような真似はしない。
「それで、慌てて走って来て、どうしました?」
「お昼、できたから呼びに来た! 今日はお家でお昼食べる? 外で食べる?」
どうしようかしらとサクラダさんと顔を見合わせ、ばっちりウィンクされた。行ってらっしゃいとのことらしい。
少し会釈するともう一度、音がするぐらいすごいウィンクが飛んできた。
「では一度家に戻ります。今日のお昼はなんですか?」
「えっとねー、炒めポカポカでしょ、それから海鮮チャーハン、あとハチミツリンゴ!」
「またたくさん作りましたね」
「俺の好きなもん作った」
へへんと胸を張ると、危うくフードから耳が飛び出そうになる。慌ててフードを抑え、手を繋いで家まで戻った。
最近は毎日がこんな調子。
彼は、リンクと名乗ったオオカミ少年は、さっぱりと記憶が抜け落ちていた。ただしあの狼で間違いないらしく、本人曰く「女神さまにお願いしたら手足が生えた」とのこと。訳が分からない。
それ以上のことは本人もよく分からないらしく、彼が本当の意味で何者なのかは未だに不明のまま。こちらとしても一体誰に何が起こったのか、まったく知る術が無かった。
あれからメドーは青い光を帯びたかと思うと静かに飛び立ち、リト族の村の岩の頂上にまた舞い戻った。その後は今日にいたるまで他の神獣と同様に沈黙を守り続けている。リト族からの依頼は何とか無事に完遂できたと言ってよいだろう。
だが問題なのは残されたこの子だ。
デクの樹様の元に私が返した退魔の剣をいとも容易く引き抜き、でも事が終われば彼は『剣はもう要らない』とすんなり返してしまう。デクの樹様は大笑いしていたけれど、時代が時代ならば耳と尻尾を持つ少年が退魔の騎士だったかもしれず、まさか他人事のように笑えなかった。
当然、保護する者が私しかいないので、連れ帰ってから寝食を共にしている。いきなり大きな弟ができたみたいだった。
「あのね、俺、背が伸びたんだよ」
ぺろりとお昼ご飯を平らげたリンクが、ほらっと柱を背に立った。よく見ればここに連れてきた当初に付けた傷よりも、確かに指の幅1本分ほども身長が伸びている。
よく食べているからか、それとも成長期なのだろうか。わずか一か月のうちにこれだけ伸びるなんて末恐ろしい。もしかしたらリンクは元々、とっても背が伸びる人だったのかもしれないと思いながらナイフに手を伸ばす。
新しい線を掻き足し、ぴんと立った耳ごと頭をくしゃくしゃに撫でると彼はくすぐったそうに笑った。その口元には、人の体にしては大きな八重歯が見え隠れしている。
やはり普通の人の子とは何かが違うとしか言いようが無かった。
「あと何回寝たら姫様より大きくなれるかなぁ」
「大きくなったら同じベッドでは寝られなくなりますね」
「え、それはやだ……」
本当は大人2人が悠々と寝られるダブルベッドなのだから、大きくなっても寝られることは可能なのだけれど、内緒にしておいた。何となく、以前の彼とは違う気がして。
全くの別人だとはさすがに思わない。恐らく黄金の狼に言われた通り、私はリンク本人を連れ帰ったのだろうと思っている。だがすっかり記憶の無くなった彼を、同一人物として扱う方が無理というものだ。
しかし本来はそうせねばならなかった。
回生の祠で記憶の全てを失くした彼に、昔の記憶が戻るようにと呪いをかけたのは私だ。生きていさえすれば記憶など本当はどうでもよかったはずなのに。本人が本当に過去を望んだ時にこそ、手を差し伸べるべきだったはずなのに。
私は生きて再び出会えた以上の事を、分不相応に望んでしまった。
だから姿も記憶も別人になってようやく、私は過去の彼を押し付けずに接することが出来る。なんて滑稽なことだろうかと今更ながらため息が出た。
「大きくなったらサクラダさんにもう1個ベッドを作ってもらいましょうね」
「えー、一人じゃ寒いよ?」
「私はちゃんとお布団をかけるから大丈夫です。リンクこそ寝相をよくしないと風邪をひきますよ」
「姫様のいじわる」
しょぼんと垂れた耳が可愛くて、思わず抱きしめた。今はまだ小さな弟のようだからいい、許される。柔らかい耳に頬ずりをして、まだ小柄な体を抱きしめて、フワフワの尻尾を撫でてながら眠りにつく。
なんて幸せなんだろうと思いながら、幸せな日々はそう遠くないうちに終わることも分かっていた。
私が冠を正式に戴く日か、あるいは彼がこうして一緒に寝てくれなくなる日か、どちらが先かは分からない。でもいずれ来るその日の足音にはもう気が付いていた。
どうするのがいいのかなんて、今をもってしても分からない。しかし私はもう彼を自分の人生に縛り付け、煮え湯を飲ませることはあってはならないと、ただそれだけは肝に銘じていた。
どんなに大切だからといって、その人を愛情で押しつぶしていい理由などなかった。全てのことを愛情で片付けてはならないのだ。『大事だから』なんて耳障りの良い言葉は、自分の行いから目を逸らす言い訳でしかない。
だから考え続ける。
彼にとって何が良いのか。あるいは私と彼は、本当はどうあるべきなのか。
「戻りました姫様! お婆様から梅干しをたくさん頂いてきましたよ」
翌日戻ってきたパーヤは一抱えもある壺を男性に持たせていた。見覚えのない顔のシーカー族の男だ。しかもそれなりに若い。
パーヤが若い男性と普通に並んでいるのがあまりにも珍しくて、思わず梅干しの壺よりもその男性の方をまじまじと見てしまった。男性の方が困り顔でパーヤと私とを交互に見る。
「あ、あの……?」
「ごめんなさい、パーヤが恥ずかしがらない男の方なんて、初めてで……」
「ひひひめさまっ! パーヤだって、ちょっとずつは頑張っているのですよ?!」
途端、茹でオクタになってしまったパーヤを見て、やっぱりまだ完全に慣れたわけではないらしいと分かる。でも彼女にしてはとてつもなく大きな一歩だった。
そんなことがあってからよくよく観察してみると、確かにパーヤは他の人と喋るようにはなってきていた。何ということだろう、男の人を間にすると全く喋れなくなってしまっていたパーヤが会話できるようになってきている。
「ものすごい進歩ですね」
「ずっと克服したいとは思っておりましたので……」
耳の先まで真っ赤にはなっていたが、彼女は着実に進歩していた。
またある日、真夜中にたたき起こされた。何事かと慌てて出て行くと、復興街に住み着いたハイリア人の若夫婦の奥様が産気づいたのだとか。どうすればよいのかと問われ、まさか産婆の知識は無かったので慌ててシーカーストーンで、カカリコ村までインパを呼びに行くという騒ぎがあった。
もう少し出産までは日数があると思っていただけに、冷や汗をかいた事件だったが無事にかわいらしい女の子が生まれた。この街で初めての子供だった。
さらに別の日にはテバさんが、奥様のサキさんと息子のチューリを連れて遊びに来てくれた。チューリはあれからたくさん弓の練習をしたのだと言って、ケモノ肉をたくさん持ってきてくれた。
それを見たリンクが対抗心を燃やし、弓を持って出かけたのは言うまでもない。当然の顔をして、チューリと同じかそれ以上にケモノ肉を持ち帰ってきたので、その日は大勢の人を呼んでのささやかな宴会になった。
そんな何でもない日々が流れていく。
確実に時は進む。
日々のわずかな変化に気づくたび、100年前から止まり続けている私の背を誰かが押す。止まっていては、いつかは追いつかれ、追い越されてしまうから。大丈夫だから進めと背を押してくれる手は温かい。
だからある朝、夜が明ける前に、私は静かに城の正門を開いた。
その日を選んだことに特別な理由は無い。ただ、もう一人で行かねばと思った。それだけ。
城の中は不気味なほど静まり返っていた。流石に怨念の気配は無いが、逆にネズミ一匹気配が無いというのも気味が悪い。
でもこれが今のハイラル城。私の知る城だった。
これを跡形もなく壊して美しく作り替えたとしても、私はこの城が栄華を誇り、廃れていったその全てを知っている。その最後の王になる。
「まだ重たいけれど、でも」
座ってみたかつての御父様の玉座は、真っ黒になって崩れかけていた。なんて重たく、冷たく、血なまぐさい。でもこれが私の背負う物。
その思いにとらわれた瞬間に動けなくなった。
座面に根でも生えてしまったかのように項垂れて、私は朝日が差し込んでくるのをただ茫然と見る。もう戻らねば皆が心配すると頭は考えているのだが、体が思うように動かない。
重さに押しつぶされそうになる。
「ああ……」
本当に、なんて愚かな決断の繰り返しでここまでたどり着いてしまったのだろう。死ぬまできっと、私はこうして後悔してばかりなのだわと、ため息を吐いた時だ。
「いた!」
ぱたぱたと走ってくる軽い音がする。
あれほど動かないと思っていた頭がすっと軽くなり、正面を見た。大きな耳をぴんと立てて、リンクが走ってくる。
「姫様!」
「どうしてここが?」
周りに誰もいないせいで、彼は心置きなく腕の中に飛び込んでくる。朝の空気と玉座のせいですっかり冷え切った体がほんわりと温もった。
「姫様の匂いが城の中に続いてたから! 扉が閉じてるから、他のみんなは城じゃないって信じてくれなかったけど、俺は絶対ココだと思った!」
確かに、早起きの子供が迷い込まないようにと、正門を律儀に閉じてから城の本丸まで登ってきた。それなのにリンクが入ってきたということは、この子はどこかよじ登ってきたということだろうか。
よく見たら爪が割れて、ところどころに血が滲んでいる。いつも以上に慌ただしい尻尾には小枝や葉っぱがたくさんついていて、一体どんなけもの道を抜けてここまで来たのかしらと華奢な体をもう一度きつく抱きしめた。
「ごめんなさい、怪我をさせてしまいました」
「大丈夫。それより姫様の匂いが寂しそうだったから、見つけられてよかった」
「心配をかけてしまいましたね」
「うん……、1人でどこか遠くに行っちゃったかと思った」
あながち間違いではないから驚いた。私の膝の上で上機嫌になる麦藁色の小さな頭を撫でる。
そうだ、彼のためにも私は、項垂れている場合ではない。彼が大人になった時、せめて生きやすい世であるようにと願うのはそれだけでいい。そのためならばいくらか頑張れる気がした。
ふと頬が緩む。温かい涙が一筋だけ零れ落ちたのを見て、彼は「どうしたの」と首を傾げた
「あなたが大きくなったら、どんな人になるかしらと思って」
記憶にある彼ぐらい大きくなったら、一体どんな人になるのかしら。
きっと素敵な人になると思うから、いろんな人が放っておかないはず。少し悔しいけど私はその頃にはもうずいぶんと年上だから、静かに見守るしかない。でも感情をごまかせない尻尾と耳だけは、いつまでもそのままでいて欲しい。
色々な思いが浮かんでは消えていった。
でも彼は澄んだ空のような瞳でニっと笑う。
「俺、やっぱり大きくなっても姫様と一緒がいい。姫様のことが一番大事だし、あと黒いのと約束した。今度こそしくじらないって」
きっぱりと言い切った彼だが、おそらく体はまだ10歳にも満たない。だからあと5年もすればまた変わってくるだろう。その時彼がどのような選択をしようとも、ただ見守るだけ。彼を突き放すことも無ければ、私の人生に巻き込むこともない。
ようやく取り方を覚えた距離を、そうやすやすと詰められてなるものかと今度はこちらが意地悪く口角を上げた。
「あなたがそう願うのならば止めませんが、でも他にやりたいことがあるのならば構わないのですよ。……それに、『姫様が一番大事』だと嘘を吹き込まれているかもしれません」
「誰に?」
「私や、パーヤに」
「なんで嘘?」
「一番大事と思わせて置いたら、リンクは私のお世話を一杯してくれるでしょう? 一生、便利な小間使いにされてしまうかもしれませんよ」
この小さな狼少年は存外素直な気性だったので、人が人を騙すということを心得ていなかった。だから今ならまだ、この幼い彼にいくらでも刷り込みが出来てしまう。もちろんそんな悪いことをするつもりもないし、それがどれほど心を蝕む毒になるかは嫌というほど分かったつもり。
でも彼は、きょとんとして首を傾げる。
「いいよ?」
「良くないですよ」
「え、いいよ。俺は姫様のことが大好きだから、一生お世話してあげる」
この人は記憶が無くなってもまた、同じようなことを言うのだなと、いくらか悲しくなりながら両手でほっぺたを挟み込んだ。ぷっと膨れた顔をいつまでも手元に置けるのは夢のようだが、意味をいくらも理解しないまま私の人生に幼い彼を縛り付けるなどできるわけがない。
こんなことなら、嫌いになってもらった方がよほど良い。
でも青い瞳が朝日にキラキラと揺らめく。
「だってさすがに好き嫌いまでは、嘘なんて吹き込めないでしょ?」
唖然と目を見開いた。幼い成りで、一体なんてことを言うのかしら。
じわじわと火照ってくる頬と耳に私が気を取られている隙に彼は立ち上がり、玉座に座ったままの私の上によじ登ってくる。未だにすっぽりと私の腕の中に入り込めるほどの大きさしかないのに、うっすらと筋肉のついた腕が首に巻き付きつける。
そのまま私の耳元に口を寄せた。
「覚悟してて、もし俺に変なことを吹き込んでも、それごと全部姫様のこと食べちゃうからね」
「リンク……」
「だからそんな顔しないでよ。生きてれば、またどこかで会えるって言ったじゃん」
覚えているんだかいないんだか、淡い言葉をかき消すように幼気なキスが頬や髪や耳に降り注ぐ。本人はこれでもたぶん、十分本気のつもり。でも馬宿のハイリア犬に舐められているのとあまり変わりが無くて、くすぐったくて思わず身をよじって笑った。
ところが、あまりにも私が笑うのがお気に召さなかったのか、リンクは一瞬本気でムッとした顔になる。
「姫様」
「なんですか?」
「本当にいつか食べちゃうからね?」
出来るものならしてみなさい。
そう思っていたら、ムッとした顔が近づいてきて唇に噛みつく。でもまだまだ下手くそで、お返しに唇を少しばかり吸ったらびっくりして逃げて行った。熟れたりんごみたいに頬が真っ赤になって、口元を抑えている。その軽い体を抱き上げ、朝日の中に下ろした。
もう十分に勇気はもらえた。帰ろう。
小さな手を握って歩き始めようとしたときだ。リンクが私とは違う方向の壁の方を見るとぎょっとして、耳をぺったんこに伏せた。
「うわっ、いるなら言えよ!」
顔全部、首まで真っ赤になる。下唇を突き出して、鼻息荒く、誰もいない方へ向かって、繋いでいない方の手をブンブンと振り回した。
まるで独り相撲のように見えるが、本人は至って本気だ。尻尾がぶわっと膨れ上がり、不機嫌そうに低い位置で尻尾がゆらゆら揺れる。
「誰と話をしているんです……?」
「え、姫様にも見えないの?」
驚いた顔がこちらを振り仰ぎ、何もない空間と私とを何度か見比べていた。
そして数歩離れた何もない床のあたりを指さす。
「そこにコログ乗っけた黒い狼がいるんだけど……」
「もしかして、黄昏さんですか?」
「……うん。姫様が黄昏さんって呼んでた狼」
荒れ果てた玉座の間で、私の瞳が映すのは自分自身とリンクだけ。でも彼は、確実にそこに何者かを見ていた。
そして慌ててフードを被り直しながらまた声を荒げる。いつも耳が折れるのを嫌って、フードを取りたがる彼にしては珍しいことだった。
「もうっ分かってるってばっ!」
「リンク、どうしたんです?」
私の右手を引いてずんずん歩いて行こうとするので、もう黄昏さんがどこにいるのかもよく分からない。きょろきょろしながら歩いて行くと、ふと温かな硬い毛並みが脛を擦って行った。心なしか、カラコロとコログが呼ぶ音も聞こえたような気がする。
それでようやく『いる』と気が付ける、その程度。
それでもなお荒れた城の中に向かって黄昏さんの名を呼ぼうとしたら、リンクは飛び上がって猛然と私の口を塞ごうと手を伸ばしてきた。
「一体どうしたんです?」
「……一人前なことがしたいんなら、まずは耳と尻尾を隠せるようになれって、アイツうるさいの!」
思わず笑ってしまったが、酷く憮然とした顔が可愛らしい。
「そうですね、あなたが一人前になる日が楽しみです」
「待っててすぐ追い付く、俺は姫様を守る騎士になるんだから」
彼に引かれる右手の甲にはもはや光は無く、封印の力は枯れ果てたらしい。黄昏さんもコログも、もう見ることが叶わない。でもそれは、ようやく人としての時が動き始めた私にとっては、とても道理のように思えた。
こうして私は何もできない無才の姫に戻った。そして彼は剣も記憶も体も失い、無垢な少年の姿に還る。それでももう平気だと思えたのは、明るい毛並みがいつもすぐそばにあったから。
だからこれはきっと、私と彼のやり直しの物語なのだ。
了