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「本当に何でも食べますねぇ……」
建物の影からパーヤの神妙な顔がこちらを見ていた。
確かにお皿代わりのボウルの中にはお肉はもちろん入っていたが、ハイラルバスもりんごもヨロイガニもゴーゴートカゲも入っている。狼なのだからちゃんとお肉をと思ったら、この狼は小腹が空くとすぐに辺りの物を拾って食べてしまった。
だがさすがに、口の周りを蜂蜜でべとべとにして、鼻の上にハチノコを乗せていた時には驚いて声を上げてしまった。思わず「拾い食いはやめなさい!」と怒ったら、シュンと尻尾と耳を垂れて、結局次の日から取ってきたものを律儀にご飯のボウルに自分で入れるようになった。
賢いとは思うものの、悪食一歩手前の健啖家ぶりに彼の面影を見る。
「普通の狼とは少し違うかも、しれません」
「やはりリンク様なのですか?」
「私はそう信じています。……インパには内緒にしていてくださいね」
はい、と静かな声が建物の影に消えていったので、私は目の前で一心不乱にご飯のボウルに鼻面を突っ込む彼の姿に視線を戻す。
私が鉄色の狼に連れられて失踪していたのは、時間にして僅かいっときほどのことだったらしい。どこを探しても居なかった私が、突然門前に現れたことにも驚かれたが、やはり別の狼を連れていたことに誰もが驚愕して距離を置いた。
どこに行っていたか、どう説明したらよいのか分からなかった。誰に説明しても首を傾げられた。
それに連れ帰った狼に向かって追い出した恋人の名を呼ぶのはどうかしている。咄嗟に足元にあった芽吹き始めの木の芽を見て、彼を『息吹』と名付けた。人前では名前を呼ぶのを避け、二人きりの時だけ『リンク』と呼ぶ。
「あなたは喋りませんね……」
黄昏さんや、あの金色の狼のように喋ってくれたのならどれほど心強かったか。
早々と食べ終わった彼はぺろんぺろんと口の周りを舐めまわし、満足げにあくびをする。長い毛足の胸に付いた食べかすを取ってあげると、まるで犬のように尻尾を振って見せた。
「いいえ。一緒にいてくれるだけでも感謝せねばなりませんね。今日もお仕事頑張りましょう」
ぽんぽんと太ももを叩く合図で、彼は私にぴったりとついてきた。どこへでも付いてきて見張りをしてくれる。稀に現れる魔物の残党から町の住民を守ることもあるし、何なら子供の遊び相手をすることもあった。次第に『息吹』という名の狼は復興街の中で犬として扱われるようになり、私の忠犬として街の一員として認められるようになっていった。
夜になると一緒に家に戻ってきてご飯を食べる。連れ帰った当初は家の外に自ら出て行っていたのだが、カツラダさんが廃材で作ってくれた犬小屋が雨漏りしたのを機に夜も家の中に入れるようになった。
「ちょっと待っててくださいね」
夜、髪を拭きながらベッドの脇にちゃんとお座りして待つ彼の頭を撫でた。
夜中も家の中に入れるようになった初めの頃は、どう頑張っても入り口の玄関マットの上から動かなかった。なのに今では申し訳そうな顔はしつつも、毎日ベッドの脇でチラチラとこちらを見ている。
「お待たせですよ」
掛け布団を持ち上げると、大きな図体がぴょこんとベッドに乗ってくる。本当はイヌ科の動物は寝るとき、飼い主とは別にしなければならないらしいと聞いたのはいつだったか。まさか一緒のベッドに寝ているだなんてパーヤしか知らない。
でも温かい毛並みに触れているととても落ち着いたし、何より広すぎるダブルベッドが窮屈になって嬉しかった。彼の大きな頭を太ももに乗せ、寝る前に本を読むのが日課になっている。ときおり指先をたてがみに突っ込んで、暖を取らせてもらうのが最近のお気に入り。
と、その指に何か引っかかるものがある。
「厩で遊んできたの?」
たてがみに絡まった寝藁をぽいと投げ捨てて本を閉じた。明かりを消して横になり、暗闇の中で瞼を閉じる。もう以前のように夜が怖いと思うことはなくなった。
ただ大きく上下する毛皮の向こうに何が詰まっているのか、その皮を脱いでいつ本当の彼が姿を現すのかだけは気がかりだった。
あれからもう2か月。
インパはあれ以来何度か訪れたが『息吹』については一瞥をくれただけで何も言わない。復興は順調に進んでいて、今や小さな盛り場のようなところまでできた。遠くウオトリー村からも、噂話を聞きつけた行商が訪ねてきたこともあった。働き口を求めてハイラル各地から、特に若い人がこぞって城下町へと入ってくるようになった。
しかし息吹は、リンクは狼のまま一言も喋らなかった。
「あなたの声が聞きたいです……」
クゥンと寝言みたいな寝息が聞こえた。寝ぼけながらも返事をするのがいじらしい。
でも私よりも先に寝るなんて番犬としてどうなの?と思って、毛におおわれた分厚い耳を摘まんだ。ピピンと耳だけ器用に動かして私の指を弾き、眠たそうな青い瞳がじっとこちらを見ている。でもその瞳からは何も読み取れなかった。
「どうしたらいいのか、あなたは私にちゃんと自分で考えるように言っているのかしら」
はた目には順風満帆に見える私の生活は、一度夜になると涙は流さないまでも寂しい焦燥に未だ浸っている。ベッドが広すぎることも、1人でいることの寂しさも、封印の力以外持たない私の警護役も、全てこの青い瞳の狼が全て解決してくれた。
ただ一つ、声が聴きたい。彼と話をしたい。
といって、どんな話をしようかと考えると、私はただ彼に謝りたいだけだった。謝って、それで許してほしいだけ。彼ならばきっと苦笑いして許してくれる気がして、その可能性に縋ろうとする自分の醜さに、ため息どころか反吐が出る。
「自分でも傲慢だと思いますから、あなたはもうしばらく黙っていた方がよいかもしれませんね」
言ってみたものの、すでにリンクは寝ていて聞いていなかった。
誰かのために見返りを求めずに働くこと、それが今自分に課せられた修行なのだと思う。罰だとは思いたくない。
正味、玉座などは民の下僕の座でしかない。民のために働き、民のために身を削り、よい王ほど早死にすると言われている。
封印の力を得た王家の姫ではあるが、私はまだ玉座に足る器とは言い難いだろう。
だからもし、彼が私の前に人として戻ってくることがあれば、私が本当に悔い改めた時だと思うようにしている。そう思えば、大変な復興作業も、言い知れない寂しさにも、耐えるが出来た。
そんな気持ちが一進一退していた頃、タバンタから急報があった。
ヴァ・メドーが急に動き出し、近づくリト族に攻撃を仕掛け始めたというのだ。
「神獣が? まさかそんな。ゾーラの里でヴァ・ルッタには内部まで入りましたが、正常でしたよ?」
「だが事実だ。俺ともう一人のリト族で戦いを挑んだが、囮役がやられたら最後、バリアを破るための矢を射込む隙が完全に無くなった。俺一人でもどうにかしたかったが、族長が『ハイリア王家の姫様』とやらにお知恵を借りて来いだとさ」
テバと名乗った白いリト族の男は、ぎろりと私の顔を覗き込んだ。まるで値踏みされているかのようなその視線は覚えがある。これは、私が王家の姫であることを信じていない者の目だ。
100年前の王家の姫を騙る小娘の顔を人目でも見て笑ってやろうという輩は、当然のようにいた。むしろ私があの当時のゼルダだと分かる者など、シーカー族でもインパプルアロベリーの三人だけだったし、ゾーラ族に至っては面識があるはずなのに記憶があやふやな者も多い。
ハイリア人、ゴロン族、リト族、ゲルド族にはもはや100年前を実際に知る者はおらず、確かに私を本物かどうかいぶかしむ人ばかり。外つ国から戻ってきた貴族の末裔たちがすんなり信じた方が奇跡だった。
「テバさんとおっしゃいましたか。メドーの状況について教えていただければ、鎮める方法を考えることはもちろん致します。でも先に断っておきます、私は王家の姫だからメドーを鎮めるわけではありません」
「ほう? では何だという」
「それが私の務めだからです」
すぐさま立ち上がり、パーヤに旅支度を頼む。テバさんは面食らった顔をしていた。
だが彼の様子を見るに、恐らくリトの村はいま相当苦しい状況にある。そうでなければ誇り高いリトの戦士が自ら、他所の見知らぬ他人に知恵を頼るなどということはしないはずだ。
族長の判断に渋々従ったとはいえ、相当事態が切迫したからここへ来たに違いない。
「できれば行く道すがらでメドーの様子を聞きたいのですが。先に飛んで帰られますか、それとも同道してお話を聞かせていただけますか」
ずっと面食らった顔をしていたテバさんが、表情を戻してククッと笑う。
「同道させていただこう。メドーの状況を道々話した方が、手間が省けていい」
「では一時ほどお待ちください。準備を整えて、話をつけてまいります」
「分かった。よろしく頼む」
踵を返し、荷造りを始めていたパーヤの元へ急ぐ。
玄関マットの上にはリンクが伏せて座っていて、私の動きを視線だけで追っていた。その頭を撫でる。
「さぁ、あなたも準備です息吹」
「おいおい、そのワン公も一緒に連れていくつもりか?」
迷惑そうに顔をしかめたテバさんに向かって、リンクは不満げに小さくワフッと吠える。
「私の警護をしてくれる者ですので、一緒にご厄介になります。あと彼は狼ですよ」
「はぁ……、なんかまぁ王家の姫君ってのは変わったお方だと話には聞いていただが、こりゃいよいよ本物かもな」
「あら、どなたに聞いたのです?」
そんなことを言う痴れ者はどこの誰かしらと少しだけ興味が湧いた。でもガリガリと頭を掻くテバさんの口からは飛び出したのは思わぬ名だった。
「リトの英傑、リーバル様さ」
「え……リーバルが?」
「リーバル様の日記が先日見つかって、その中に100年前の姫君と会話した内容が残されていたんだ。どうにもハイリア人ってのは自分勝手な奴らばかりだと思っていたが、その姫君は『この大地に住む生きとし生けるものすべてを厄災の間の手から守らねばなりません……』とか恥ずかしいことを言っていたらしくてね。今のアンタを見ていたら、確かにあのゼルダ姫が生きていたらこんな風だろうなぁと……」
いやっと頭を振って、テバさんは「現実的じゃない」と独り言をつぶやく。その後もテバさんはぶつぶつと考え事をしていたので、お邪魔しないようにそっとその場を離れた。
リーバルも、なんてことを日記に書き残してくれたのかしら。出来ることなら、ミファーの魂のようにリーバルにも会って一言文句と、それからごめんなさいとありがとうを言いたい。そんな想像をしていたこの時の私は、メドーがリト族を襲っていることを本当の意味では理解していなかった。
白馬に荷をくくりつけ、テバさんに道案内を頼みリンクを連れてその日のうちに復興街を出る。どれぐらいで戻れるかは分からないので、指示のすべてはサクラダさんとパーヤに託した。
道すがら、テバさんから聞いた話を整理するとこうだ。
数か月前に一度、100年間沈黙を貫いていたメドーが空を飛んで威嚇射撃をしてきたことがあったという。その時は一週間ほどで空を飛ぶのを止めて、大人しくリトの村がある巨大な岩の上に鎮座したらしい。
ところが再びメドーが動き出したのが一か月ほど前。今度はいくら待っても岩の上に戻らず、ずっと村の周りを旋回し続けている。これではリト族が空を飛ぶこともできないと、テバさんと仲間のもう一人のハーツさんという方が戦いを挑んだが惨敗。
ちょうどその頃、村を訪れていた行商人から『ハイラル王家の姫』の話を聞いたという。昔滅びた王家に仕えていたシーカー族を従え、別の国に逃げていたハイリア人たちをまとめ、ありとあらゆる知恵でハイラル城下町を復興しているという謎の姫君。もしそんな人ならば、あの神獣を鎮める方法を知っているかもしれない。
族長に説得される形で、テバさんは私の元へと仕方がなくやってきたということだった。
「まぁでもあんたの人柄を見て最終的には決めようと思った。正直言うと100年前の姫様だって言われたって、おいそれと信じることはできない。だがあんたの顔を見たら、信じてもいいって気がしたんだ」
「それは誉め言葉として受け取っていただいてもよろしいのですか」
「本当にリーバル様の日記の通りの人だったからな。メドーを鎮めるのが務めだと迷いなく言い切れるのは俺たちリト族の戦士か、あるいは100年前の英傑のどなたかしかいないだろう」
確かに、彼の言う通り。
もしこれがメドーでなかったとしても、ヴァ・ナボリスでもヴァ・ルーダニアでも、私は即座に現場へ急行した。神獣の暴走を止められるのが、今や私ぐらいしかいないと分かっているから。
自分が王家の姫という肩書だけであれば、一時はお父様に遺物の研究を止められたように、近づく理由は特には無いのだ。だが私は仮にも英傑たちの長だった。神獣に何かあれば唯一残った私がどうにかしなくてはならない。
あるいは困っている人を無視することなどできようはずもない。それがハイラルの中で起こっているのならば、どこであろうとも伸ばせば私の手は届く。
白馬を急かし、リンクと一緒に南タバンタ雪原を駆ける。シーカーストーンは行ったことがある祠なら飛べるような機能があったが、リンクはハイラル平原とカカリコ村の周辺以外、ほとんど訪れたことが無いのかワープ地点の登録が無かった。
そのためなのか、狼のリンクも走りながら物珍しそうにきょろきょろしている。時々勢いつけて走って行って、マシロバトを咥えて嬉しそうにその日のご飯に持ち歩いていた。
馬を急かして2日目、ようやくリトの馬宿までたどり着く。ホッと一息ついていたらゴウゴウと大気が揺れ、大きな影が地面に落ちた。
「アレだ……」
「あの光の色は、確かに厄災に乗っ取られていますね」
巨大な鳥の形をした構造物が遥か上空を飛ぶ。だが目は禍々しい赤い色に染まり、私の知る正常な青い色とは正反対。当然ともいうべきかとても嫌な気配がした。あの様子では、リーバルの魂がどうなっているかも分からない。
「俺は村の方に一度戻って話をつけてくる。あんたは少し休んでてくれ」
「いえ、しかし!」
メドーはぐるりと旋回し、リト族の村のあるリリトト湖の上空に留まっている。同じ場所を、一定の速度でぐるぐると、ただ回っているだけだった。
テバさんから話を聞いた時、ならばバリアを壊すことだけならば地上からでもなんとか可能だと思った。そのためにはもちろんリト族の協力が不可欠、ならばちゃんとお願いをしに行かなければ。
ところがテバさんは私の白馬を勝手に馬宿に預けてしまう。
「ゼルダさんに倒れられちゃ困るんだ。だから準備はこちらに任せて、少しでもいいから休んでおけ」
「そんなに疲れているように見えますか?」
「うちのサキにバレたら、どんな無理をさせたのか俺が怒られるぐらいにはな。おいワン公、お前も主人がちゃんと休むようにしっかり見張っておくんだぞ」
犬ではなくて狼ですと、言い切る前にテバさんは馬宿から飛び出して行った。
「そんなに疲れているとは思えないのですが……、仕方がありません、少し眠りましょう。一時間ほどで起こしてもらえますかリンク」
するりと頭を撫でると、リンクは大きく頷く。やはり人の言葉を解しているようではあるのだ。
馬宿のお世辞にも柔らかいとは言い難いベッドに倒れ伏し、でも少し寝たらすぐにでも作戦のための準備を始めようとぼんやりした頭で考えた。
結局、メドーのバリアを壊す方法として考えているのはこうだ。
同じ場所を同じ速度で旋回しているのならば、バリアを張っている機械部位も毎回同じ場所を通る。ならば上空を通過する時刻と風の向きを計算したうえで、樽バクダンをオクタ風船で宙に浮かせてぶつけてあげればいい。地上からが難しいのなら、空中までリト族の誰かに運んでもらうのでも構わない。
要はバリアを張っている基部に爆薬で衝撃を与えて壊せばいい。それは何もバクダン矢でなくともいいという理屈だ。
どうやらメドーは自分と同じように飛び回るリト族に反応しているようだから、無機物である樽バクダンはおそらく反応しないだろう。よしんば反応して妨害してくるなら、空の樽の方を囮にテバさん自身がバクダン矢を撃ち込めばいいだけの話。
そのためにはメドーの移動経路と速度、それからオクタ風船の上昇速度と風がなるべくない時間帯を前もって調べて計算しなければならない。だがこの計算ばかりは私がするしかないのだ。そういった複雑な数式を操れる者は100年後の今となってはほんの一握りしかいない。そのために来た。
はずなのに。
目が覚めたらとっぷりと日が暮れていた。
「もう! 起こしてって言ったのに!」
少しのつもりでベッドに倒れただけだったはずが、いつの間にかご丁寧に布団までかかっていた。外の暗さを見るに、おそらく一時間どころではない。
ぷりぷりしながら不実な狼を探しに行くと、共用の料理鍋のところで他の旅人が困り顔をしていた。
「息吹……?」
「これあんたの飼い犬かい? 食い物勝手に取って来させるのは便利かもしれないが、こう鍋の周りにバラまかれちゃ困るんだよ。犬に料理番でもさせようってかい、あんた」
慌てて謝罪しながら食材をかき集める。でもリンクは褒めて欲しいと言わんばかりに、フワフワの尻尾を振っていた。こういうところを見ると、無下に叱れなくなってしまうから、本物の犬を飼うのは私には少し難しいかもしれない。
順番を待って鍋に材料を入れてみる。リンクが持ってきてくれたのは極上肉とハイラルバスとポカポカ草の実。料理が苦手で未だにパーヤに頼りっきりの私が適当に調理しても、何とか食べられるものができそうな食材をちゃんと選んでくれたようだ。
慣れない手つきで一口大に切って、見よう見まねで鍋に放り込む。できたのはピリ辛海山焼きという料理だった。初めて口にしたが何とも美味しい。それにポカポカ草の実を使っているから、寒いタバンタでも十分に体が温まる。
そこへバクダン矢の原料と、オクタ風船を荷車に乗せたテバさんが戻ってきた。白い羽色の小さなリトの子もいて、ツンとつり上がった目鼻立ちがテバさんそっくりだった。
「すいません、やはり疲れていたようでぐっすり眠ってしまいました」
「だろうな。俺たちも夜目が効かないからすぐには無理だ。それにオクタ風船がもう少し必要になるはずだから、明日は村総出でヘブラの山ン中に雪オクタ狩りだ」
「大丈夫なんですか?」
「ぼんやりした雪オクタなんざ、子供の弓矢の練習の的さ」
テバさん傍らで彼の息子がフフンと胸を張る。まだ産毛みたいな羽毛が、ふんわりと空気を吸って膨らんだ。
「あなたも、どうか力を貸してくださいね」
「姉ちゃん! ボク、チューリって名前があるんだ」
「チューリですね、どうぞよろしく」
食べかけのさじを置いて手を伸ばすと、チューリは恥ずかしそうに握手してくれた。でも柔らかいそうだ思った羽の内側にはいくつも羽が折れたり禿げたりしている場所があって、彼の手を思い出す。
戦士の手。
まだチューリは見習いかもしれないが、この手はしっかりと弓を引く手だった。
「お、ピリ辛山海焼きか? 珍しいな、この辺りじゃ魚なんてあんまり獲れないのに」
私の食べかけの椀の中を覗き込み、テバさんが目を丸くする。意外な言葉に私も目を丸くした。
「でもこの辺り、湖はたくさんありますよね?」
「湖はあるんだが、ほとんどが絶壁だから魚を上げるのが難しいんだ。だから村では池を作ってマックスサーモンを飼ってる。そうでもなければ、行商人が時々売りに来る干物ぐらいしかないぞ」
「それは知りませんでした」
しげしげと椀の中を覗き込みながら、確かにリンクが獲ってきたハイラルバスがまだ鮮度の良いものだったことを思い出す。いったいどこまで行ってきたのか、寝ている間のことでよく分からないが、もしかしたら彼のことなので何か意図があってこの食材を取ってきたのかもしれない。
テバさんがグイと手を伸ばし、伏せてヤマシカの肉を齧っていたリンクの頭をポンポンと叩く。
「やるなぁワン公。ちゃんと主人のことを気遣えるいい狼じゃないか」
「息吹は私の大事な人なんです。テバさんもチューリも、おかわりがありますから一緒にいかがです?」
「姉ちゃん、ボクも魚食べたい! でもポカポカ草の実は入れないで、辛いから」
「はい分かりました、お椀借りて来るのでちょっと待っててくださいね」
テバさんに言われた通り、翌日からの作戦に備えてその夜は馬宿でたっぷりと寝かせてもらった。もちろん家の広いベッドのようにリンクと一緒に寝られないのだけが少し寂しい。
でもリンクは夜も更けた時間になっても馬宿の戸口に座って、ずっと空を旋回するメドーを見上げていた。彼にも何か感じるところがあるのかもしれない。
よく朝、テバさんの奥様のサキさんがいらして、私の姿を見るなりテバさんに怒った。
「もう少し温かい恰好を準備してあげなさいな!」
「そうは言ってもだな……」
「もう本当に気遣いが出来ない人なんだから! 私がチュン天堂にいって女性用のリトの服を一式融通していただきますから」
確かに、テバさんと視線で頷き合う。私の疲労困憊した姿を見られたら、テバさんがこの倍は怒られていただろう。お代は後で払いますと断って、もこもこふわふわのリトの服を着込んだ。
そうして準備し終わった後、馬宿から少し北に行ったところ、リリトト湖とヘブラ湖の間辺りで、バクダン樽にオクタ風船をくくりつけて浮遊させる実験を始める。実際に樽にオクタ風船をくっつけて空に浮かせ、風向と風速を鑑みた浮かせるタイミングを計り、それでも何度も失敗してようやく1つ目のバリアを壊したのはさらに翌日になってからだった。
そこから2つ3つと壊し、さすがに4つ目を壊す頃にはメドーの方も気が付いたのかバクダン樽の方を狙ってくるようになった。こうなればもうテバさんの独壇場だ。無数に浮かせた空の囮の樽の合間を縫って飛び、最後の1か所を見事にバクダン矢で撃ち抜く。覆っていたバリアが無くなり、メドーの全貌が見えた。
「やったぁ、さすが父ちゃん! そのままやっつけちゃえ!」
チューリがぶんぶんと腕を回すとそれに応じたのか、降りてくるはずだったテバがもう一度大きく旋回した。見る間にメドーのお腹の下へと入り込む。一体何をするのか、かたずを飲んで見守っていると、未だ囮として機能していた樽の間からメドーの翼を下からバクダン矢を射った。
ドォンドォンと2つ、大きな爆発音がして、メドーが傾く。右の翼からもうもうと黒い煙が立ち上っている。テバさんの放った矢は、見事にメドーのプロペラを撃ち抜いていた。
「メドーが……落ちてきます!!」
「父ちゃーん!」
喜んで飛び跳ねるチューリを慌てて抱き上げ、思わず頭をかばう。しかしメドーはもちろん私たちの真上なんかあっという間に飛び越え、北東の方角へ。凍てつくヘブラ湖を遥かに飛び越え、山の向こう側でドォンと大きな音と雪煙が上がった。
とっさにシーカーストーンを確認する。ヘブラ湖の北東、ヘブラ水源とヘブラ川を飛び越え、メドーが落ちたのは恐らくはコクッピ雪原だろう。
「ようやく大人しくなったか、デカブツめ」
「本当に射落としてしまいましたね……流石ですテバさん」
「ゼルダさんの作戦があってのことだ、礼を言うのはこっちの方さ。だが本番はこっからだ。あいつの中身を調べないことには、どうして動いたのかは分からないんだろ?」
「はい。落ちた場所もおおよそ見当がつきました、行きましょう!」
白馬を駆り、ヘブラ山の麓にあるコクッピ雪原へと急行する。流石にプロペラを2基損傷すれば動けなくなるかと思えば、メドーは可動部からバチバチと青白い火花を飛び散らせてまだ藻掻いていた。古代シーカー族の叡智が詰まった神獣は、この程度では完全な駆動停止とまではいかないようだ。
万全の準備をもう一度確認して走り出す。当然のようにリンクもついてきた。
「メドーが飛び立つ前にどうにかしましょう。援護をよろしくおねがいします!」
「そのワン公だけじゃさすがに心もとないからな、任せておけ」
傾いて地面を擦る尾羽に飛び乗り、シーカーストーンで入口をこじ開ける。瞬間ぴくんとリンクの耳が上を向き、辺りを見回していた。
内部の様子はヴァ・ルッタとはまるで違った。酷く空気が淀んでいるのだ。小型のガーディアンが徘徊し、忌まわしいガノンの怨念が小さく飛び散ったものが目を見開いて襲って来る。
テバさんが矢を番えて小型ガーディアンと対峙する後ろで、私はぎゅっと右手を握り込んだ。
そこに力の源がある。
それはガノン本体ですら一息に駆逐するほどの威力があった力だ。一度念じればメドーに憑りついているガノンの残滓ぐらい、どうということはない。
はずなのに。
「どうして……?」
「おい! ゼルダさんよ、どうした。早く行くぞ」
気が付けば、テバさんはとうの昔に小型のガーディアンを片付けて、飛び石状になった足場の向こう側から手招きをしていた。私も慌てて私も石を伝って向こう側へ渡る。奥には勇導石があるのはもちろん覚えていた。
「奥の勇導石にシーカーストーンをかざせばメドー全体を示す地図が手に入ります。そうしたら何かが分かると思うのですが」
「こいつの内部構造を知っているってことは、やっぱりあんたは100年前のお姫様なんだろうな。まぁ信じているのは俺ばっかりだろうが」
「リト族の方にとって100年は軽く三世代分ですから、私を覚えていらっしゃる方はもう生きてはおられないでしょう。偽物か子孫と言われても仕方のないことです」
でも力を見せれば、ガノンを封じた力さえ使えれば恐らく信じてもらえるはずだし、事のすべては解決するはず。なのに、なぜだか力が淡い。
全く感じないわけではないのだが、とてつもなくか細いのだ。まるでワイン樽のコックを目一杯開いているのに、中からは滴る程度にしかワインが出てこないような、そんな感覚。決して無い訳ではない、だがとても少ない。
まさかと首を傾げていると、私の脇で同じようにリンクも首を傾げていた。何が起こっているのかよく分からないまま、シーカーストーンで閲覧が可能になったメドー全体の地図を覗き見る。
オレンジ色に光る灯りが5つあって、確かそれぞれの場所には制御端末があったと記憶している。なるほど、この五か所へ行って制御端末を起動しろということかもしれない。
「まずはこの五か所、光っている場所へ行きましょう。おそらくこのメドーを操っている者につながるはずです」
とは言ったものの、正直言うと私はルッタの時と同じように、実はリーバルの魂に会えると思っていた。乗っ取られている色ではあるが、もうガノン自体は封じている。だからリーバルが困り顔で出迎えて、また嫌味の一つでも言いながら内部を導いてくれると思っていたのだ。
しかし予想以上に内部は荒れていて、これではリーバルの魂も思うようには動けないのかもしれない。それにしたって声ぐらい聞こえてもよさそうなはずなのに、あの優しさをわざと隠した声は欠片も聞こえなかった。
仕方がないので独断で私たちは内部を移動し、一つ一つギミックをクリアしながら端末を起動していく。面白いことに、一つ端末を起動させるたびにリンクがビクッと耳を立てて辺りを警戒する。
それもそのはずで、内部を移動していると時々、プロペラや駆動系の部位が雪や岩を砕く音がして、メドーが傾いくことがあった。まだ飛び立つ機会を伺っている。早く全てを制圧したいと焦る手が汗で滑る。
そんな私の焦りとは裏腹に、内部には多くのガノンの怨念や操られた小型ガーディアンがいた。一向に封印の力が溢れ出る気配のない私は、テバさんとリンクが全てをお任せするしかない。
「さてこれで5つ目だが」
「はい……えっと、この大きな目印は中央端末の位置ですね」
「あの背中に見えていた炉か。次はそこへ向かえと?」
「そのようです」
それ以外にヒントはない。
そこへ行けばもしかしたらリーバルの魂に会えるのかもしれないし、あるいはこのメドーを動かしている原因がわかるのかもしれない。行くしかない。
でも私の力は相変わらず染み出してくる程度の光しかなくて、本当に空のワイン樽にでもなってしまったかのよう。叩けばまた空虚な音しか鳴らないのが怖くて、黙ってテバさんの後ろに付いて行った。まるで100年前、退魔の剣を佩いたリンクの背中を羨ましく目を背けていた時のように、虚しい。
魔物と戦闘するにも、最近は全てリンクがどうにかしてくれていた。そうでなくとも厄災を封じてから魔物は各段に減っているので、平原のど真ん中にあるハイラル城下町付近で遭遇することはまずない。赤い月も昇る夜はなくなり、魔物が復活することも無くなった。だから封印の力などほとんど使う機会が無かったとも言える。
とはいえ。私の力はまさかもう潰えてしまったのだろうか?
その可能性にたどり着いてしまった自分が恐ろしくて、ぎゅっと右手を握り込む。
「どうしたんだ、顔色が悪いぞ。手が痛むのか?」
「いえ……あの、もしかしたら私、戦いにはまったく役に立たないかもしれません」
「それはそうだろう、ゼルダさんが戦えるとは思っていない。ここから先も俺とワン公に任せておけばいい」
「……はい、お願いします」
本当に、お願い。
それで済むような程度の物であって欲しい。私の力が必要な相手など、もうこの世にはいないはずなのだ。
だってリンクと私で厄災は封じた。
ミファーも、厄災が生み出したというカースガノンという強大な魔物は、ガノン本体と共に気配が消えたと言っていた。きっとガノンを倒した時にリンクが一緒に倒してくれたはずだ。
なのにこの胸騒ぎは一体何だろう。
「ここだな。さて、鬼が出るか蛇が出るか」
そんなものは出ない、出るはずがない。だってリンクが倒してくれたはずだから!
コトリと硬い音を立てて、中央端末にシーカーストーンが触れた。
その瞬間、メドーが大きく鳴いて、前進し始める。
コクッピ雪原の北側の緩い雪の斜面をまるで滑走路のように、メドーは持てる推進力のすべてを使って前進し始めた。両翼を擦りながら地吹雪を起こす速度に、思わず私もテバさんもその場にしゃがみこむ。
慌ててシーカーストーンで地図を見ると、コクッピ雪原の北側は崖。その先は南タバンタ雪原へと真っ逆さまに落ちる。
いや、落ちるのは翼を持たないモノだけだ。この勢い、恐らくメドーは飛ぶ。飛んで私たちから逃げるつもりだ。無防備な背に私たちが登る瞬間を、虎視眈々と待っていたのだ。
「メドーは私たちを振り落とすつもりです!」
振り落とされてなるものかと苔むしたメドーの背に爪を立てた。しかしテバさんは苦笑いをして首を横に振る。
「いいや、リトの英傑を殺した奴が、そんなみみっちいことをすると思うか?」
「え……」
「逆さ。俺たちが逃げられないように、特にあんたが逃げられないように、このデカブツは空へ行くつもりなんだ。……クソっ! 捕らえられたのはこっちだって言いたいのか!」
言っている傍から、加速度的に増した振動がフっとなくなる瞬間が来る。圧倒的な浮遊感。メドーの巨体が離陸した。
それと同時に、リンクの背が逆立つ。
「……まさか、そんな」
溢れ出てくる赤黒い怨念には覚えがあった。
私と100年間競り合い続けてきた魔物、ガノン。もちろん本体とは比べようにならないほど気配は小さい。
でも私にはもう、それすら封じる力が無かった。
あれほど輝いていたはずの右手が色あせて見える。
「どうして、カースガノンがまだ生きているの……!?」
急上昇し始めたメドーがまた鳴いた。まるでリーバルが悲鳴だ。
ぎゅるぎゅると逆巻く風の中に、黒い面に単眼の魔物が現れる。赤い髪を振り乱し、まるで弔い合戦でも始めるかのように私を睨んでいた。