花守りとオオカミナスビ - 15/18

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 未だ瓦礫の残る灰色の城下町の一角だけ、赤や青の建物が立ち並び華やかになった。そのうちの一軒、そのうちの一つが私の仮住まいとなった。正確には私と、私の世話をしてくれるパーヤが寝起きする住宅だ。

 しかしサクラダさんが準備してくれていた2人分の家具は、明らかにパーヤのためのものではない。ベッドもあからさまにダブルサイズだった。あとからパーヤのベッドを入れてもらう羽目になった。

 

「ゼルダ様なら絶対に彼と一緒だと思ったのよ」

 

 酷く残念そうにしていたサクラダさんの顔を、まともに見ることが出来なかった。足早に荷物を運び込み、これ以上は触れて欲しく無くて背中で会話をする。

 

「あの人には出て行っていただいたんです」

「人生いろいろあるものね」

 

 皺ひとつない真新しいベッドに腰かけて、サクラダさんが私たちのためにと準備してくれていた室内を見回す。作り付けの棚は隙間だらけで、階段下のスペースは物置状態。リビングを照らす照明も、二人掛けのテーブルも、果ては表札さえも、私だけでは余りある。温かかったはずの室内は全く気の休まらない寒々しい空間となった。

 それでも何とかやっていけたのはパーヤが居てくれたことと、仕事が山積していたせいだろう。100年来の瓦礫をどかし、残骸となったガーディアンを運び出し、使えそうな材を見繕う。木材はほとんど駄目になっていたが、石材は思ったよりもまだ使えそうなものが多かった。

 帰属を許した者たちは殊の外よく働いた。働いた分だけ身分が確保されるからこそのことだとは分かっていたが、それでも口だけ出して手を出さないよりは余程いい。おそらく外つ国でもそれなりに苦労をしてきたのだろう。パーヤ以外にも手足となって動いてくれそうな若者が何人か見つかったのは収穫だった。

 そんな風に前向きに考えられる昼間はいい。

 夜が辛い。

 ただでさえ広いベッドに1人で体を横たえる。サクラダさんは作り直しを提案してくれたが、そうでなくても多くの仕事を任せているので丁重にお断りをした。

 

「リンク、大丈夫でしょうか」

 

 あの日、彼が雨に濡れながら道端に転がっていたのを見た者はいたが、村から出て行ったところを見た者はいない。なにより彼の痕跡は女神像の周りで消えていた。

 草をむしったともがき苦しんだ痕跡。それ以外には何もなく、シーカー族の情報網にすら彼の消息は捕らえられなかった。

 コログも黄昏さんも全く姿を現さなくなり、生き死にさえ確かめる術がない。

 

「大丈夫……たぶん、大丈夫のはずです」

 

 私の勇者は強い人だから。きっと大丈夫。手放してこそ生きる人であろうと思うように努める。

 それでも枕を濡らす夜が続いた。自ら吐いた言葉の責任とは思いつつ、いつになったら心の穴が塞がるのか。以前はリンクと離れるのが嫌で朝が来るのが嫌だったはずなのに、今度は早く夜が明けて欲しいと願い、夜毎に眠れなくなっていく。

 そんな寝不足のある日、朝一番にパーヤがにこにこと一通の手紙を私に差し出した。

 

「おばあさまがこちらにいらっしゃるそうです」

「インパがここへ?」

「ずっと手紙でのやり取りばかりでしたから、姫様のお顔を見たくなったんじゃないでしょうか」

 

 いそいそと迎えの支度をするパーヤを傍目に、私はしばらく考え込んでしまった。

 インパはカカリコ村の長老、めったなことでは村を空けることはない。しかもゲルドの一件以来、イーガ団のやり方を替え、私を直に標的にするのではなく、元同族のシーカー族に手を出すようになった。そんなことをしても何にもならないというのに、嫌がらせのように矢が射込まれているらしい。

 そんな中、あのインパが私の顔見たさばかりで城下町へ来るだろうか。

 しかし文面には城下町の復興作業に当たる若いシーカー族たちの様子を見に行きたいとだけ書かれていた。生真面目な字は相変わらずで、余計なことは書かれていないので情報が読み取れない。

 

「インパと少し話ができればよいのですが……」

 

 なんとはなしに呟いた言葉に、驚いた顔をしていたのはパーヤだった。

 

「そんなの当たり前の事です姫様。明後日の午後にもおばあさまはいらっしゃるとのことですから、明後日の午後からお仕事はぜひお休みになさってください」

「しかし皆が作業をしているときに休むのは気が引けます」

「でしたら姫様は外からのお客様の接待ということにしておきますから、少し体も心も休まれてはいかがですか」

 

 思わぬ言葉に、目の前のアーモンド色の瞳が100年前の執政補佐官と重なった。インパも用事が立て込んで私が疲弊していると、見計らったかのように休みをわざと作ろうとしてくれた。

 当時の私はそれどころではなかったので、悪いとは思いながらもインパが提案してくれた休息はことごとく跳ね除けていた。でもあれが彼女なりの私への気遣いだったのだと今なら分かる。

 祖母だけではなく孫の方にまで気遣われてしまうとは、なんとも情けない限り。

 

「そうですね、そのようにほかの者には伝えましょう。大丈夫です、自分で言いますからパーヤは無理しなくて大丈夫ですよ」

「……あ、いえ、申し訳ありません」

「いいのです。人には得手不得手というものがありますから。パーヤには感謝してもしきれませんね」

 

 いまだ作業をする男性たちに慣れぬパーヤは、主に煮炊きや洗濯などを担当していた。特に大柄で声の大きいゴロン族や苦手なようで、顔をこわばらせては最低限の会話で用事が済むと脱兎のごとく逃げてしまう。

 その姿が逆にかわいらしいと、帰属したハイリア人たちからは陰で人気になっていることは本人にはもちろん秘密。でもいつかパーヤにはいい人を見つけて幸せになってほしいと、若かりしインパの姿を重ねては願ってしまうのは私のエゴかもしれない。

 そんなことを考えながらインパが訪ねてくるまで、今の私ならば彼女にどう応えられるかと考えていた。インパが私にひどく情をかけてくれる根っこには、刷り込まれたシーカー族としての使命のほかにも、100年の時を経るほど積年の執着のようなものがあるように思えた。

 一言で表すのなら、『姫様にはこのインパがおそばに居らねばならぬ』というようなものが透けて見える。どうしたらインパに安心してもらえるのか答えが出ぬまま、久しぶりに会った老いた執政補佐官の手を取った。

 

「息災で何よりです姫様」

「インパも元気そうで安心しました。遠かったでしょう、復興の具合を見に行くのは一息ついてからにしましょう」

 

 しわくちゃの手を握りしめ、家の中に案内する。一目見てインパはサクラダさんのかわいらしい建物を気に入ってくれた。この家々が軒を連ねた新しい城下町の姿を見たいと言ってくれた。

突いて固めただけの道も立派だと褒めてくれて、ただ惜しむらくは城がそのままであることを嘆いていた。まるで祖母のようで、でも彼女はパーヤの祖母であり、私としては盟友であるはずの人。おそらく互いに互いの認識がずれている。

私はきっと一人前になったと認めて欲しい。だがインパは私を孫同然に可愛がっている。100年の間に生まれた認識の差異は、これ以上大きくなることはあっても縮まることはないだろう。そういうものだと思って付き合っていくしかない。

 

「姫様、少しパーヤと話をして参ります」

「では私は家に入って待っていますね」

 

 一通り見て回ったあと、インパはしゃっきりと一礼してから裏手でまだ作業をしている孫娘のところへ行った。私とばかり話をしていて本当の孫娘とはほとんど話をしてもいない。確かに積もる話もあるだろう。

 室内に戻り、冷めたお茶を飲みながら、ホウとため息をつく。

 インパには本当に世話になりっぱなしだった。どうにかして報いたいと思っても、100年分も上手な彼女にはどうしても世話になってしまう。

 

「せめてインパへは恩を返したいのですが……」

 

 リンクはもはや、いないのだし。

 ふわりと沸き立った気持ちがチクリと痛む。普段、意識して蓋を閉めている悲しみが、時折こうして隙間から顔をのぞかせる。

 痛みより早く口の中に広がった苦みに顔をしかめた。

 

「それで、奴はここには現れてはおらぬのじゃな?」

 

 痛みと苦みに冴えた頭に、さらにピリリと神経質な声が聞こえた。

 

「はいおばあさま、リンク様はここへは姿を見せておりません」

「ならばよいが、最近便りが少ない。もう少しマメに報告を入れよ。あやつは並大抵のことではくたばらんからな」

「申し訳ありません……」

 

 声は、確かにインパとパーヤのもの。

 サクラダ前のめり工法の意外な弱点は、実は音が漏れやすいことだった。ということはもちろん外側の音も聞こえやすい。資材を簡単に運べるようにする関係上、壁がどうしても薄くなりがちで、喧嘩などしようものならばご近所に声は筒抜けになってしまう。

 サクラダさんもこればかりは頭を痛めて、城下町に作る家はもう少し改良すべきだと言っていた。

 

「元貴族たちの方はどうなっておる。噂話で操作できる程度の者しかおらぬか」

「はい……でもパーヤはこんなことはしたくはありません、おばあさま」

 

 なにを、話しているのだろう。嫌な予感がして息を殺して窓枠の下にへばりつく。

 薄い壁の向こう側はちょうど洗濯物を干すスペースになっていて、皆の作業着を洗濯していたパーヤと、少し話してくると言ったインパがなおも会話を続けている。

 

「すべては姫様のためじゃ。姫様のハイラル王国を復興させるという大願を成就させるには、ただ闇雲にひた走ればよいというものではない。パーヤもそれは分かっておろう」

「それは分かっております。でも……」

「姫様には明るい未来を、前を向いていただきたい。ならば姫様の障害になるものを排除するのは我らシーカー族の務め。そしてそなたは次の族長となるものぞ? 躊躇してなんとする」

「それは重々承知しております」

 

 これほど祖母に渋い返答をするパーヤは、実のところ初めてだった。

 なんでも「はい」と素直に答え、祖母のインパの言うことには従順に従う。それがパーヤの姿だと思っていた。

 しかし、今こうして姿が見えもしないにもかかわらず、パーヤの渋く困り果てた顔が思い浮かぶ。唇をきゅっと噛んで、うつ向いているのが手に取るように分かった。

 なぜ彼女が、よく言えば素直、悪く言えば従順なパーヤがこれほどまでに渋るのか。そもそも一体何の話をしているのだろうかと、かたずを飲んで2人の会話を盗み聞きしていた。

 

「でも、いかにおばあさまとはいえ、リンク様の秘密を元貴族の方々に漏洩して追い出そうとするのは、いかがかと思います」

「パーヤ!」

「だっておばあさまだって姫様とリンク様の仲睦まじいお姿を見ていたでしょう? 私にはよき人を探せというのに、どうして姫様には同じことを言わず、あまつさえ姫様の思い人を姫様ご自身に追い出させようなどとなさったのですかっ」

 

 パーヤの言葉をすべて聞き終わる前に、私は窓を開いた。

 新築の家の窓は音もなく開き、外気を取り入れて長い髪を揺らす。

 一瞬だけ唖然としたインパの顔がこちらを見て、でもすぐにいつもの顔に戻った。唖然とし続けたのはこちらの方だ。頭の中が嫌な音を立ててぐちゃぐちゃにこんがらがり、息をするのでいっぱいいっぱいになる。

 

「姫様……」

「インパ、今の話は本当ですか」

 

 リンクを追い出したとき、私がすがった小さな影は尚も固くその場から動こうとはしなかった。100年の時を経てまるで巌にでもなってしまったかのように、かつての執政補佐官の表情は動かなかった。

 

「リンクを私に追い出させるために、画策したのですか」

「はい、恐れながら」

「なぜそんなことを……」

 

 私にとってインパとリンクがそれぞれ大事な人であったということは、100年前には彼と彼女は互いに協力し合っていた間柄だったことと同義だった。二人がいさかいを起こしているところは見たことがなかったし、口数の少ないリンクが会話をする珍しい相手がインパでもあった。

 決して二人は仲互いをするような間柄でも、互いに蹴落として相手の失脚を狙うような関係でもない。

 ただ二人は違う形で私を支えてくれている、数少ない私の大事な人だった。

 ……はずだ。

 ところが老いたインパはまるで違う顔をしている。

 

「情に流されては王家の復興など夢のまた夢。姫様ならばお分かりだったはずです、あやつを隣に置き続けては姫様の代でハイラル王家は本当に途絶えてしまう」

「そんなこと!」

 

 分かっている。だから他に手を尽くして、どうにかしようと考えていたはずなのに。

 なのに根っこからひっくり返して崩してしまった。それが手っ取り早いのは分かっていて、私自身がそれを決断できないのを知っていて。

 言葉にならない怒りがまず浮かぶ。どうしてそんなことをしたのか、私の気持ちを慮ることはないのか、相談するぐらいの事はしてくれてもいいのに、なぜこんな余計なことをしてくれたのかと、どろどろに溶けた怒りが頭の中でマグマのように沸騰した。

 ところがそれらが口をついて噴き出す前に、中途半端に理解の早い頭が己に冷静になるよう語り掛けてくる。インパがどうしてこんなことをしたのか、彼女だってまさか怒らせるためにこんなことをしているわけではない。

 どうにか言葉を繋がなければと、喉の奥から声を絞り出す。悔やしさのあまり、奥歯がぎりぎりと音を立てた。

 

「私を思ってのことなのですよね、インパは」

「それ以外に何がありましょうや」

 

 一点の曇りもない眼に、逆に言葉が出て来なくなった。

 インパにとって、私の大願成就を成すためならば他は何を切ってもよいのだ。だから今をもってしても恥じることもなく、堂々といその場に立ち、私からの叱責すら甘んじて受けている。

 私が王道を往くには確かにリンクは弊害だった。しかし、だからと言って私自らが簡単に切り捨てられるものではない。切り捨てるには私に何かを決意させる必要があった、だからきっかけを作った。

 他意はない、ただ私を思ってのこと。

 インパは私にできない決断を促すだけの材料を揃えたに過ぎない。

 

「でもそれはインパ、余計なお世話です」

「どのように思われたとしても、曲げるつもりはございませぬぞ」

「おばあさま!」

「パーヤも黙っておれ。わしの願いはただ一つ、姫様がこの国の女王として再びハイラルを照らしてくださることじゃ!」

 

 それがどれほどの強い願いなのか、私には推し量ることができなかった。

 一滴の血のつながりもないただの赤の他人なのに、100年間も待っていてくれた人だ。尋常ではない彼女の気持ちを無下にできるわけがない。しかしかけられる情の重さに、私自身はもはや耐えられる気がしない。

 ばたんと窓を閉じ、広すぎるダブルベッドに駆け込んで布団をかぶった。

 すすり泣く声が外に漏れないように必死に体を丸め、慌てた軽い足音が戸口から入ってくるのに背を向ける。

 

「姫様、申し訳ありません姫様! どうかパーヤを罰してくださいませ!」

 

 布団の外側から聞こえるくぐもった声に耳をふさぐ。

 パーヤはきっと祖母に言われて致し方なく噂話を流した程度だろう。こんな容赦のないことをするのは長く年を経た何者かに決まっている。

 そうやってリンクを追い詰めて、彼の精神を削って、そして追い出したのは。

 

「私ではありませんか」

「姫様……?」

 

 布団をゆっくりと退かす。パーヤは大きな瞳を潤ませていたが、私には染み出る涙も無かった。

 

「リンクを追い出したのは私なのです、パーヤ」

「でも原因はおばあさまとパーヤが!」

「インパも、パーヤも、手を下していない。実際に出て行けと言ったのは、私です」

「ですが!」

 

 薬が量を間違えれば毒になるように、愛情も量を間違えれば人を苦しめる。リンクのお母さまの所業を知ってそのように感じたのは、そう古い記憶ではない。

 インパの情もまた、決して害悪ではないのだ。ひたすらに私のことを考えて、第一に私の願いをかなえようとしてくれているだけ。行き過ぎた情がどのようになるのかは、よくわかっていたはず。

 あんな事をしなければ息子を守れなかったリンクのお母様に同情をした。

 そんな事をしてでも私の行く道をまっすぐに整えようとしたインパに激怒した。

 なのに私はリンクに同じことをしていた。

 

「彼のためだと言い聞かせ、実際に切り捨てたのは私なのです」

 

 インパが私にしたように、私もリンクが大事だった。彼のことを一番に考えて、どうしたら彼が生きていけるのかずっと考えあぐねていた。

 二人で普通に生きるのは難しい、さりとてあの状況では己を殺し始めたリンクをほっとくことはできなかった。ならば手放すしか手はないと、懇願する青い瞳を無視した。

 

「どうして大切なものほど、何も見えなくなってしまうの」

 

 ようやく戸口に立ったインパのことを、とやかく言う資格はない。

 リンクのお母さまが愛する息子を守るために体を傷つけたように、あるいはインパが何より大事な私の大願を成就させるためにリンクを切り捨てさせようとしたように、私は大切なものを傷つけてでも自分から遠ざけた。

 全員同じ穴の狢だ。

 

「インパ、私はリンクに会いたいんです」

「なりません姫様。あやつをお傍に置いては差しさわりがあることぐらいご承知のはず」

「でも私には彼が必要なの」

「奴の代わりとなる若者を見つけてきましょう、何ともご辛抱を」

「インパっ!」

 

 再びインパの口が「なりません」と開きかけたとき、外で叫び声がした。

 きゃー!ともうわー!ともつかぬ声が、何人分も聞こえている。ふざけている声ではなく、命の危機に瀕した者があげる悲鳴に似ていた。

 とっさに言葉を飲み込み、戸口のインパを押しのけて家の外に出る。先ほどまで気持ちがいいほど晴れていた空は暗く黄昏に染まり、うっすらと霧さえ出ていようかという天気になっていた。

 

「なにごとですか!」

 

 色とりどりの家々をあっという間に霧が隠していく。その白くけぶる向こう側からは、断続的に叫び声が続いていた。何者かが襲われているような、それでいて未だ決定的な怪我人は出ていない。声の質からして苦しんでいるというより、何かにひどく驚いた人たちが慌てて逃げている。それこそ命の危機を感じるような何かから、ただ逃げているだけ。

 ざわつく霧の向こう側で、叫び声が次第に近づいてくる。明確に、それは私の方へ向かってものすごい速度で近づいてきていた。

 一番近くにいたリト族の男性が「うわっ」と大声をあげて転がる。そちらに視線を向けると、大きな鉄色の狼が体当たりをしながら走ってくるところだった。

 

「黄昏さん?!」

「あれが姫様がおっしゃっていた狼の精霊でございますか」

「え、ええ……久しぶりに、こんな近くまで……って、インパも見えているのですか?」

 

 あれはリンクと私以外には見えることがない者だと思っていた。コログと同じで、人ならざる者として常人には見えない。

 ところがインパもパーヤも目で追っているし、幾人もがどうやら黄昏さんに体当たりをされて叫び声をあげている。噛まれはしなくともこんな大きな狼に近くまで寄られれば、大の大人でも恐ろしくて叫び声も上げるだろう。

 青い目の狼は目的をまっすぐ見据え、私の前で止まる。

 もちろん言葉はない。しかしついて来いと言っているようにしか見えなかった。

 

「連れて行ってください」

「姫様なりませぬぞ、いかに女神の使いとはいえ!」

「インパ、私はもう自分に嘘はつきたくない。私はリンクに会いたいんです!」

 

 腕をつかんだしわしわの手を振り払い、すでに走りだそうとしている狼の背を追う。薄暗い黄昏どきの、しかも霧の中で懸命に尻尾を追いかけた。

 城下町の端の崩れたままの塀の隙間から外に出て、ハイラル平原のなだらかな丘陵を行く。しかし霧に埋もれた周囲はどんどん見通しが利かなくなり、次第に木々が増えて明らかに平野とは違う世界に入り込んでいった。

 きっと現世ではない、まるで常世の入り口。広い広いハイラルに隠された秘密の通路を、黄昏さんに導かれて進んでいく。

 黄昏さんは時々立ち止まって待っていてくれるが、決して優しい足取りではなかった。私の気持ちを試すかのように、見失う寸前で足を止めて私が走ってたどり着くのを待っている。青い双眸はわずかに私を責めているようにも見えた。

 

「まって……、今、行きま、すから……」

 

 肩で息をして、1000年は優に生きているであろう木々の根を乗り越え、霧に濡れた森を抜けていく。次第にあたりは明るくなり、黄昏色が消えていく。

 黒い背を一瞬見失い、慌てて駆け込んだ先でさっぱりと木々が切れて視界が広がった。そこで、無数の青い瞳が一斉にこちらを振り向く。

 大小さまざまな狼たちが私を見ていた。

 

「え……?」

 

 老いた狼もいれば、幼い子犬のような狼もいる。傷ついて歩くのもままならない者もいれば、若くガリガリにやせ細った者もいた。毛色も黄昏さんのような暗い毛色から、小金色ほど明るいものもいる。

 そのすべてが狼であり、揃いも揃って瞳は青い。

 彼ら全てが私の顔を見るなり尻尾を振って、駆け寄る力のあるものは真っ先に私の足元へとたどり着いて鼻を鳴らした。

 

「ま、まって、え? どういう、こと?」

 

 霧はすっかり晴れてようやく見通せるようになると、そこは森の中にぽっかりと空いた広場のようになっていた。泉があり、老木に囲まれた穏やかな空間に、多くの狼たちが寝そべったりじゃれ合って走ったり。勝手気ままにしていた。

 黄昏さんに招かれたつもりでいたが、まさか迷い込んでしまっただけなのかと首を傾げる。本当に私は珍客としか言いようがなかった。鷹揚な狼たちは襲うどころか大歓迎してくれたが、さすがにびっくりして腰が抜けそうになる。

 何しろ片手で抱き上げられるような子供から、立ち上がれば私の背丈ほどある大人の狼まで、みんな鼻を鳴らして擦りついて来るのだ。一匹一匹にかまってやりたい気持ちがかすかに沸いたが、でも私はここへリンクを探しに来たはず。

 後ろ髪を引かれる思いで首を振って、私を目の前の狼を見た。

 

「ごめんなさい、リンクを、リンクを知りませんか?」

 

 狼に聞いたってしょうがない。でもあの黄昏さんが連れて来てくれた場所が、全くの無関係の場所とも思えない。

 飛びついて顔を嘗めようとする大柄な狼の首筋を、どうどうと馬のように撫でながらあたりを見回す。しかし当然のことながら、いくら探しても人の姿をしているのは私一人だった。

 いったい何のために黄昏さんは私をここへ導いたのだろうと、困惑して鉄色の毛並みを探す。目の端にとらえた特徴的な額の模様に、思わず助けを求めようとしたときだった。

 

「姫君が困っておられる。嬉しいのは分かるが、みな少し落ち着け」

 

 ひときわ重たい声がして、狼たちが潮のように引いた。

 一瞬、それが黄昏さんの声なのかと思ったが、違う。声の主は黄昏さんの隣で黄金の毛並みを輝かせて伏せていた。

 唯一、赤い瞳を持つ金色の狼。

 あまりにも圧倒的な存在感に、間違いなく先ほどの老成した声の主であると確信する。黄昏さんは金色の狼の脇に、静かに控えて目を細めていた。

 

「あなたが、私をここへ……?」

「いかにも。少々手荒なご招待になったが、許されよ姫君」

 

 よく見れば赤い瞳は右目が切り裂かれてつぶれ、決して狼の中でも大柄ではない。しかし確かな存在感と、他を圧倒するだけの力を感じた。あの黄昏さんと同格か、あるいはさらに上か。

 優しい声にどこか聞き覚えを感じつつ、同時に切れすぎる刃のような恐ろしさを感じた。それは黄昏さんにも感じたことはある。暖かな毛並みの向こう側に、肉を食い破る鋭い牙がある。不思議とその牙が絶対に自分に向かないのが分かっていたので触れていたが、この金色の狼は別格だった。

 まるで透明な牙を喉に突き付けられているかのように冷や汗が噴き出る。だが隻眼の狼は優雅に前足を交差させて、人の身である私が見て分かるほど柔らかにほほ笑んだ。

 

「それで、探しにおいでになったのでしょう」

「私が何を、誰を探しているのか、あなたはご存じなのですか?」

「もちろん、そのためにお呼びしたのです」

 

 赤い目がにこりと笑う。優しい、それでいてどこか寂しそうな目が、周囲をぐるりと見回していた。その視線を追って、私も周りを見回す。

 この目に捉えるのは狼、狼、狼、狼、狼。人などどこにもいない。私の尋ね人はリンク、ハイリア人だ。

 でもこの金色の狼が嘘をついているとも思えなかった。

 

「あなたは、彼らはいったい、誰なのですか?」

「ある一族の伝承によれば、勇者は神獣の姿として現れると言い伝えられているとか。それを彼に教えたのはあなた自身と、本人から聞きました」

「なぜそれを……?!」

 

 かつて馬上で交わした会話をなぜこの狼が知っているのかと、息を飲んで半歩下がった。

 あの時は黄昏さんすら周りにはいなかった。リンクと2人でハテノ村へサクラダさんを会いに行く道中、姿を現さない黄昏さんはハイラルのいずこかで別の誰かの勇者になっているのではないかと言った。

 

『ある一族の間では、勇者は神獣の姿をしていると信じられていると、古い本で読んだことがあります。黄昏さんはそれじゃないかしらと考えているのですが……』

 

 確かに言った。でもある種の比喩だ。

 だって、どうして獣の姿で剣が持てるというのだろう。黄昏さんは確かに尋常ではない精霊の類だと感じていたが、ハイラルで勇者と言えば退魔の剣を携えなければいけない。狼が勇者であるはずがない、そう頭では分かっている。

 でも今、目の前に鎮座する二頭の狼には、得体のしれない気持ちが込み上げていた。

 その黄金の毛並みに指を絡ませてたてがみを梳いてあげたい衝動に駆られる。しかし心のどこかで、それは私であって私ではない誰かの欲求のようにも思った。きっと撫でればこの老成した狼も目を細め喜んでくれるに違いないと確信はあるが、きっと仮初。金色の狼の待ち人は私ではない。

 ではなぜこんなに胸が締め付けられるのだろう。分からない。

 上手く言葉に言い表せない懐かしさ、愛おしさ、あるいは苦しくて切ない何か。

 それら全てを一言で表すのなら?

 

「……リンク?」

 

 十二分に戸惑いながら口から零れたのは彼の名前だった。

 でも黄金の狼は穏やかに目を伏せて頭を垂れた。

 

「あなたの知る姿とは違いますが、そう呼ばれていたこともありました」

 

 リンクだ。

 姿形は違えども、彼もまたリンクなのだ。そしておそらく鉄色の黄昏さんもまた、いつかどこかの時代ではリンクと呼ばれていた。

 勇者はおとぎ話であり、また現実だった。輪廻する魂はハイラルを救うようにと女神に幾度も呼ばれる。そのたびに彼らは名を変え、姿を変え、生まれも育ちも全く違うのに女神のために戦わされる。

 この得体のしれない懐かしさは私の血がきっとそうさせているのだとしても、他方ではとんでもなく悪辣な行為にも思える。勇者の魂は女神に愛され過ぎている。

 

「私の祖は、女神ハイリアは酷なお方です……」

「姫君、哀れに思ってくださるのかもしれないが少し違う。私とこの黄昏は、幸運にも出会えた」

 

 誰にとは問わなくても分かった。

 たぶん『ゼルダ』にだ。

 どうして王家の姫にはゼルダと名付ける習わしがあるのか、その意味を考えたことは幾度となくある。嫌が応にも圧し掛かる名前の重責に、なぜそんな古臭い習わしを後生大事に守っているのか、何度もお父様を恨みかけたこともあった。

 でも今なら分かる。私の名前は、きっと彼らがたどり着くための道しるべのようなものだ。

 黄昏さんはスンスンと湿った森の風を嗅いで、天を向いて気持ちよさそうに白い喉を見せている。その横で金色の狼は視線を地に這わせた。

 

「だが輪廻するたびに必ずあなたに会える私たちではない。時代に必要とされないことも、幼くして病や怪我に倒れることも、あるいは同じ時代に生を受けられずに渇望に狂って死んだ者もいた。名前も容姿も生まれも違う、だが一様にあなたがたの元へ馳せ参じようとした」

 

 静かなこの園に集まった狼たちは、静かに私の回りに付き従っていた。老いも若きも嬉しそうに尻尾を揺らして、青い瞳を輝かせて、ようやく出会えた『ゼルダ』に首を垂れる。

 でも話を聞けば分かる通り、残念ながら私は彼らの『ゼルダ』ではない。彼らは『ゼルダ』と出会えなかった彼が人の身を捨てた後の姿だ。

 

「魂は輪廻しても、思いは残るのですか?」

 

 問うても、金色の狼は答えなかった。黄昏さんもどこ吹く風で、私から視線を逸らす。

 ひょっとしたら答えられないのかもしれない。彼らにも分からないことがあって、でも同じ焦燥を抱えた狼がここに集まっている。

 ならば私の狼もまたこの中のいずこかにいるはずだった。

 

「お願いです、私にお力をお貸しください」

 

 鉄色と金色の2頭の前にゆっくりとひざを折る。

 周りの狼たちは酷く驚いた様子で、たくさんの青い瞳が心配そうにのぞき込んできたが構わない。

 私の願いはただ一つ。

 

「私のリンクを、どうかお返しください」

 

 もちろん彼らがリンクであるならば、誰一人として私の願いには否やとは言わない。でも決して命じるものでもない。姫巫女と勇者の関係とは元々そういうものだった。

 私たちハイリア人は一万年の間に、すっかりと忘れてしまっていた。

 祈るようにすがるように、2人の大きな狼を見る。ゆっくりと黄昏さんが動いて私の近くへ寄ると、我知らず濡れた頬を丁寧に舐めてくれた。大きな舌でぺろんぺろんと、まるで慰めてくれている。ここまで案内をしてくれた道中の刺々しい空気は消えていた。

 この首に抱きつければどれほどよいか。

 でも彼はたぶん私のリンクではないのだ。

 ところが金色の狼はやんわりと鼻先をしゃくって、周りの狼たちに指図する。

 

「ここにいる者すべてがあなたのお探しの者であり、よって誰を連れて行こうとも必ずあなたをお守り申し上げる。これに嘘偽りはない」

 

 一斉に狼たちは吠えた。

 吠えていないのは金色の狼と黄昏さんぐらいなものだ。皆やる気に満ちて、自分が選ばれようと私の周りへと鼻先をぐいぐい押し付ける。

 でも私には分からなかった。どれが私のリンクなのか正解が分からなくて、どの子にも手を伸ばせずに降参気味に手を挙げるしかない。

 

「そうではなく、私は私のリンクを探しているのです。お願いです、私の彼はどこの子か教えていただけませんか?」

「残念ながらこの私ですら、あなたのお探しの者であるとも言える。だがどうしても同じ者を願われるのならば、自ら選ばれるしかない。これと思った者をお連れになればよい、どうせここはあなたと出会えなかったか、あるいははぐれた者しかいないのですから」

「そんな……」

 

 私の知る彼をもう一度反芻しながら立ち上がった。

 誕生日を聞いたことはないのでちゃんとした年齢は分からないが、恐らく私よりも半年ほど年上のはず。最年少で近衛騎士になった天才剣士だった彼は、出会った最初の頃は何を考えているのか全く分からなかった。でも彼が表情を消すに至った原因は彼自身の境遇と私と王家の所業だ。

 

「リンク、どこですか」

 

 以前ならば秒も待たずに現れてくれた彼が、呼びかけても何も答えない。

 それどころか私の視界にどうにか入り込もうと、老いた狼は足を引きずりながら、幼いまだ耳も立たない子は短い足で懸命に追いかけてくる。

 彼らに一度触れてしまえば、期待を持たせてしまうのは分かっている。私はもう自分の知るリンク以外に手を伸ばすつもりはなく、苦しい思いを飲み込んで出来る限り無視を貫いた。

 

「返事をしてお願い、私が間違っていました」

 

 麦藁色の髪をいつも後ろの低いところで結い、実は身長がもう少し欲しいと思っている。体格はハイリア人にしては華奢なのをずっと気にしていたが、それすら私には愛おしかった。

 無骨な手も、服を脱げば予想以上に引き締まった体も、何でも食べてしまう口も、全部忘れてしまったのに真っ先に私を救いに来てくれたその全てが大事だった。

 

「どこですか……?」

 

 これだけたくさんの青い瞳の狼が居ても、どれも彼とは思えなかった。

 何かが違う。

 何が違う?

 分からない。でも私に出ていけと言われた彼が、こうも素直にしっぽを振って一緒に帰ってくれるとは到底思えなかった。

 だからこそ見えたのは、広場の端で背を向けて伏せていた狼だった。

 

「リンク……?」

 

 金色の狼ほどはではないが、毛並みは茶よりも明るい金に近い。狼にしては少し毛足が長かった。紛れもなく成獣になっているのだが、例えば黄昏さんに比べたらどこか華奢な印象がある。

 なによりただ一頭だけ私に背を向けて、体を伏せて小さくなっていた。

 

「あなた、リンク、ですよね?」

 

 声をかけると、ふさふさのしっぽが申し訳程度に揺れた。ぺったりと地面につけた頭の方へ回り込み、その額に手を伸ばす。額の毛並みを撫でてやると、深く沈んだ青い瞳が悲しそうに揺れた。

 彼だと思った。

 いいや、これが私の対。そう決めた。

 広場の中央でこちらの様子を伺っていた金色の狼に、私は声を張り上げる。

 

「この者を連れていてもよろしいですか」

「本人さえよいと言えば、どうぞご随意に」

 

 この場の主である黄金の狼から許されたはずなのに、私が選んだ若い狼はへたりと地面に伏せたまま一向に動く気はなさそうだった。周りの狼たちがどれだけ吠えようとも耳をピクリともさせず、ふいと顔を背けて苦々しく目を細めている。

 怒っているようには見えなかったが、決して目を合わせてくれない。

 身勝手で押しつけがましいねじくれた愛情で、どれほど彼を傷つけたかは自分が分かっている。だから付いてきてくれないそのこと自体が、正解を引いたことの証だった。

 

「酷い我儘を言っているのは分かっています。でも私、やっぱりあなたが居ないと駄目で」

 

 分厚い三角の耳だけがスイっと動いて私の方へ向いて、頭が持ち上がった。すかさず膝をついて、その大きな頭を膝に乗せて頭をゆっくりと撫でる。尻尾は彷徨うように揺れていた。

 

「ごめんなさい。リンク、お願いします」

 

 首輪のある犬とは違って、本人の意思に反して立たせることなどできない。小さな狼のように抱き上げることも出来なければ、他の子たちのように付いてくる気配もない。

 困り果てて伏せたままの毛並みを撫でるしかない。触れても嫌がらない、しかし反応もない。

 どうしたものか。しかし残念ながら私は、もうこの麦藁色をした毛並みの狼しか連れ帰る気になれない。

 頭を抱え、奥歯を噛んで涙が零れそうになるのを堪えた。ここまでかたくなにさせたのは私だから、泣いてよいはずがない。でもこれ以上何と声を掛けたらいいのかもわからなくなり、ほとほと困り果てた。

 そこへ、サクっと柔い草を踏む音がして、周りの狼たちがたじろぐ。

 黄昏さんを従えた金色の狼が私たちの後ろに立っていた。

 

「そなたが征かぬのなら、私が代わりに征こうか。姫君のためならばいくらでも死地に赴く覚悟はあるぞ」

 

 金色の狼のつり上がった口元が意地悪く笑ったその瞬間、今まで伏せてそっぽばかり向いていた彼がぴょこん立ち上がった。耳を伏せ、マズルに深いしわを寄せて、これでもかと白い牙を剥き出しにする。

 頭を低い位置にして唸り声を上げながら横に数歩歩いて、私と金色の狼の間に入り込む。始めて見る明確な意思の表れに、むしろ私が驚いたぐらいだ。周りの狼たちも、あまりの唸り声に驚いて数歩下がる。

 しかし金色の狼はフンと鼻で笑って、幼い子犬でもあしらうみたいに首を傾げた。

 

「そのように牙を剥くぐらいなら、さっさと行け。お前は生きてその方のお傍に侍る機会を得たのだから、無駄にするな」

 

 なるべくぶっきらぼうを装う言葉の端々に、優しさが滲んでいた。

 死地に赴く覚悟があると言ったのは、ハッタリでも偽りでもない。たぶん金色の狼の本当だった。私に選ばれるものならば、きっと彼はこの森を出て私についてきただろう。

 でも選ばれないことも、あるいはどの狼が私の尋ね人かも知っていた。全部知っていて彼は私のリンクに助け舟を出してくれた。

 若くて、まだ思うように振舞えない幼い狼をたしなめるがごとく。

 言われた通り、威嚇を止めたリンクは私の左足にぴったりと体を寄せる。温かい毛並みがぶるっと震えて、見上げた青い瞳は「もう行きましょう」と手のひらを返したように語っていた。

 そうね、行きましょう。不甲斐ない私に付いてきてくれて、ありがとうリンク。

 でも私はここを去る前に、どうしても聞いておきたいことがあった。

 

「一つだけお伺いしでもよいですか」

「なんなりと」

 

 黄昏さんも金色の狼も、ここを出ていく若い狼にはもう目もくれない。だからその赤い隻眼は私だけを捉えていた。わずかに怖いとさえ思うのだが、綺麗な赤い瞳から不思議と目が離せない。

 黄昏さんと金色の狼が別格と思ったのはまず間違いなくその気配の鋭さからだったが、同時に私への執着の無さも他の狼とは異なっていた。

 確かに歓迎はしてくれている。だが私という『ゼルダ』にそこまで拘泥していない。

 ここが端的に言えば姫巫女に出会えなかった勇者の想いが淀む場所だとしたら、彼ら2人だけは纏う空気が異なる理由は一つしかない。

 

「あなたはどうしてここに居られるのですか? あなたや黄昏さんは決して唯一の方に会えなかったわけではなかったのでしょう。だとしたら、あなたの主はどうなさったのですか?」

 

 出会えなかったわけではない。

 彼ら2人は主たる姫巫女に会えた。

 ではどうしてこんな場所にいるのだろう。

 はるか昔、いつかのハイラルで、この狼は人の形をして姫巫女の元で退魔の剣を振るっていた。

 ならば彼らの姫巫女たちは一体どこへ行ってしまったのだろう。もしくは、どうしてこの園へ迎えに来なかったのだろう。私と違ってきっと力ある姫巫女たちだったのだろうし、私と同じで彼らのことを愛していたに違いないのに。

 黄昏さんは背を向けて座り、金色の狼は一拍おいてほんのりと顔を歪める。重苦しい口が開き、一度は閉じられたがその後、意を決して再び開いた口はとてもギザギザしていた。

 

「私もまた、どのような形でもあの方の元に置いて頂きたかった。だがあの方は、私が本来の場所へ戻る方が私のためになるとお考えになった。とても悲しかったが、しかしあの方が私のためを思ってしてくださることを、まさか否定などできなかった」

 

 一息に言い終わってからかぶりを振った黄金の狼は、右側へ顔を向けて揺れる隻眼を隠す。どれだけ時を経ても癒え切らない傷口を、私の疑問がえぐったのだとは分かった。

 ごめんなさいと覇気なく口ごもると、黄金の狼は「何のことはない」と微笑む。しかし見えている方の瞳だけは決してこちらへは向けてくれなかった。

 

「野に放つことが精いっぱいの優しさなのはわかるが、自由を望まぬにとってはただの残酷な仕打ちでしかない。でもその方が大事であればあるほど、私たちは飲み込むしか他にやり方を知らぬのです。そのことを覚えておいてくれるのならば嬉しいです、姫君」

 

 木漏れ日が黄金の毛並みを弾いて輝いたのが、スっと暗くなる。見上げると空から雲が降りて来るように、周囲の森から霧が這い寄ってきていた。

 来たときと同じく霧が立ち込め始め、開いていた道が閉じていく。その前にこの森を抜けて、ハイラル平原へ戻らねばならない。

 一礼してから、足元のリンクを促してきた道を戻ろうと背を向けた。

 

「俺は違いますよ」

 

 これまでに聞いたことのない、若い男の声がする。

 まさかと思って振り向くと、広場の出口まで見送りに来てくれたのは黄昏さんだった。軽やかな青年の声色は、不思議と鉄色の毛並みによく似あう。

 少し茶目っ気のある青年の声は少しだけ憮然としていた。

 

「むしろ姫巫女に願ったんです。あの人が無理ばっかりするから、申し訳ないけど一緒に居させてくれって」

 

 ムッとした視線の先には、来たときと同じく広場の真ん中の少し高いところに鎮座した黄金の毛並みが居た。

 黄金の狼と黄昏さんはおそらく特別で、そして勇者としても何らかの浅からぬ縁があったのだろう。きっとハイラルの歴史書を探しても、詳しくは分からないこと。だが二人の間には、同情でも哀憐でもない寄り添う覚悟が見て取れた。

 が、実はそんなことよりも驚いて私は口をぽかんと開けていた。

 

「黄昏さんって、喋れたんですね……」

「これでも結構な古株なんでね」

 

 フンっと大きく溜息をついて胸を張るのが何だか可笑しくて笑ってしまった。もっとずっと大人びた印象を持っていただけに、なんだか私のリンクとさして変わらぬ年頃の男の子に見える。

 でもそれこそが、黄昏さんが私たちの元へ遣わされた最大の理由だったのだと腑に落ちた。きっとあの金色の狼が現れたのでは、リンクの方も委縮してしまっただろうから。リンクが一番苦しい時に寄り添ってくれたのが黄昏さんで本当によかった。

 黄昏さんは、私の足元に絡みつくようにしているリンクに鼻先を寄せ、リンクの方もおずおずと首を伸ばす。互いにスンスンと匂いを嗅ぐのはたぶん別れ際のあいさつ代わりだ。

 

「お前はお人よしだからな。もうしくじるなよ」

 

 ひときわ低い声を奏でた黄昏さんに対して、それでもリンクは人語をしゃべらなかった。

 喋れないのか、喋らないのかは分からない。ただコクンと、小麦色の毛並みの頭で小さく頷いて見せた。