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インパの屋敷で初めての帰国を希望する元貴族の一団と会った時、まず私の目が行ったのは彼らの耳だった。ただ一人椅子に座る私の前で冷たい板の間に座らされた彼らの耳は、私たち生粋のハイリア人の耳より確実に短く丸い。だが、ところどころに100年前に見知った貴族によく似た者もいて、やはりあの時逃げて行った彼らの子孫なのだと納得がいった。
言葉をかけると彼らからも厄災封印への言祝ぎがハイリア語であったが、どこか訛りがある。すでに彼らが純粋のハイリア人ではないと分かった。
でもそれを悲しく思う気持ちはない。
これからのハイラルは、新しい力を得て新たな方向へ向かっていく。その船出にふさわしい人たちとの出会いになればよいと私は彼らを静かに歓待した。
「ゼルダ様のお許しが頂けるのであれば、我らはできればハイラルの地に戻りたいと考えております」
その言葉は私、ゼルダがこの地の主であることを暗に認めるものだ。まず前段階は問題がなさそうだと、脇を固めるインパと一瞬だけ視線を交わす。
決して、私は貴族たちを特別扱いするつもりなどない。むしろ率先して働いてもらわなければならないと考えていた。
彼らの服装を見れば分かるが、確かに外つ国で安楽な暮らしをしてきたわけではなかろう。だがカカリコ村やハテノ村の農民に比べればずっと良い暮らしをしてきたことぐらいは分かる。貴族の権限を振りかざし、民を置き去りに自分たちだけ逃げて行った者たちの末裔だ。
しかも厄介なことに、100年という長い時間を経た彼らは、厄災をただのおとぎ話ぐらいにしか考えていない可能性すらあった。自分たちの祖先が何をしでかしたのか理解せず、ただ甘い蜜を吸うために戻ってくる虫は要らない。
「昔のような貴族制もありませんし、枯れた土地ではあなた方にも当然働いてもらうことになるでしょう。それでも構いませんか?」
平服する彼らの顔に不安がよぎる。
今日の私はインパに入れ知恵で、巫女服よりもさらに長い白い衣をまとって女神の姿絵に似せていた。しかも手の甲には彼らが女神に血筋と崇めた王家の印。膝の上のさりげなく置いた右手の甲に、その印を惜しげもなく輝かせている。
サクラダさんが人として私を受け入れてくれたのはありがたいが、やはり王家の威厳が必要なこともまだたくさんあった。
「そのつもりでございます。もうハイリア人だからと、長い耳を理由に踏みにじられたくはありません」
「どうか姫様の臣にお加えくださいませ」
再度平服する頭を睨み、表情を覗かれていないのを良いことに顔をしかめた。
外つ国の人は耳が丸いと聞く。あと数百年もあれば外つ国になじめたかもしれないが、人種が馴染むのに100年という時間は短かったらしい。
一方の厄災を封じていた私にはとても長く感じたし、荒廃したハイラルで生きてきた人にとっても100年は長かったはずだ。時間でさえも、立場と人によっては長くも短くも感じる。なかなかの皮肉。
思わずきつくなりそうになる口調を抑え、変わらぬ声色を出すことに務めた。
「私の臣は私が選びます。あなた方に許すのはハイラルへの帰属のみです」
「そんなご無体な」
「あなた方の先祖は厄災におびえた民と国を捨てたのをお忘れですか」
そのように言葉を放てば、彼らは黙るしかあるまい。
確かにあの当時の混乱を考えれば、如何に貴族と言えども命からがら逃げ出すことしかできなかった。それは否定しない。
だが厄災が溢れるに至るまでの私や王家への誹謗中傷、民を見捨てて我先に逃げたのは紛れもない事実だった。それらを鑑みればただで許せるはずもない。
しかしながら、こちらとしても彼らからの協力は喉から手が出るほど欲しい。本当のことを言えば、帰ってこなくてよいと突っ返したいところがだが、そうもいかないのが現状だった。
分からない程度に手に力を込める。
「しかし機会は皆平等に与えましょう。私はハイラル復興のために、人材と技術を欲しています」
「人材と、技術でございますか」
「厄災で様々な技術が失われました。石切り、機織り、製鉄、ガラス工芸、建築、調理、製本、木工、何でも構いません、様々な人材を連れてきなさい。あるいは役に立つのならば書物でも構いません」
一旦言葉を区切り、集まった十数の元貴族の当主たちを見回す。私よりもはるかに年上の者もいれば、私と同じか少し上ぐらいの者もいた。だが彼らは全て、昔の栄華を親や祖父母から聞いて育った者たちばかり。当時を本当の意味で知る者はいない。
私はこれから、これらの有象無象を御さねばならない。足りない部分は女神の威厳を借りてでもいい。決して侮られてはならない。
ぐっと一同を睨みつけるようにして、一層声を落とした。
「そうしてこれからのハイラルに貢献する者を我が臣と認めましょう」
渋々ながら彼らは「かしこまりました」と声を揃えて平服した。
それからの数日は、彼ら一人一人と話す機会を多く持つようにと。これもまたインパからの指示だった。
彼らもすぐ定住できる者ばかりではなく、そのほとんどは一旦外つ国へ戻って一族郎党、あるいは家財道具一式を持ってこの地へ帰郷する。それ以前に面通しを行っておいた方が良いとのことだ。
確かにそれは必要なことだし、元の貴族制の時代には高位貴族のほとんどの顔と名前は頭に入っていたのでさしたる問題ではない。また幸いなことに右手の甲の王家の印があったため、私が100年前の姫巫女であることや王家の姫であることを疑う者は少なかった。
ただ、だからこそと言うべきか、彼らの興味関心は私と背後に控えたリンクに向かう。年頃の息子や娘のいる幾人から彼との関係を確認された。
「俺はゼルダ様の騎士です」
また同じセリフを繰り返す彼の声が虚しく部屋に響く。
間違いではないのだが、その言葉があるたびに元貴族たちの顔がほんのりと緩んだ。確かに血筋を残すには、この者たちの内から誰か一人を向かい入れなければならない。その覚悟もある。
しかし、だからと言ってリンクを手放すつもりはなかった。
ようやくその日に面通しする者全てが去って、夜も更けたころに私室に戻る。温かいお茶を飲みながら長いため息を吐くと彼は笑っていた。笑い事ではないのに、あなたも当事者なのよと言いかけて言葉を飲み込む。
ここから先、彼を守るのは私の役目だ。
「昔の法では、王は公妾を1人まで持つことを許されました」
「こうしょう? って、愛人のことですか」
公の妾と書くだけあって愛人に類するものではあるが、実はそう生易しいものではない。
「簡単に言えば愛人ですが役割としては廷臣と考えた方が良いでしょう。内政・外交の窓口にもなりうる王の妾です、もちろん立場を利用して私服を肥やした公妾もいましたが、王や皇后の不祥事を未然に防ぐ防波堤の役割を果たした素晴らしい公妾も過去にはいました。いわば公妾は王と王妃の戦友になりうる者です。家柄も地位も重視されない代わりに、身分と地位の保証がありません」
王妃の座が政略結婚の末の終身保障なら、公妾は誰もが成れる実力勝負の座。ただし期限に保証がないため、王や王妃の不興を買えば廃されることもある。
本来であれば公妾の子には王位継承権はないが、王妃に子が無く、さらに親類に王位継承権が無い場合にのみ許すことが出来たはずだ。あるいは養子にとってもいいかもしれない。
リンクを王配の座につけ、その時点で私と彼の味方になる何者かを公妾に付ける。子が出来ないことは伏せておき、あまり許したくはないが公妾の子を1人産めばそれを養子に向かえる。借り腹ではないのが幸いだし、公妾が後々反旗を翻すようであればその座を廃せばいい。
自分勝手な愛情のために公妾という立場に置く者を選ぶのは気が引けるし、民に対する一種の裏切り行為でもある。だが毒食らわば皿まで、嘘を吐くなら覚悟を決めて最後までやり通さねばならない。そのようにぼんやりと考えていた。
ところが彼は何を思ったのか、私を膝に乗せて無邪気に笑う。
「だったら俺は姫様を公妾としてもお支えできたらいいな」
違う、そっちじゃないと言おうとした唇は塞がれた。伸びてきた舌が唇を割り入って、あれよあれよという間に手が伸びて。
カカリコ村に数日滞在して私とリンクの関係を見れば、聡い者なら只ならぬ関係であることぐらいは気が付くだろう。周囲に対しては察しろとばかりに、私も振舞ってきた。
他の誰も入る隙間などないのだと見せびらかそうとするたびに、当の本人がひっそりと間を取ろうと離れていく。そのたびに私は、守らなければならない彼の指を探して絡めた。
「リンク、違います。逆です」
「逆? 逆ってことは無いでしょう。でも俺のすべては姫様のものですから、良いように使ってください」
大して人の話も聞かず、嬉しそうに首筋に顔を埋める彼に私は困ってしまった。ハテノ村で幼いころの記憶を取り戻して以来、リンクはまた少し雰囲気が変わった。
私に触れるときはどこか達観したように微笑み、渋く唸るインパを黙らせて私の傍に居座っていた。かと思えば重石の取れた無邪気な顔で、カカリコ村の子供たちと遊んだりもする。
それらすべてがあまりにも自然なものだから不思議だった。
根っこは同じ人のはずなのに、私の傍に居る時とそうでないときとではまるで別人になる。あまりにも不思議に思い、ある時尋ねてみた。
「どうして私と一緒にいるときは、プリコやココナと遊んでいるときのように笑わないのですか?」
すると彼は真顔で目を丸くしてから、自分の指で自分の口角をにゅっと持ち上げた。口元だけ笑った顔は、しかし依然として不思議そうに首を傾げている。
「俺、そんなに顔違います?」
「全然違いますよ」
「そっか、気が付かなかった。……たぶん自然となっちゃうんだと思います。でも全然無理してるわけじゃないから気にしないでください」
本人の言う通り、まったく無理などではないのだろう。当人ですら気が付かないうちに、その場に合った顔を選ぶようになっている。
だとしたらどちらが素なのか、それは火を見るよりも明らかだ。
本来のリンクは、ハテノの緑の豊かなところでのびのびと暮らしていた子供だった。最初にその形を歪めたのは彼のお母様かもしれないが、次に大きく歪めたのは間違いなく私や御父様だろう。彼が模範たれと己に言い聞かせるような立場に押し込んだのは、紛れもなく100年前の王家なのだから。
その呪縛が解けた今、ようやく記憶が戻ってきて本当の彼が顔を覗かせたと言うのに、再び仮面を選ばせるような真似をさせてしまっているのは私だ。確かに人の輪の中で生きようとすれば、相手や場面に合わせて違う顔を見せる必要が生じる場合もある。だがそれが行き過ぎれば心を病むことは知っていた。
「無理はしないでくださいね?」
「大丈夫。でも俺は姫様と一緒に居られるのがいいんだ。そのためなら何でもやるよ」
二ッと笑って見せた顔。その向日葵みたいな笑顔を守るためなら私も頑張りましょうと、人知れず胸に手を当てた。
だからある時、リンクが帰還してきた貴族の数人に捕まって質問されているのを聞いて、背筋に氷水を注がれたように凍り付いてしまった。
「恐れながら、英傑殿は子を持てぬお方と聞きましたが」
迂遠な言い回しだが、明らかに含みのある声。言葉に詰まり何と返したらよいか迷うリンクの吐息が聞こえた。
問うているのはいつぞや私に対してリンクが伴侶であるかどうか、無粋にも正面から確認してきた者だった。周囲を取り巻く者たちも似たり寄ったりの質問をしてきた。
その全てに彼は丁寧に「騎士だ」と返答したはずだった。
「申し訳ありませんが、意味が……」
「ではもっと直截な聞き方をいたしましょうか」
「英傑殿は種無しだと風の噂を聞いたのですが、それは真でございますか」
どこでそのような話を聞いたのか。はらわたの煮えかえる思いがしたが、飛び出して怒鳴りつけたい衝動を抑える。何と言って彼らを抑えるのが最良の選択か、焦る頭で必死に考えた。
久方ぶりに他者とのやり取りで脳に冷や汗をかく感覚に陥る。私はこれが至極苦手だった。
でも彼を守るには、どす黒い貴族どもからリンクを守るには自分が矢面に立つしかない。ともかく注意をこちらに向けねば、そう思って彼らの前に姿を現そうとした。
だが私よりも先に彼がやっぱり一歩前に出てしまう。
「その通りです。俺は子を望めません」
静かに、諦めにも似た声があった。
同時に、隠しきれない歓喜の溜息も聞こえた。
あぁ、腹立たしい。なんて腹立たしい。どうしてそんなことを本人の口をわざわざ割らせようとするのか。性根の腐れ加減に内臓が裏返りそうになるほど怒りが湧く。同時にそれを止められなかった自分にも殺意が芽生るほどに。
わざとらしくトンと足音を立て、彼らの前に姿を現す。
彼らは私の登場に一瞬でゾッとした顔になったが、口元は喜びを隠せず未だに緩んでいた。ようやく見つけた貴族としての復権の糸口に、嬉しそうに揺れる尾が透けて見える。
「リンク、遠乗りに出ます。供をお願いします」
「畏まりました」
失礼、といけ好かない元貴族たちをかき分けて彼がこちらへやってくる。情けなさそうにしているのを今すぐにでも抱きしめてあげたいと思うのに、それが出来ない立場が憎い。
喜色の隠せない下衆どもに振り向き、なるべく冴えた視線をくれてやった。
「私の騎士に用があるのならば、まずは主に申し出なさい」
ぎろりと睨みつけ、彼らの顔をすべて覚える。絶対にこの者たちの中からは、身近に置く侍女すらも認めまいと心に決めた。
それから足早に馬屋まで行って、そこでようやく触れる。拳で背中をトンと叩いた。反応のない背中に額を擦りあて、零れ落ちそうになる悔し涙を堪える。泣いていいのは私ではない、一番辛いのはリンクのはず。
「ごめんなさい、守れなくて」
「いや、俺が」
続く言葉は無く、沈黙が痛いほど耳に突き刺さる。
どうしようもない。こればかりはもうどうしようもない。分かっている。
互いにそれは納得しているのだし、どうしようもないことをどうにかしようなどとは思わない。周りがほっといてくれないことがしんどく、また放置してくれない原因が彼ではなく私であることも憎い。
良い解決方法が思い浮かぶわけでもなく、互いに黙して冷たい空気に震えていた。
その沈黙を破ったのは白馬だった。
いつぞやリンクがシドに攫われた際の白馬はあの後完全に私の馬となり、彼は尾花栗毛の馬を手なずけていた。その白馬が気づかわし気に首を伸ばして私の頭を食もうとした。ぐいぐいと大きな頭を寄せてくるので、慌ててリンクが鼻筋に手をやる。ところが白馬は歯をむき出して嘶いて、彼の手を振り払った。
「怒らないで、どうしたの?」
「馬は感情を読みますから。たぶん俺が姫様を悲しませたって分かったんじゃないかな。……馬を並べると白馬に怒られそうだから、徒歩でもいいですか」
黙って頷き、連れ立って夕暮れ時のサハスーラ平原まで歩いて行った。行き路はずっと黙ったまま、絡めた指が酷く冷え切っていた。
「あんなの、答えずに一蹴してしまえばよかったのに」
「隠せばさらにほじくられます。だったら最低限だけの情報だけで満足して帰ってもらえる方がいい」
「でも!」
反射的に声を荒げて睨んでしまってから、後悔した。
一番傷ついているのはリンクなのだから、守れなかった私が怒りをぶつけていいわけがない。
だからこの言いようのない胸の炎は、いわば自分への怒りだ。力のない、大事なひと1人すら守れない己への憤りだった。
「私はあなたに厄災から救われ、100年前からずっと助けられている。だからこれからは私がリンクを守らなければならないんです」
「俺は十分幸せ者ですよ。だって大好きな方の隣に居られるんだから、それで本当は十分満足しなきゃいけないんだ」
「それでは私が嫌なのです!」
「姫様は欲張りですね」
怒りに任せて空を切った拳がリンクの手に捕まる。彼にしては冷えた手が、やはり無理をしているのだと分かった。
でもそのまま抱きしめられ、耳元で囁く声は温かかった。
「そういうところも大好きです」
この人は。
いつもこうして矢面に行ってしまう。
不甲斐ない自分が腹立たしくて、嗚咽を噛み殺したところでアオーンと狼の遠吠えが聞こえた。2人して慌てて体を離すと、遠くの崖の上に大きな狼の影があった。
いつも乗せていた朝顔の葉っぱのお面をつけたコログの姿は無く、ただ一頭だけ。夕闇迫る崖の縁に立って、こちらを見下ろしている。
「今日はまた随分と遠いな」
「それにまたコログがいません。森に帰ってしまったのでしょうか?」
「……かも、しれません。コログは、その、気まぐれだから」
実はこのところ黄昏さんはちっとも近くへ寄ることが少なくなり、コログの姿もずっと見えない。元貴族たちと顔を付き合わせてばかりの私は、出来ることならあの硬いが温かい毛並みに顔を埋めさせて欲しいと思っていた。それにコログと話すのもとても気楽で楽しい、癒される。
インパとは話はするものの復興に係わる話ばかり。プルアは復興のためにサクラダさんに協力したいことがあるとハテノへ戻り、リンク以外に世間話が出来る相手は世話を一手に引き受けてくれたパーヤぐらいしかいない。そのパーヤですら、姫だからと一線を引いた会話しかしてくれない。
「黄昏さん、近くに来てくれないかしら」
手招きをしてみたが、青い瞳が鋭利に輝くだけで寄ってくる気配は無い。そのうちぐるりと背を向けて、女神の遣いは崖の向こう側に姿を消してしまった。ため息を吐く。なんだかすべてに見放された気分だった。
その日以来、リンク自身と彼を取り巻く空気は一変した。
あからさまに彼を差し置いて私の伴侶に自分の血縁を押し込もうとする者が増え、国を救った英雄を侮る者が増えた。リンクも分かっていて一歩引いたところに控えていることが多い。その顔は固く強張っていた。
辛辣な言葉を浴びせられても言葉少なに返すだけで、決して相手を牽制する気配は見られない。
それが分かってか、元貴族たちのやり口は卑劣を極めた。私の見ていない隙を突いてはリンクに嫌がらせをする。伴侶の座どころか、私を守護する騎士の座からも彼を追い出そうとする勢いだった。
ただ、その程度で音を上げるリンクではなかっただけで。
だが、彼の表情はみるみるうちに曇り、凍り付いて行った。
カカリコ村の子供たちと遊ぶこともなくなり、パーヤと話す時ですら敬語が出るようになる。閨を共にしているときにだけ、ハテノ村で思い出した朗らかな素顔が蘇る。だから肌を重ねるときだけ、思いっきり抱きしめて愛することしか私にはできなかった。
ことが終わると、朝なんか来なければいいのにと思いながら彼の腕の中で眠る日々。復興はしたい、でも次の日が来ないで欲しい。相反する願いに頭を悩ませ、眠りが浅くなる。
だからその夜、目が覚めたのは偶然だったのか、ようやく気が付いたのかは分からない。でも私は彼の体が不自然に震えるので目が覚めた。
「リンク?」
私の体を掻き抱き、寝ているはずのリンクの目元に涙が浮かび上がる。それが見る間に大きく膨れ上がり、形を崩して頬を流れ落ちた。
最初は寝ぼけまなこで、やっぱり綺麗な横顔だと思って眺めていた。だが次第にはっきりと覚醒していくうち、一体何が起こっているのか理解が追いつかなくなる。そのうち、彼の閉じた瞼の奥から止めどなく涙が溢れて始めた。
「あ……あぁ……………」
「リンク……?」
決して起きているわけではない。その証拠に、私が声をかけても頬を撫でても何の反応もない。苦しそうにすすり泣く声が、食いしばった歯の奥から零れ落ちてくる。小さく何度もしゃくりあげながら、彼はは私を抱きしめたまま泣いていた。
「リンク」
無理に夢から起こすのも体に悪いと言うし、小声をかけても眠りが深いのか一向に目覚める様子はない。怖い夢でも見ているのか何度も嗚咽を噛み殺しながら、彼はその夜ずっと泣いていた。
なだめるように髪を梳く。無力な私にはそれしかできなかった。
もう駄目だ。
思い出すのは100年前、何を考えているのか分からなかった近衛騎士の顔。私の傍に控えるリンクは、まるで時を遡ったかのようにあの時と同じ顔をしていた。誰からも模範足ろうとした結果だと本人は言っていたが、それで押し殺したものがこうして噴き出すのでは限界は近いのは見えている。
勇者とて人だ。心もあれば血の通った生き物でもある。
ようやく泣き止んでちゃんと寝入った頭を抱きながら、私は心を決めた。
「これは、あなたのためなのです」
「なん、て……?」
「ですから、城下町の仮住まいへは私一人でと言ったのです」
早々と現地に入っていたサクラダさんから、大きく事業を動かし始めたいと連絡が入ったのはつい先日のことだった。カカリコ村から通うことが出来る距離ではないため、せっかくなので私の分の仮住まいも建ててもらっていた。
村から居を移す具体的な日取りを決める前、私はリンクを呼び出して簡潔にそれを述べた。出来るだけ優しく、捨てるのではなくあなたのためなのだと、努めて真摯に話をしたつもりだった。
果たして彼は、最近では見たこともないほどに動揺し、生唾を飲み込む。可哀そうなほど、青い目が私を穿っていた。
「それは、俺が、要らなくなったって、こと、……ですか」
「そうではありません。……ただ、これ以上私と一緒に居ては、あなたに害が及びます。ですから」
「そんなことはどだって! ……どうでも、俺のことはどうでもいい、ん、です……」
言葉を失って瞬きすら忘れている様子に内心では歯噛みする。突き放すのが我ながら酷いことをしていると分かっていて、しかしこれ以上彼を一緒に連れて行ってはならないと、もう心は決まっていた。
大事だから手放す。
やはり彼はのどやかな土地で悠々と生きている方が似合う。それは私と共にあっては不可能なありえない姿だった。
ハイラル復興を諦めて、帰還してきた元貴族たちの手の届かないところで、2人でのんびりと暮らせたらどれほどよいか。望む心が無い訳ではなかったが、己の幸せだけを選ぶ権利もない。
だって私は100年前に厄災に国を滅ぼさせてしまった張本人なのだから。
私一人が幸せを選んではならない。ある意味これは自分自身に対する罰でもあった。
「あなたには自由を与えます。リンク、今までありがとうございました」
「そんな、待って、待ってよ姫様。どうしてそんな急に」
「急ではありません、ずっと考えていたことなのです。あなたは100年に亘る長い勤めを果たした、これ以上矢面に立つ理由はありません」
「仕えるとか仕えないじゃなくて、俺は、あなたのそばに居たいだけなのに」
心の内ではごめんなさいと呟きながら、私は大事な大事な騎士を見た。
最近は見事にかぶり続けていた硬い騎士の仮面が、涙でボロボロに剥げている。でもここで手を差し伸べてはならない。
自分が悪役となってでも、彼をここから遠ざけねばならなかった。
「では言い方を変えましょう、あなたが宮仕えの出来る人ではないと、ようやく分かったのです。そのような者を手元に置いておくことは出来ません」
「ひめ、さま……」
情けないほど項垂れた麦藁色の頭を、今すぐに抱きしめて全部嘘ですと言いたかった。でもそうやって好きを理由に手元に置いたのでは、彼はいずれ心を病んで死ぬ。その結末が見えた時から、私にはもうこの方法しかなかった。
これからさらに激しくなるであろう権謀術数飛び交う政略の苦境に、乗り込むのは自分1人でよいはずだ。
私は政争の泥沼で、彼は穏やかな山野で。互いに同じ空の元であると分かれば、もうそれだけで本当に満足すべきこと。これ以上欲張っては全てを失いかねない。欲張りだとは分かっていても、一番大事なものは奪われたくない。
「お傍に居ることも許していただけないのですか」
瞳が幼気な青い光を灯し、私に許しを乞う。
首を横に振るのは、ひどく心が痛んだ。
「分かって、ください」
言葉をそこで切ったのは、もう必要以上に傷つけたくはなかったから。何を言ってももはや彼を打ちのめすしかなかっただろう。
よろめいて部屋を出ていく後ろ姿に、手を伸ばしたくなる衝動を堪える。足音が聞こえなくなり、全て終わったと思った瞬間、涙にむせた。
行ってしまった。
傍に居て欲しいとあれほど懇願しておきながら、今度は彼のためだと言って彼を突き放す。決めたのは自分だったが、元より空虚な傍らにはまる片割れを探していたのも自分だった。
どうして一緒にいられないのだろう。どうして女神は私とリンクに安寧をくださないのだろう。忌々しいぐらいに女神は私に冷たい。
ぱたぱたと涙が落ちるに任せてむせび泣いていたところへ、忍び寄る足音があった。まさか戻ってきたのかと慌てて涙をぬぐう。
しかし引き戸の向こう側から現れたのは、リンクよりもさらに小柄な影だった。
「お見事でございました姫様」
「インパ……!」
唯一残った支えに縋り付く。久方ぶりに声をあげて泣いた。