「カカリコ村から絶対助けに行くと思うんだよ」
と、口では言いながら、手はかき集めた武器の手入れする。
使い勝手の良い片手剣を中心に十数本、あとは多対一を想定して間合いの広い槍や大剣も何本か、ライネルを筆頭に魔物たちから奪っておいた。弓も飛距離の長いものを5丁ほど。出来ることならば敵方に見つかる前に制圧したいので、駆け込んだ馬宿にいた行商人たちから矢を根こそぎ買い漁った。資金源は魔物の素材、特にライネルの肝は良い値で売れた。
行商人たちには売る物も買い物も、どちらも異様な顔をされたけれど、傍らにいた黄昏さんとコログは満足げだ。
『そんなことありまセん、ひめみこサマを救うのはゆうしゃサマに決まってまス! さぁ早く行きましょウ!』
「気合入っているところ申し訳ないんだけど、実はカルサー谷の場所が分からない」
『ゆうしゃサマだめだめじゃないでスか』
「そうだよ、だめだめだから俺じゃなくてもいいと思うんだよ」
どうしたもんかなーと首を傾げながら大量の装備を点検していると、「1人で戦争でもおっぱじめるのかい」と馬宿の人に笑われた。案外間違っていないので、苦笑いをしながら獣神の弓の弦をさらに強く張り直す。すると聞いてきた人は顔を引きつらせて逃げて行った。
俺は今から姫様を助けに行く。
心では誰か別の人が助けに行くだろうから自分が行く必要はないと思っていたし、実際その様に口走ってもいた。しかし体だけは言うことを聞かず、勝手にせっせと準備を進めていく。仕方がないので心の方が体に従っているような有様だ。
「あの、カルサー谷ってどこだかわかりますか」
矢文に描かれた逆向きのシーカーマークは、どうやらイーガ団という厄災信奉者たちの象徴らしいと情報を行商人から仕入れたばかり。ただ奴らが指定したカルサー谷の詳細な場所が分からなかった。流れのコログ情報によればゲルド砂漠の方だとは分かったが詳しい場所までは分からなかったので、泊まる馬宿で手当たり次第に話を聞きながらゲルド砂漠の方へ向かっていた。
砂漠。
熱そうだからひんやりする食べ物か薬でも準備しておいた方がいいかもしれない。ぼんやりそんなことを考えながら、空いていた鍋にヒンヤリダケと肉を放りこむ。
「カルサー谷っていえば、確か西ゲルド砂漠だってゲルド族が言ってた気がするが、あそこはおっかない連中の巣窟とも聞くぞ?」
「厄災信奉者のアジトがあるんじゃなかったか? たしかイーガ団って言ったっけか」
「イーガ団って名前なんだ。……厄災信奉者なんか、厄災と一緒にいなくなったと思ってたのになぁ」
「厄災が消えても信じる奴が勝手に消えることはないだろう。奴らだって魔物じゃないんだから」
お礼を言いながら鍋をかき混ぜる。自然とお玉を握る手に力が入った。イーガ団は恐らく人間だ、まさか言葉を解する魔物ではないだろう。
だとしたら気が重たい。喉を掻き切り、心臓を突き刺す感触は、魔物や獣ならばまだしも人間はまだ目覚めてからは経験が無い。自分と同じ人間を殺すのはさすがに気が引ける。
ゲルドキャニオン馬宿を出る時までは確かにそう思っていた。
ゲルドキャニオンを抜けて乾ききった砂漠を渡り、西ゲルド砂漠の北にある峡谷に入り込む。それと分かる敵意を感じて構えると、傍らの黄昏さんは地面を丹念に嗅いでいた。
「姫様の匂いある?」
ワフっと小さく答えた黄昏さんは一直線に走り始めた。その後ろについて走り出すと、大岩がゴロゴロと転がってきた。
罠かと思って見上げると、崖の上から大岩を投げ落とす赤い人影がいくつも見える。こちらの刃が届かないとでも思っているのか丸腰だ。
「舐められてんのかな」
彼らが敵だと判じるや否や俺の体は勝手に背から弓を取って、構え、気が付いたら頭を撃ち抜いていた。
驚いたことに、俺は心の呵責もなく同じ人間も殺せるらしい。
騎士だから、たぶんそのように訓練されたに違いない。だとしても指先一つ震えることなくできてしまう行為が、わずかに恐ろしかった。
「本当に姫様のためなら何でもできちゃうんだな」
『ゆうしゃサマ、こっちでスよ~!』
黄昏さんの背に乗ったコログが、うちわを扇いで飛んできた矢を吹き飛ばしていた。案外コログってブーメランも使えるし強いのかも。もちろん黄昏さんもコログに負けず劣らず走り回り、赤い忍び装束の奴の首根っこをがっちりと咥え、砂と岩の斜面を引きずり回すとポイとどこかへ投げる。武器が牙だから消耗が無いのが羨ましい。
相手からは見えない黄昏さんとコログという味方はいるものの、多勢に無勢なのは相変わらずだったので、出来るだけ奴らから武器を奪って自分の準備した武器を使い潰さないように注意した。完全に待ち伏せされていて、こちらから不意打ちを仕掛けることなど不可能なほど熱烈な歓待ぶりだ。
時機に長刀を持った大柄な幹部も現れては、真空刃のようなものも飛ばしてくるのだが、いかんせん生温い。本当に俺を殺したいのなら、もっと準備しておけばいいのにとさえ思った。
「っていうか、姫様を餌に俺をおびき出すってこと自体、なんか間違ってるとは思わなかったの?」
谷の突き当り、話に聞いた通りアジトらしき洞窟を入ったところで、やけにぼってりしたお腹の赤い忍び姿の奴が壇上に居た。傍に姫様が目隠しに猿轡まで噛まされた状態で縛られて立っていて、ご丁寧に大柄な幹部が姫様の喉元に刀を突き付けている。一見して大きな傷はないようだが、姫様の姿を見た瞬間にゾクリと腹の底で怒りが湧いた。
たぶんふんぞり返ったコイツがイーガ団の頭だろう。ところが頭と思しきそいつは、俺を見るなり分かりやすくぷんぷん怒りだす。
「やいやいやいっ勇者! 俺様の手下どもになんてことしやがるんだ! お前の大事な姫がどうなってもいいのか!!」
「カルサー谷まで来いって言ったのそっちだろ」
「こういう時はお前が姫の代わりに犠牲になるとか、最近の若いもんはそういうことしないのかよ!」
ムッとしながらここまで引きずってきた幹部の1人を無造作に投げつけた。
厄災や、それを守っていた4体の大型の魔物に比べたら、ここのイーガ団たちは全く歯ごたえが無い。
そもそも、うっすらと思い出してきた記憶によれば、100年前からイーガ団の目的は姫と勇者の双方を消すことだ。厄災信奉者を名乗るだけあって、厄災ガノンを封じる役割を持つ姫巫女も勇者もどちらも目の敵にしていた連中だった。
「だって俺が犠牲になっても、どうせ姫様のことも殺すんでしょ? だったら俺が犠牲になる意味ないじゃん」
黄昏さんは誰の目にも映らないのをよいことに、姫様に刃を突き付けている幹部に飛び掛かれる位置に移動していた。目配せをする。
黄昏さんが飛び掛かって刀を奪い取る。見えない何かに襲われたことによる混乱が生じたところで、俺はあの頭とその周囲を固める幹部たちを蹴り飛ばして姫様を抱えて、壁際まで一旦引き下がる。
左右に視線を這わせて考えてみたが、恐らくそう難しいことではない。
「ハイラル城のガノン様を倒したはお前たちだろう?! かくなる上はぁ~……姫巫女からだ!」
やれっと頭の声が俺の耳に届いた瞬間、腹の底からどす黒い何かが膨れ上がった。
自分の中から湧きおこる感情の種類が殺意だと分かったのは、奴らがヒィと悲鳴を上げて体をこわばらせたから。目の端に映るコログすら、黄昏さんのたてがみの中に顔を埋めて震えている。
それほどまでに俺は無意識に、姫様を傷つけようとする奴を睨んでいた。
「姫様に手を出すつもりか?」
幹部はガタガタ震えて、頭は半歩後ろに下がる。俺の膨れ上がった殺意を受けて止めてもなお冷静でいたのは、たぶん黄昏さんぐらいだろう。腹立たしいほど、この青い目の狼は戦場慣れしていた。
周囲に構える手下の一人が震える手で投げたクナイが、俺の首筋を掠って血飛沫が上がる。でも委細構わずに砂を踏みつけて大きく一歩、歩み寄った。
「姫様を傷つける奴は許さない」
「許さないのはこっちのセリフだ! こちとらガノン様の敵討ちだぞ!」
あんな化け物のことなんか知るか。
口では何を言おうとも、俺はやっぱり姫様が傷つくのだけは許せなかった。記憶に基づかない丸裸の感情が、「許さない許さない」と頭の中で繰り返す。ゼルダ姫という人物に係わることになると、どうしてこれほどまでに俺は衝動的になるのか、自分でも不思議だった。
まだ何か大事なことを忘れているのか、あるいはそれよりもはるか昔に何か起因するものでもあるのか。
――遥か昔?
はたと目があったのは黄昏さん。単なる勘だが、この狼は全てを知っているような気がした。もちろん回答をくれるほど生易しい相手ではないのも分かっている、でも。
本当に瞬きする間に思考が大きく一回転する。
――黄昏さんはこの得体のしれない衝動の原因を解く鍵を知っているんじゃないのか?
だが目が合ったのを合図と受け取ったのか黄昏さんは跳躍する。姫様に刀を突き付けていた幹部に飛び掛かり、真っ白な牙が波打つ剣を叩き落した。刹那的な思考はそこでぶった切られる。
刃が地面に当たって音を立てるより早く走り出し、刀を蹴り飛ばしてから大柄な幹部の顔面目掛けて残心の小刀を突き立てた。何も考えなくても出来た。
「なんだぁ?!」
間の抜けた声を出したイーガ団の頭を後ろから蹴っ飛ばし、よろけた姫様を抱きとめると壁際に飛びのいて背後に隠した。全部考えていた通りに体が動く。ザっと音がして、黄昏さんとコログも俺の傍に立ちふさがる。
「遅れて申し訳ありません」
手早く猿轡と縄を切ると慌てた手が目隠しを外して、涙でぐしゃぐしゃの翡翠色の瞳が現れた。
それを見て俺はようやくホッと息を吐く。
「リンク……!」
「黄昏さんの後ろで顔を伏せていてください。あなたはもう何も見なくていい、あとは俺がやります」
姫様の華奢な体を背後に隠し、準備していた剣を抜く。
この後はもうやるかやられるかの斬り合いしかない。俺が人を殺すところなど姫様は見ないで欲しいと思ってから、逆に自分が大義のためなら人を殺せる人間だと知って、遠ざけてもらった方がいいのかもしれないとも考える。矛盾した思いがせめぎ合ったが、口に出すのが億劫で言い直さずに一歩すり足を前に出す。
もうどうでもいいや、助けた後はどうせまたサヨナラなんだし。
あとは衝動と、体にしみ込んだ動きに任せて剣を動かせば、暴力が全て解決してくれる。
鎌みたいな形の剣やギザギザの丸い形の剣が四方八方から突き付けられ、飛び上がった手下たちが一様に弓弦を引く。一つ一つを捌くのは面倒だし、矢が後ろの姫様をかすめるのさえ嫌で、回転切りで一気に叩き斬ってやろうと構えた。
ところがぶわっと後ろから冷たい空気の塊に背を押されて、俺でさえ体勢が崩される。
『矢は任せてくだサい!』
「ちょ、コログ?」
コログのうちわが存外強い風を起こして、弓を構えていた奴らは吹っ飛んで行った。ちょうどいいやと思って、手近なところに居たやつの手首から先を切り上げる。ぎゃーと断末魔を上げている隙に、その隣で構えていた奴の腹目掛けて剣を振り抜いた。
後ろでポンと破裂音がして振り向いたが、姫様に向かって剣を振り下ろそうとする手下もいたが、敢え無く黄昏さんの牙にかかって引きずり倒されてしまう。たぶん何が起こったのか、頭の中はハテナでいっぱいだろう。
「不意打ちなんて勇者のくせに卑怯だろー!」
「命取ろうとしてたやつが何を言うか」
イーガ団の頭がまたぷんぷん怒っていたけれど、全然説得力無いなぁと思って立て続けに3人4人と斬り伏せていった。大柄な幹部も何人か迫ってきていたけれど、打ち込まれる長刀と真面目に力比べをするつもりもない。
軽く身を翻して間隙を縫って滅多打ちにしてやる。そんなことをしているうちに剣は折れたけど、代わりに幹部の持っている長刀を奪ってやった。案外いい刀使ってるじゃないかと目を細めて軽く振るうと、遥か向こうの方で真空刃に当たった奴の叫び声が上がった。
「くっそぉ~! こうなったら俺様が!」
ハイ!と勢いの良い掛け声に合わせて、イーガ団の団長はなんだかへんてこな踊りを踊り始めた。
手を組んでカンチョーするみたいにして、左右にフリフリしている。
「イーガ団の総長……強く! たくましい男! そう、この俺っ! コーガ様が!」
「団長ではないんだ」
バカにしてんのかなって思って、見栄を切った瞬間に予備に入れておいたハンマーを投げておいた。綺麗に顔面にクリティカルヒットして、ぶえええ!と無様な声を上げてひっくり返ったところを馬乗りになって首筋に残心の小刀を当てる。
ひえええと情けない声を上げてジタバタしているオッサン。ここまで一方的だとなんだか少し可哀そうだなぁと思ったけれど、今後姫様の安全を考えるのなら総長のコーガ様とやらは潰しておくのが定石だろう。
「先に手を出してきたのはそっちだから恨むなよ、コーガ様」
「くそぉ~! どけっどけ!」
頭の中は酷く冷淡で、物の考え方は合理的。全ての判断基準の中心はゼルダ姫で、本当にそれ以外は何も勘定に入れていない。これじゃまるで機械みたいだなぁとうそぶいてから、そうでもしなきゃやってられなかったんだろうなーと在りし日の自分に思いを馳せる。
全部の感情に蓋をして完璧な騎士の振りでもしなきゃ、いずれぶっ壊れていた。
ないしはすでに壊れているのを隠すためのやむ負えない仮面であった。
100年経ってすっかり忘れていたものを、俺はもう一度かぶり直さなければならないようだ。ぼんやりとでもそのことを思い出させてくれたコーガ様とやらにはかすかに感謝した。だからせめて一息に殺してやろうと首筋に狙いを定めて小刀を振り下ろす。
振り下ろそうとした。
「リンク待って!」
ピタッと、本当に魔法でもかかったみたいに体が固まった。
姫様の声は嫌が応にも耳によく届く。この透き通る声に俺は起こされ、導かれ、かつての国王陛下の言葉すら耳を貸さずに、姫様を捕えている厄災の元まで直接走って行ってしまった。
ただ戦闘を行っている現状程度ならば、容易に体は停止する。
「はい、姫様」
ゆっくりと振り向くと怯えた瞳が、それでも顔を背けずに俺のことを見ていた。
それで、今までの殺戮を全部見られていたのだなと、分かった。
「もうやめてください」
「どうしてですか」
姫様を守るために戦っているのに、どうしてやめるように言うのだろう。姫様を傷つけようとした奴らに報いを与えて何が悪いと言うのだろう。そんなことより姫様は、どうしてそんな悲しそうな顔をしているんだろう。
堰を切ってあふれ出した疑問に手元がおろそかになる。
ハッと気が付いた時には、馬乗りになっていたコーガ様が消えていた。
「ちくしょー! 覚えてやがれ!」
ポンと消える間際、小手首を返して小刀を投げる。サクッと軽い音がして、唯一残ったのはコーガ様のマゲの先端だけだった。
あーあ。取り逃がした。
これじゃまたいつ姫様が狙われるか分からない。
でも姫様がこれ以上の暴力を嫌がると言うのなら、俺にはもう手出しはできなかった。
「また狙われても知りませんよ」
膝を叩きながら立ち上がり、辺りに散らばる武器で使えそうなものに手を伸ばす。ところが鎌型の剣を拾うより先に、姫様の手が俺の手を握りこんでいた。血みどろの俺の手を、小さな傷はついているものの綺麗な白い手が。
よく見れば俺はたっぷりと返り血を浴びて、頭から爪先まで真っ赤。まだぽたぽたと返り血が滴っている。そんな俺の手に躊躇なく姫様は触れて、当然姫様の手にも赤いものが付く。
「駄目です!」
頭に雷が落ちたみたいに痺れて、慌てて手を振りほどいた。
でも姫様は「なぜ?」と優しく問われる。
「俺は、だから、その……」
「もう傍に居てくれないのですか?」
そんなことを言われたら、もう選択の余地などない。辛くても、何があっても、姫様に言われたら俺はハイとしか答えられない。不思議と俺はそういう生き方しかできなかった。
ただ膝から力が抜けてうずくまる。ゆっくりと尻尾を振りながら寄り添ってくれた黄昏さんの首に縋って顔を埋めた。コログはいたたまれない空気が苦手なのか少し離れたところに居たが、それでも岩陰から顔を半分だけ覗かせている。
「体のことは聞きました」
秘めやかな断罪の言葉に「やっぱりなぁ」とは思いつつ、内臓がぎゅっと掴まれたみたいに痛む。
姫様は聡い方だから、種の残せない男がどんなふうに扱われるかなんて、容易に想像つくだろう。男なら種無し、女なら石女と言われる人が、昔からどんな風に扱われるか知らないわけがない。幼いころから整った顔だ、いい見目だと誉めそやされても、内実を覗き込んだら誰もが嫌がって逃げていく。
おのずとそれを姫様に知らせたのが誰かも予想はつく。
「やっぱり、インパは知ってたんだ」
「そのことでリンクをどれだけ苦しめていたのかは想像するに余りあります。ごめんなさい」
膝をついた姫様の気配に黄昏さんの毛皮の隙間から様子を伺うと、暗い洞窟の広間の中で聡明な瞳が力強く輝いていた。手の届かない宝石みたいに輝くのが綺麗で、目玉の奥の方から零れた涙が目に染みる。こんな風に謝らせたくないから黙っていたはずなのに、結局失敗してしまったわけだ。寄る辺のない感情に苛まれて再度、毛皮の中に顔を埋める。
ところが振り払ったはずの指先が、夕闇近い砂漠の空気に冷やされながら俺の腕に触れた。
そして「でも」と続ける。
「私、リンクに傍に居て欲しいんです」
思わず黄昏さんの毛皮を握った手に力が入った。痛そうに鼻筋にしわを寄せながらも、大きな狼は黙って耐えている。ごめんと心の片隅で謝りながら、それでも縋るものが無ければその場で朽ちて崩れそうだった。
ああああ、と。涙と一緒に獣みたいな声が喉の奥から湧き出す。
姫様が俺を求めてくれている。その言葉に、何も考えずに首を縦に振りたい。でもできない。
「酷いよ姫様。俺が姫様の気持ちに応えられないの分かってて一緒に居ろだなんて、いつか要らなくなったときに俺を捨てる癖にそんなこと言うだなんて、ひどい」
我知らず顔を上げ、俺は姫様に憤懣やるかたない矛先を、たぶん初めて向けた。おそらく100年前は封じていたであろう恨み言がようやく口を突いて出た。
ところが姫様は、辛そうだけれど未だに微笑んでいた。
「どうして一緒に居られないと思っているのですか」
「どうしてってそんなこと……ッ」
当たり前だろと怒鳴るのだけは、寸でのところで堪えて飲み込む。
どんなに鍛えてもそれ以上大きくならない体にイラつき、立って並べばさほど変わらない身長にやりきれない思いで息が詰まった。姫様のお傍に侍るのに相応しく成長できない袋小路に、ただの姫付きの騎士が不要になる日が恐ろしくて真夜中に目が覚める。
姫付きの騎士なんて所詮、厄災が封じられるまでの期限付きでしかない。
万が一にも姫様の想いに応えられるなら、ずっとお傍に居られるはずなのにと考えてしまう。何より、そうやって姫様を諦めきれない自分の心根の醜さに腹が立った。そうやって擦り切れた素顔を大好きな人に知られることが、血反吐を吐くほど嫌だった。
しかし姫様は醜い俺の素顔を見てもなお穏やかにほほ笑む。
「ヴァ・ルッタの中でミファーの魂に会ったんです」
ミファーが。
えっ、と言葉に詰まり、投げ捨てたゾーラの鎧を思い出した。丹念に紡がれた鱗の一枚一枚が、大事な幼馴染の想いを重石のごとく突き付けてきた。だが本人はすでに100年前に亡くなっている。それに会ったと言うことは、まさか亡霊になって出てきたのはハイラル王だけではなかったらしい。
ミファーは、さぞかし俺を恨んでいただろう。何せ最後の数年はまともに取り合った記憶もなく、諦めてくれとずっと目を逸らしてミファーから顔を背けていた。
だから幼馴染の恨み言を受け止めるつもりの覚悟の俺に、しかし続く姫様の言葉には別の意味で背筋が凍った。
「私と違ってミファーは、全て知ったうえであなたを受け入れようとしていました。それなのにリンク、あなたはそのミファーさえも突き放していた。……あなたはただ、相手からの拒絶が怖かっただけだったんですね」
そう言って、血まみれの俺に手を差し伸べていたのは女神の形をした人だった。ハイリアじゃない生身の女神。
黄昏さんの毛皮に縋っていた腕が緩み、手の甲の聖三角に照らされた右手に触れる。温かくてどうしようもなく安心する手に、今まで誰も近寄らせないよう張っていた予防線が音を立てて千切れた。
「俺はたぶん、本当はこれっぽっちも勇気が無いやつなんです。イーガ団みたいに勝てると分かってる相手に立ち向かうのは勇気じゃない、ただの思い上がりだ」
武勇ばかりを見れば、俺は紛れもなく勇者だったと思う。100年前は誰にも負けなかったし、記憶が無くても剣を握れば体は勝手に動いた。厄災を見れば倒し方を本能が理解して、結果的には俺は姫巫女を救い出すに至った。
だが心はとても幼い子供のように柔らか過ぎた。元をたどれば母に受け入れてもらえなかった己が、いつまでも愛情を求めて赤子みたいに泣き続けていたのだと思う。誰かに愛してほしいのに、その誰かに捨てられるのが怖くて差し伸べられた優しさを無視してきた。
「ならば今、少しだけ勇気を出してみて。リンクの心を聴かせてくれませんか」
無い勇気を絞れというのは、なかなか酷な話だ。
でも俺は姫様の手に縋った。嗚咽を吐き出しながら、血で汚れた額を姫様の手の甲に擦りつけて許しを乞う。
「捨てないで」
これが如何に歪な願いかは分かっていた。母に許してもらえなかった自分を、巡り巡って姫様に押し付ける行為に他ならないと、それは分かっていた。でも奇妙なことに俺にはどうしてもこの人しかいなかった。
続く言葉を上手く紡げず、空気を求めて喘ぐ口がはくはくと音を立て、吐息が白く濁る。心臓が言うことを聞いてくれなくて、息も上手く吸えなくて、酸素が足りなくなる視界が暗くなりかけた。
その時、べろんと黄昏さんの大きな舌が目元を舐める。びっくりして顔を上げると、黄昏さんは白い模様の入った大きな頭で俺の体をドンとどついた。
「リンク、大丈夫。黄昏さんも落ち着いてって言ってます」
姫様の左の手がマズルを掻くと、青い目が気持ちよさそうに一瞬細くなった。それから鼻を鳴らし、慰めるように俺の目元からしょっぱいものを根こそぎ舐め取っていく。
約束通り、黄昏さんはずっと俺の隣に居てくれた。不安な俺の背を押してくれる温かさが、兄が居たらこんな感じかもしれないと思わせる。人の形をしていないのに、少し不思議な感覚。でも案外悪くない。
何度か深く呼吸をして、震える喉を叱咤した。
「姫様はいずれ誰か、ちゃんとした人をご夫君に迎えられるのは分かってます。それが自分じゃないことぐらいもう思い出しました。だからあなたから何も与えられなくていい、ただずっと傍に居させてほしいだけなんです」
怒りでもなく諦めでもなく、まだしも自分が出来る限りの形で俺は姫様の隣に居たい。それを願うことぐらいは、許されるんじゃないかと思った。
でも姫様は、申し訳なさそうに笑って俺の頬に手をやる。そしてゆっくりと、本当にゆっくりと口付けをしてくれた。
一体何が起こったのか分からなくて、声も出せずに呆けていた。黄昏さんやコログから見たら随分とアホな顔をしていたと思う。姫様の伏し目がちな瞳が瞬くまで、息をするのも忘れていた。
「実は私、国のことよりリンクのことを考えているときの方がらしいって、プルアに言われてしまったんです。そんなことはないって思ってたんですけど、あなたが助けに来てくれたと分かった途端、嬉しすぎて捕まってよかったなんて罰当たりな考えまで」
「そんなばかな」
「本当に、馬鹿ですよね。本当はハイラルのことを一番に考えなきゃいけないのに、どうしてか今はハイラルよりあなたのことの方が大事みたいなんです」
細い指が返り血の乾き始めて粘つく俺の輪郭をなぞった。目元から頬を通って首筋へ、肩に触れて腕を通り、手の先まで到達すると指を絡めて嬉しそうにする。
あたかも俺の形を今一度確認しているかのようだった。
「私、あなたがどんな姿形をしていても、たぶん大事なんだと思います」
「どんな形」
「ええ、ずっと年上でも年下でも、もしかしたら女の子でも好きになってしまったかも」
照れ隠しなのかくすくす笑っていたけれど、その衝動はよく理解が出来た。100年の時を経て、姫様がおばあさんになっていたとしても俺はたぶん脇目も振らずに助けに行っていたと思う。
俺はゼルダ様という人がずっと好きだった。
こんなこと言っていいのか分からない。100年前なら絶対に言わなかった。でも今は口から出しておかないと絶対に後悔すると思った。
絡められた指を握り返す。
「俺も。ずっと前から姫様のことをお慕いしていました」
「ならばもう、それでいいということにしませんか。私があなたを好きになったのは、あなたが男だからじゃなくてリンクだからですもの」
その瞬間、腰が抜けて尻もちをついた。
そうか、俺は別にこのままでよかったんだ。黄昏さんが狼の形なのに兄みたいに感じたように、姫様は俺の形にこだわらない。
今まで不安を抱えて戸惑っていた心が、ストンとあるべき場所に収まったかのような解放感だった。自分の本性が何なのか分からなくなって以来、ずっと右往左往していた心が自分の座れる椅子を見つけたような感じ。
俺はそこに居ていいのだと、ようやく納得して安堵する。
ああよかった。俺は姫様を好きでいていいんだ。これほど安らぎを覚えたのは、まだ穏やかだった母に抱きしめてもらった時以来かもしれない。
気持ちが急に楽になり、追って恥ずかしさが込み上げてきて、どうしようと耳が熱くなる。ところがハクションと可愛らしいくしゃみが聞こえて我に返った。
「ごめんなさいっ」
「あ、いやっ! 寒いですよね! すいません、砂漠の夜がこんなに冷えるなんて知らなかった、いや忘れてたっていうか。……とりあえず中に入って暖が取れる場所を探しましょう」
本当なら抱き上げたかったけれど、未だに返り血でべとべとだったので姫様の手を引いて誰も居なくなったイーガ団のアジトの中に入って行った。だがいくら探しても食べ物はほとんどバナナしかなくて、煮炊きできる場所もない。一体あいつらはどんな生活をしているのかと逃げて行ったイーガ団には心配の一つでもしたくなった。
ポーチを漁っても、ストックしておいたのはひんやりするものばかりで、少し前の馬宿での自分の浅はかさを呪いたくなる。
「砂漠は熱いかなってひんやりする食べ物しか作ってこなかったんです……」
「放射冷却といって、砂漠は夜になると熱が空に逃げて気温がとても下がるんですよ」
本当に姫様は物知りだなぁと思う。きっとこれから一緒にいたら、知らないことをたくさん知ることになると思う。今まで目を背けてきた様々なことに出会って、時々は嫌な思いもするかもしれないけど、ようやく前を向けるようになった。
それは少し楽しみでもあったが、今はそれどころじゃない。
寒そうにしている姫様をどうにか温めなきゃと考えて、熱源は自分か黄昏さんしかいないなぁと見回す。黄昏さんは少し離れたところで、後ろ足を使って首のあたりを器用に搔いていた。
そういえば酔っぱらって脱いだ時、俺も黄昏さんに温めてもらったっけ。
「ねぇ黄昏さん、姫様の傍にいてくれない?」
しかし何を思ったのか、黄昏さんはしらーっとした顔をして背を向けた。コログを背に乗せたまま、とぼとぼとどこかへ行ってしまう。コログもまた無言で手をフリフリしていた。
これはあれか。自分でがんばれってことなのか。
「えーっと……」
でも俺は、顔は拭いたけど服は血糊がべったりで、こんな状態で姫様を抱っこするわけにはいかないと本日二度目の煩悩を横置きする。でもだったら出来ることは一つだよなと激しく葛藤しながらハイリアのフードを外して剣帯を解いた、さらにはベルトや肩当ても。もちろん立て続けに、血で重たくなったハイリアの服も脱いだ。そこらへんに広げておけば、そのうち血糊は乾くだろう。もとよりあれほど汚れたら買い替えるしかない。
体を覆うものがなくなって、ちらっと姫様の方を見ると口元を抑えて顔を真っ赤にされていた。だよなーと思ったけど、これは不可抗力だと自分に言い聞かせる。
「えっと、あっためるにはこうするしかないから……だめ、ですか?」
「リンクは寒くないんですか?!」
「それなりに俺も寒いので……許してもらえるなら、温かい人を抱っこしてたい、です……」
心もとなく両手を広げて待つ。
はいともいいえとも答えは無かったけれど、ゆっくりと進み出たその人を腕の中に向かい入れる。ゆっくりと腰を落としながら、これは夢じゃないだろうかと生唾を飲み込んだが、冷たい石の床で尻が当たったのでどうやら現実みたいだ。
トクトクと慌ただしい心臓の音がたぶん聞かれている。代わりにこちらには、姫様のはにかんだ吐息が手に取るように分かった。長い金のまつ毛が、決して寒さだけではなく震えていて、翡翠色の瞳がそわそわしている。
それが何だかとても可愛らしくて、思わず金の髪を押しのけて柔らかい唇を少しだけ塞いでみた。
「リンク!」
「だって姫様もさっき俺にした」
怒っているのか照れているのか、紅潮する頬が熟れた果物みたいで我慢できなくなる。大事な玉を抱え込んで何度も啄み、飽き足らず舐め始めると、姫様の方からも次第に口付けが返されるようになる。嫌がる素振りがないのをよいことに、喜び勇む心をなだめながら薄く開いた隙間を舌なぞり、おずおずと返される舌先を吸う。
ますます抑えられなくなって、口を割り開いて滑り込ませた舌を絡めていると、はふはふと空気を求めて少しだけ逃げる。だが逃げると言っても腕の中、それより外へは逃がすつもりはなかった。
「リンク、恥ずかしいです……黄昏さんだって、コログだっているし」
潤んだ翡翠色の瞳が言い訳を探していたが、生憎と黄昏さんはだいぶ前にアジトの外まで出て行ったのは知っていた。
それを伝える、ただそれだけのために、真っ赤に火照った耳に口付けをしてそのまま囁く。我ながら意地悪なことをするなと思いながらも、零れると息がどんどん艶やかになる姫様を前にしたら止められなかった。
「今は近くに居ません」
「んっ……そう、なの、………ですか?」
「うん、気を利かせてくれたのかな」
その夜、俺は図らずも100年来の燻っていた熱を、何より大切だった人と分かち合うことが出来た。まるで腕の中に華でも囲っているのかと勘違いでもしたくなる。あまりに可愛らしくて頭のねじが飛ぶかと思った。
でも事を終えて腕の中で寝息を立てる横顔を見れば、自分の体が殊の外しっかりと役割を果たしたことに驚く。大事なものを抱く己の姿形は、彼女を守れるのなら案外何でもよいのだとようやく気が付いた。