狂犬ちゃん - 24/25

〇月〇日

 リンクが部屋から消えた。

 部屋に残されていたのは血文字で「もう死にます」とただそれだけ。理性を保つために私の体液をすすり、その分だけ自尊心が破壊されて行ったのだろうか。それでも生きて欲しい、生かしたいと願う私とは根本的に相いれないのだろうか。分からない。分からないけれども体は勝手に動いた。

 私は飛び出して、点々の残る血の跡を追う。血の跡を残すほど、もうリンクには余裕が残されていない。見つけるのは容易かった。城内の、人の寄り付かない坑道を通って城の外へ出たところで木にもたれかかっていた。

 声を掛けると慌てた様子でいたが明らかに目が虚ろで、理性がギリギリのところで踏みとどまっている状態。すぐにでも私の体液を、効果の高い血液の方を与えなければならない。

 でも彼はそれを固辞した。もう姫様の血は飲みたくない、そこまでして人間であろうとは思わないと首を横に振った。

 だが私は、またしても諦めきれなかった。目の前で手首を切る。溢れ出る血を見れば、抗えないはずだ。舐めれば戻る理性とは、つまり今は獣の欲に片足を突っ込んでいるということ。容易く抑えが利く軟弱な獣ならばこんなに苦労はしない。

 予想通り、リンクは私の手首から溢れた血を、音を立ててすすった。当然、意識は遠ざかる。ぐわりと世界が揺れる。手放した意識がうっすらと戻ってきたとき、私は彼の背にいた。場所は城門前。小太刀を構えたインパが立ちふさがっているのが微かに見えた。

 インパがどんな顔をしているのか、視界が霞んで上手く見えない。でもたぶん彼女も酷い顔をしているはずだ。握った小太刀がぎらぎらと揺れていて、それがインパの手の震えだと分かった。怒りか恐れか、たぶん前者だと思う。

 リンクは無言でインパに近づくと、おぶった私を下ろした。そしてケープを落として跪いて首元の髪をかき上げる。それ何を意味するのか分かったけれど、力が抜けて声も出なかった。

 「姫様をお願いします、本当は最後までお守りしたかったけど、もう傷付けるばっかりだから」と、確かリンクはそういったと思う。そんなことはない、私は貴方に助けられてここまで戻ってきたのに。でも口が動かない。振り上げたインパの小太刀が夕日を反射していた。

 振り下ろされたら首が落ちる。

 でもいくら経っても小太刀は落とされなかった。インパは優しいから、私はそういう彼女のことも大好きだから。半ば罠に陥れるようだったけれど、私は「助けてください」とインパに声を掛けた。「リンクのためなら何でもします」と言えば、彼女が躊躇するのは分かっている。

 同時に、リンクもまた残る微かな理性に従って「姫様のためなら何でもします。だから殺してください」と言っていた。

 ごめんなさいインパ、辛い二人で挟み込んでしまいましたね。でも貴女なら、きっと手を差し伸べてくれると思っていた。小太刀が音を立てて鞘に戻される。ともかくリンクを部屋に戻さなければ、そう思った時だった。

 物陰から、白い髪のもう一人が飛び出してくる。

 それがプルアだと理解するまでに数秒、また手に何か凶器があると言うことに気が付くまでにさらに時間を要した。

 最初から分かっていたことだった。インパは技術はあるが情に流されてしまう。プルアは逆、隠密としての技術はないが決して情に流されない。だから本当の意味で息の根を止めに来るのはプルアの方――。

 だってプルアの矛先は確実にリンクの方に向いていたから、もう避けるのは難しい。インパも必死で手を伸ばしてくれたけれど、リンクが諦めていた。穏やかに目を閉じて、プルアの突き出した刃を受け入れようとしていた。

 だめ、そんなの絶対にだめ。

「だめ――――っ!」

 あれほど動かなかった体が動いた。

 リンクを無理やりにでも抱きしめて、狙いのずれた刃が脇腹をかすめる。痛い、熱い。

 それ以上に温かい、何か?

 溢れた光が自分の内側からだったことに気が付いたのはだいぶ後になってから。リンクを抱きしめていた右手の甲には光り輝く聖三角が浮かび上がっていた。

 誰に何を言われなくとも分かる、これは私がずっと欲しかったもの。

 自らの傷に触れればすんなりと痛みは引いて、それは願えば叶うのだと分かった。ならばと右手でリンクの頬に触れる。ずっと口輪を付けて膿んでいた傷が、願えばたちどころに塞がって薄皮が張る。自分の手がやっていることなのに、本当に不思議な光景だった。

 彼の方も青い目を見開いて呆然としている。だからその頬を両手で包み込んで額に口付けを落とした。こうすればきっと、貴方を苦しめていた狂気は去るはずだから。瞳に光が戻るはず。

 どうか戻ってきてほしい。

 ところが青い光が戻る前に、リンクは慌てふためきながら頭を垂れてしまった。名前を呼んで顔を覗き込もうとしても、彼は石畳に額をこすりつけて頑として顔を上げようとしない。なぜと問うと、「全て覚えています。詫びて済むようなことではありません。俺は勇者失格です。姫様のお側に居る資格がありません」とかすれ声が聞こえた。

 思わずむくれてしまう。「また私に貴方を鎖で縛らせるつもりですか?」と口を尖らせ、文句の一つでも言わせてほしい。私はもう縛り付けて彼を傍に置きたいわけじゃない。「はい?」と戸惑う声が聞こえたので言ってやった。

「そばにいて下さい。言うことを聞かないリンクはもう十分堪能しました。そろそろ私の騎士に戻ってくれませんか?」

 するとようやく顔を上げてくれた。青い瞳の、私の騎士だった。

 ずっと恋焦がれていた彼がようやく戻ってきてくれた。安堵にむせび泣く。でも彼は私を呼び「口付けを下さい」と私の涙を指で拭う。初めて理性のためではない口付けを求められた瞬間だった。

 なにやら背後ではインパがハワワワと大仰な身振りで驚いていたし、プルアも冷や汗をかきながら凶器を後ろ手に隠していたけれど、もう全部どうでもいい。リンクさえもどってきれくれればそれでいい。

 「では鎖ではなく情で貴方を縛ります。もう逃げることも暴れることもできませんよ。いいですね、リンク?」と聞いたらしっかりと頷いたので唇を重ねた。もう離れないようにと、人として生きられるように、願いを込めて。