朝起きた時、俺は軽く絶望した。
百年前の宿舎だとは、すぐに分かった。固い寝台が体に痛いがそれよりも何よりも、抱き枕にしていたゼルダがいないことの方が悲しかった。
「夢、と言うには生々しいな」
しっかりと地面に足がついている感覚があって、決してこれが夢や幻などではないことを知る。体には変化がないので、中身ではなく体ごと入れ替わったようだ。お腹はすいていたし、もはや会うことはないと顔を忘れかけていた同僚たちが当然のように生きていた。
そうして一つ、大事なことを思い出した。
「貴方も、行くのですか……?」
ゼルダがものすごい嫌そうな顔をしていた。
なるほど、心を開いてくれるようになる以前と言うわけだ。
「それが務めですので」
「……そう、ですか」
ぷいっとそっぽを向かれてしまった。
幸いにも俺自身は容姿にさほど変化がないうえに、彼女も嫌がってこちらを直視しないので、英傑の服が少々寸足らずなことなどは気づかれていない。でもそれにしたって、毎日一緒にいるのに様子が違うと気付かないのはさすがだ。よっぽど退魔の騎士を見たくないのだろう。
単純に計算してみて恐らく10歳近く年下と言うことになる。今の俺にしてみれば幼いゼルダの言動は毛を逆立てて威嚇する子犬みたいで、笑ってしまうほど可愛らしいのだが、当時はこれがだいぶ堪えた。
「ゲルドへ? ですか」
「昨日、そのように伝えたはずですが」
そんなにうろんな声で睨まれても、それは俺であって俺じゃないんだよなぁ。……と言えたら楽なのだが、多分これはバレてはいけないのだと直感していたので、言動をそれらしく見せようと必死だった。
「申し訳ありません」
もし俺が百年後の俺だと知られたら、この先何が起こるか全て白状するように迫られるだろう。
それがどのような意味を持つことなのかは分からないが、少なくとも俺はあの一件を正直に話したくはなかった。話せば多くの人が救われるのかもしれない。
ただ救われることが本当に正しいのか、もし救うことで別の可能性を殺すことになるのではと考えると、不用意に歴史を変えようとは思えなかった。そういうのは全体を見通せるもっと頭のいい人がやることだ。
「とは言ったものの、さすがに勇者失格かなぁ」
などと小声でうそぶきながら、ガリガリと頭を掻く。その動作がまた荒っぽかったのか、妙に視線が痛く感じられたのでちょっと距離をおくようにした。
だから気を抜いていたと言うわけではないが、ゲルドに着く前、カラカラバザールについて早々に撒かれた。見事なまでの失踪だった。
「あーくっそ! やられたー!」
半笑で走り始める。供が一人というのがそもそもおかしかったのだ。
本来外泊するのなら、ウルボザのところだろうが侍女の一人や二人連れていく。ところが何食わぬ顔でゼルダは、供を一人だけに絞ってゲルドへ向かった。最初から単独行動をする気満々だったのだろう。
「とはいえ、だ。行先の予想はつく」
岩陰からこっそり忍ぶ姿を見つけた。行く手には確か、井戸があったと思う。
今も昔も変わらず、ゼルダは薄暗くて狭い場所が好きだ。
そうでもなければあんなお姫様ともあろう方が小さな塔に研究室をこっそり整備しようとは思わないだろうし、今だって裏の井戸をわざわざ改造して秘密基地になんかしないはずだ。彼女のそういうところは百年前から全く変わっていない。
となるとカラカラバザールで姿をくらましたら行く場所はおおよそ限られるし、幸いにもこの後何が起こるかは知っていた。
「意外にも、ゼルダはずーーーーっと気づいてなかったんだなぁ」
直後に、イーガ団がゼルダを襲う。
それはウツシエで見せられた通り、俺と彼女を繋ぐ出来事の一つであった。
だがそれを目撃したのは百年後の俺であって、百年前の俺じゃない。
砂に足を取られて転んだゼルダの元へ駆け寄り、イーガ団の首狩り刀を弾く。どこからどう斬り込んでくるのか全部知たうえで、マスターソードを抜いてすごめば奴らはあっさりと退く。
事実その通りになった。
ただしそれは、あくまでも俺の記憶ではなく、彼女の記憶として見た光景だった。
「……リンク、なぜここが」
記憶のない俺にしてみれば、ウツシエの導きは全て実際にあったことだと信じる以外に選択肢はなかった。だって嘘だか本当だか、確かめようのないことなんだから。俺は百年前にカラカラバザールでゼルダを助けたと、疑うこともなかった。
でもゼルダはこの時、俺が俺でないことに気づいていなかった。
気づかないまま、百年後の俺にその記憶を植え付けた。
そのおかげで襲撃を知っていてゼルダは助かったのだから、やっぱり無理に歴史というのは変えてはいけないのだろう。
「ゼルダ様の先見の明と、あとちょっとした勘違いのおかげです」
「……?」
すっかり腰を抜かしている様子だったので、少し失礼して抱き上げることにした。ううむ、少しだけ百年後よりも軽い気がする。などと言ったら怒られるかもしれないので黙っておくが、抱くなら俺はもう少しふっくらしている方が抱き心地がいいので好きだ。もう少し真面目に食事をとった方がいい。
ザクザクと不安定な砂地を歩く間、彼女は半泣きで俺の首にすがっていた。
怖かっただろう、自分の愚かさにようやく気付いたであろう彼女は、しかしこのときまだ16。ようやく大人らしく振舞えるようになってきた今の俺には、彼女は嫌になるほどいといけない、ただの少女にしか見えなかった。
それがあと一年もたたず、俺のせいで厄災に飲まれる。
その歴史を俺は変えない。変えない代わりに、一つぐらい忠告を残しておくのは別に悪いことではないように思えた。
「あなたはこれから、もっと大変な目に合うでしょう」
「……リンク?」
「ただ、どれだけ時間がかかろうが必ず俺が行きますから、それだけは確かにお約束します」
だいぶ待たせることになってしまうけど、逆に具体的な時間は言わない方がいい。朝寝坊はあまりしない質なのだが、こればかりはどうにも抗えないと思うことにした。
「今日の貴方、少し変です……」
「そうかもしれません。でもまぁ、返す返すもあの時一発、ヤっておけばよかったことが悔やまれますね」
「……はい?!」
今頃、本来この時代の若かりし頃の俺は、ろうたけた年上のゼルダに手取り足取り遊んでもらっているはずだ。おかげさまで本当の意味での本番に臨んでは、落ち着いた経験者の振りをすることができた。だって彼女の前で無様なところなんか見せたくなかったし。
でもあの時、万が一にも勇気を出してしまっていたら、今頃取って返して過去の自分の首を絞めていたところだ。ああ、情けなくって良かった。
「でもそうだな、今頃あいつは気持ちのいい思いをしているんだから、俺だっていい思いの一つぐらいしても罰は当たらないよなぁ」
「……あの?」
「ちょっと目ェつぶってもらえますか」
「はい? これでいいですか」
これで素直に目を閉じてしまうのだから可愛らしい。こんなのファーストキス奪いたい放題じゃないですか。一瞬血迷ったことを考えてから、首をひねる。
よしんばここで彼女の唇を奪ったとしよう。明日からの俺は、きっと今以上に針の筵になるに違いないし、きっと最初に口づけしたと思っていたのが初めてじゃなかったら未来まで追っかけて首絞めてくるのが俺という男だ。自分のことなのでよくわかる。
「そいつはいただけないな……」
唇を奪うのはやめておく。
代わりに前髪のあたりに一つ、口づけを落とすことにした。
了