3 彼の諦観
その日はなんとかいう高位貴族とその息子が謁見に来るとかで、陛下と姫様が揃ってお出ましになる珍しい日だった。
インパから名前を聞いたのだが小難しくてメモを取った。それでも見ながらでないと言えず、すぐに忘れてしまった。不甲斐ないので、誰かが名前をもう一度言ってくれないかなと耳をそばだてていたのだが、残念なことに誰も言ってくれなかった。
「お久しぶりでございます陛下」
「息災であったか」
貴族たちの謁見の申し込みはひっきりなしに続いていたが、たいていは姫様か陛下のどちらか一人が対応すれば事足りる。ところが今日のなんとかいうその貴族とその息子は、どうやらそれでは物足りないぐらいの地位ある人らしい。あまり人の姿形に感想を抱かない俺としては、別日に出会った下級貴族と何が違うのか良く分からなかった。
陛下と姫様と貴族、その息子が交互に何かを喋っていて、これがある程度ルールにのっとった会話だというのは最近分かってきた。だが生憎、そのルールとやらが未だに解明できずにいる。剣で斬れないものは苦手だ。
「是非ともゼルダ様にこちらをと思いまして、異国より取り寄せました」
運ばれてきたのは植木鉢。のっぺりした感じの細長い葉っぱが、自立できずに支柱に寄りかかっている。一目見てハイラルの植物ではないと分かったが、いかんせん学が無いのでなんだかは良く分からない。
ところがそれを見た途端、姫様は目を輝かせた。
「これはもしかして月下美人でしょうか!」
「一目見てお分かりになるとは、さすがゼルダ様」
「図鑑でしか見たことがない植物です。たしか一夜だけ白い花が咲いて、とても良い香りがするのですよね?」
「わたくしどもが言わずとも何でも知っておられるのですね」
しばらく花の話題が続いた。貴族同士の会話は、政治的な話が比喩の皮を被って応酬されるので、普段は分かった顔をしてやっぱり分からないなぁと思って聞いている。
しかしその日の花についての会話はさすがに分かった。大きくてものすごくよい香りのする白い花が、たった一夜だけ咲く珍しい植物。そうなんだ、と思うと同時にその花が咲いたらきっと姫様は喜ぶだろうなと思った。
一夜で数輪が一度に咲くそうだから、そのうちの一つぐらいなら摘んでもいいんじゃないのかなと思う。それで姫様の御髪に飾る。多分とても似合うと思う。
「リンク」
もちろん名を呼んでくれたらすぐにでもお傍に行く。姫しずかの意匠がお好きなのは知っているが、たまには異国の花の甘い香りのする指で俺の帽子に手を取っていただくのもいい。それから、それから?
「リンク?」
気が付いたら姫様の顔が間近にあった。息を飲む。
自分はいったい今、何を考えていたんだ。
「はい」
「大丈夫ですか」
「……はい、申し訳ありません」
気が付けばすでに謁見は終わって控えの部屋にいた。どうやらあまり意識せずに姫様の手を取って動いていたらしい。体だけでも動くなんて随分と器用なことができるようになってきた。それにしたって職務中に一体何を考えているんだろうかと、自分のことながら吐き気がした。
夢にまで見るほど、あれからも姫様の遊びは続いている。
誰もいない時を見計らって俺を呼んで帽子を取って、口づけをしてくださる。最初こそ驚いたけれど、今では名を呼ばれるのを心待ちにしている自分がいる。みんなの姫様がその時だけは、俺しか見ていないから。
もちろん相応の罪悪感はあるのだが、それよりも最近は思わず姫様を抱き寄せたくなる衝動の方が心配になる。だって俺の背が伸びたからって、姫様は目いっぱい背伸びをされるから、ふらつくのを見たらどうしても手を出したくなる。でも抱き寄せたらもう我慢ならなくなると思って、いつも必死で手を後ろに組んで、少し顔を傾けてただ待つことにしている。
そこへきて、あんな白昼夢とくれば、どれだけ鈍感な俺だってさすがに分かった。俺は姫様のことが好きなんだ。ようやく分かってきた。
姫さまが幸せそうにしている時に俺が嬉しいのは、姫様が俺の好きな人だからなんだ。どうしてこんな簡単な理屈に気が付かなかったんだろう。
だから次に陛下に褒賞を問われるのが億劫だった。もし今、欲しいものを聞かれたら間違いなく姫様だと答えてしまう。でも『ください』なんて口が裂けても言えない。いずれどこかの相応しい人と結婚するべき方だから、俺のような平民出の騎士はお呼びではない。でも他に欲しいものは無い。
代わりの適当な答えを探す時間が欲しい。案外これが今の切実な願いだ。
俺はこの気持ちをいつか殺さなければいけない。上手くとどめが刺せるか心配だが、他でもない姫様のためならやるしかない。それで姫様のことが好きな俺を上手く殺せたら、今度こそちゃんとした騎士の顔をして傍に控えよう。それまでは申し訳ないけれど、姫様が好きだということに甘噛みさせてもらって、時々帽子を取ってもらう。
こんな歪んだ状態がいつまで続くのかは分からないが、さほど先の長いことではないと察していた。こう立て続けに高位の貴族たち謁見に立ち会えば、貴族の決まり事がにいくら疎い俺でも姫様のご婚礼の足音に気付けた。
控えの部屋に運ばれて来た植木鉢を覗き込んで、姫様は嬉しそうに色々としゃべっていた。学術的なことは聞いても良く分からなかったが、目を輝かせているだけでいい。上から葉を見て触るだけでは飽き足らなくなったのか、おもむろに植木鉢を抱えて持ち上げようとしたので、さすがに考え事を横に置いて手で制した。ドレスに土が付いたら侍女がまた泣くのに、この方は一体何をやろうとしているんだか。
近くで見ると厚みのある葉っぱなので、揚げたら案外いけるんじゃないのかなぁと思う。もちろんそんなことをしたら首が飛ぶぐらい高いものだろうから、想像するだけにとどめておいた。何事も想像するだけなら罰は当たらないはず。
「リンクも月下美人が気になりますか?」
「はい」
「じゃあ花が咲いたら一緒に見ましょう。とても大きく美しい白い花だそうですよ」
ほらやっぱり。好きなものを好きなように愛でている姫様は、本当に生き生きしていて見ているとこっちが嬉しくなってくる。俺にとってこれが一番の褒美で、他に褒美が思い浮かばない。
植木鉢を早く持っていきたいと言われ、つまり姫様と植木鉢を一緒にお部屋までお送りする。手を引けないのが難だけど、姫様は物珍しい葉っぱに手を出しそうになっていたので今日は手出し無用かなと。ともかく先に陛下のご退場を待った。
ところが、陛下は足を止めて一つ考え事をした後に、こちらへ歩み寄る。
「この後少し、リンクを借りても良いか」
姫様はもちろん、俺もきょとんとして顔を見合わせた。何かしでかしたかと心当たりを思い出そうとする。今の謁見では何とか粗相しなかったようだし、記憶を数日遡ってみても何もない。
「もちろん、構いませんが」
「なに、たいした用ではない。すぐに済む」
陛下はそれっきり口を噤んで出て行かれた。姫様に下から顔を覗き込まれたが、首を横に振る。本当に思い当たる節はない。
「何かあったのでしょうか」
なんだろう。胸騒ぎと言うほどではないが、落ち着かない。褒賞の話だったらそう言ってくれるはずなのに、そうでもない。
先ほどまで嬉しそうだった姫さまも、少し眉を潜めていて、せっかくの笑顔が消えてしまった。残念だなと思ったが、今は陛下のお召しの方が先。
姫様と植木鉢を私室まで送り届け、俺はその足で陛下の元へと向かう。ノックは四つ。中からお声がかりがあって、失礼しますと扉を開けると陛下ただ一人。他に侍従もお付きの騎士もいない。人払いがされた跡。不自然なまでに静まり返った執務室で礼を取る。
「参りました」
「わざわざ済まんな」
「いえ、何か不手際がありましたでしょうか」
共に戦った陛下だから、そんなに些細なことでお叱りを受けるとはあまり思っていない。だったら何を言われるのか、不安を顔から消して言葉を待った。
外には穏やかな空気が凪いでいるというのに、陛下は眉間にしわを寄せていた。少なくとも良い話ではないというのだけは分かる。
「月下美人とかいう花、ゼルダが大層気に入っておったようだな」
「はい」
「貴族がわざわざ息子を連れて、花を贈る意図を考えたことはあるか」
「……多少なりとは」
「ところが、その花が咲いたら見ようと誘うのはおぬしだ」
「はい」
重たい問答の果てに何があるのか、見て見ぬ振りをしたい衝動に駆られる。
「今日のゼルダの態度を見ていて分かったことがある」
「はい」
じくりと心臓のあたりが痛んだ。
「あれは、おぬしのことを好いているな」
姫様が俺を、あるいは俺が姫様を。どちらにせよ、それはならぬこと。
息を忘れて、つばを飲み込む。張り付いた喉が空気を求めても、こわばった喉が動かない。どう意識を動員しても、見開いた目を伏せることができない。
姫様の悪戯を見られたのだろうか。言い知れない焦りが駆け巡る。周りに誰の気配もないときにしか姫様に帽子を取らせたことはない。それをどうして陛下が言い当てられるのだろう。
いや、見られていなかったとしても、さきほどの問答を振り返れば明らかか。姫様と俺の会話がそもそも隠せていなかったのだろうか。
「その様子だと、気づいておったな?」
はい、と嘘偽りなく答えねばならない。自分の主が例え姫様だったとしても、陛下には逆らえない。はいと答える以外に選択肢はないはずなのに。
「姫様をどうか責めないでください」
懇願するしかなかった。
あの人をどうか罰しないで欲しい。あの人から笑顔を奪わないで欲しい。もし罰を受けるのなら俺が身代わりになるから、どうかやめて欲しい。
全部吐き出してしまえればいいのに、張り付いた喉が何も言い出せない。頭を下げることすら忘れて、ひたすら目の前の渋い顔に縋る。
ところが陛下は一向に責める気配なく席を立った。
「いや、むしろそなたにはすまないと思っている」
小さな疑問が音を立て始める。なぜ陛下が俺に謝られるのだろう。俺が姫様をたぶらかしたようなものなのに、ちゃんと断ればあんなに何度も隠れて帽子を奪いに来るようなことは無かったはずなのに。嬉しそうに指を絡めて、俺の顔を誰からも見られないようにして、口付けなんか重ねなかった。止めなかったのは俺だ。
陛下が窓際へ立つと、大きな背中で外の風景が遮られた。ため息が長く続く。
「ここから先は、あれの父親の独り言だと思って聞け」
陛下の表情はうかがい知れないが、少なくとも姫さまも俺も、何か罰を受けるようなことはないように見えた。ひとまず安堵をするが、それでも不穏な空気は収まりを見せない。
戦場よりも何よりも、こういう空気は苦手だ。
「儂とて、娘を好いた相手と添わせてやりたい」
一国の主ではなく、子煩悩な父親がそこに見えた。自分にも相手にもなかなか厳しいお方とは知りつつも、それが今は肩を落として娘の幸せを願っているただの父親。
しかも俺ごとき若造を捕まえて、娘の相手として選んでもやぶさかではなかったともとれる言い回し。勿体ないお言葉に身震いがした。俺は、陛下から多少なりとも認めてもらえていたのだ。
「しかし騎士団派から儂が王配として選ばれた時、次の王配は貴族派から選出するという盟約が存在するのだ。すまぬ……」
なんだ、そういうことか。急所はそこにあったのか。
すっきりと心が晴れて、殺すべき自分の感情にとどめを刺す場所を見つけた。一度見つけてしまえば武人の性で、相手の弱みから目をそらすことはできない。いつか殺さねばではなく、もう殺すことができる。ならば殺そう。
勇者と言えども人間だからなのか、刃を突き立てたら血が噴き出て、口の中に鉄の味が広がった。
魚を育てても鯨にはなれないように、俺はどれだけ努力しても俺以外にはなれない。厄災を封じて退魔の騎士は役割を終えたけれども、まだ姫様に必要とされたかった。だから近衛騎士に取り立ててもらったとき、まだ俺にもできることがあると嬉しかった。
俺は騎士としてでなければ、姫様のお傍に居られない。陛下の明かしてくれた盟約とやらは、それがさらに明白になっただけだ。
ならば騎士として完璧に振舞えるようになるまでだ。
「それでもリンク、ゼルダの傍にいてくれるか」
非の打ち所がないように、決して俺のせいで姫様が悪く言われないように。それがひいてはあの人の笑顔を守る。今の俺の出来ること。
陛下の言葉に、力強く頷き返す。
「無論です」
加えて、姫様には俺が騎士以外の何者かである期待を持たせてはいけない。ならばやることは分かりきっている。
姫様に帽子を取られても、俺が騎士であり続ければいい。